第16話

「じゃあ帰るか」


「うん」


 陸人がすっと立ち上がる。その動きに自然と目を奪われた。目の前の彼を改めて見上げると、やはり意外なほど背が高い。昔の小さな少年の姿が、どこにも見当たらないことに気づいて、胸がざわついた。


 レジに向かい、割り勘しようと財布を取り出しかけたその時だった。


 レジの向こうから「もうお会計済んでます」と店員の声が聞こえる。陸人を見ると、手に持っていたクレジットカードをさっと財布にしまうところだった。

「いやいや、俺も払うから!」と慌てて言うと、彼は微笑みながら首を横に振った。


 彼の言動は、どこか大人びていて、俺はもう何も言えなくなった。


「いいから。さ、行こ」


 陸人は何も言わずに俺の手を取り、そのまま外へと連れ出した。力強くも優しいその手の温もりに、一瞬、言葉を失う。抵抗する間もなく店の扉を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。


 星空が広がる夜道を歩く陸人の背中は、どこか頼もしく見える。


「本当にいいの?」


「うん。久しぶりに会えたし、嬉しいから奢らせて」


「ありがと」


 隣にいる陸人の横顔が、信じられないほど洗練されて見える。昔、幼い頃の彼は無邪気で少し不器用な少年だったはずだ。


 それが今、こうして目の前にいる彼は背が高く、体つきも引き締まり、まるでモデルのようなオーラをまとっている。


 本当に、あの陸人なのだろうか──。


 数年という時間が、人をこれほどまでに変えるのか。記憶の中の彼と、今の彼が同じ人物だと、どうしても完全には結びつかない。


 それでも、思い出話をするうちに、二人だけが知る秘密が次々とよみがえり、胸の奥がくすぐったくなった。確かにこの人は、あの陸人に違いないのだと納得させられる。


 ちらりと隣を見る。蒸し暑い夜の湿気がまとわりつく中、彼の横顔は不思議なくらい涼しげで、どこか穏やかだ。その肌の滑らかさ、鼻筋の通り方、そして何気ない仕草の一つ一つが、見る者を惹きつける。こんなにも綺麗だなんて、少し卑怯じゃないかと思うくらいだった。


「行こ」


 彼のその一言に、我に返る。改札を抜け、静かに並んで歩き始めた。足元で響く靴音が、二人の間に広がる微妙な距離感を埋めるようだ。

 外に出ると、空気は蒸し暑く、湿気が肌に張りついてくる。その不快感を忘れさせるように、陸人の声が耳元に届くたび、心が少しずつ和らいでいく。


 電車の中は空いていた。俺たちは隣同士に腰を下ろす。彼とこうして隣に座るのは、いつ以来だろう。肩が触れる距離にいることが妙に気恥ずかしい。


 ふと、彼の長い足が目に入る。何も意識せずに自然に組まれたその姿勢が、どこか映画のワンシーンのようだ。


 俺の頭の中で、勝手にストーリーが浮かび上がる。「もし俺が女だったら・・・・・・」なんて、考えなくてもいいことが浮かぶ。

 彼との身長差は理想的なカップルそのものに見える。


 どんなに周囲が羨む存在だっただろうと思わず考えてしまう。


「・・・・・・なに?」


 俺の視線に気づいたのか、彼が少し微笑んで問いかけてくる。その柔らかな声に、心臓が跳ねた。


「あ、なんでもない・・・・・・」


 咄嗟に視線を逸らし、窓の外に目を向ける。暗闇の中を走る電車の風景が、二人の間に一瞬の静寂を作り出す。

 次第に電車の音と規則的な揺れが、眠気を誘う。気づけば、意識がどんどん遠のいていいった。


──次の瞬間、肩を軽く揺さぶられ、目が覚めた。


「着いたよ」


 目を開けると、陸人の顔が目の前にある。その声は耳元で響き、まだ少し夢の中にいるような気分だった。しかし、状況を理解すると、驚きと少しの恥ずかしさが胸を襲った。俺はいつの間にか、彼の肩にもたれかかって寝ていたのだ。


「ごめん、寝てた・・・・・・?」


「うん。ぐっすりおねむ。でも、気にしなくていいよ」


 陸人はそう言いながら、どこか満足げな顔をしていた。その表情に気づくと、さらに顔が熱くなる。周りの視線も気になったが、彼の様子を見ると、むしろ嬉しそうに見えた。


 駅に降り立つと、外の空気はさらに湿気を増していた。昼間の暑さを吸い込んだアスファルトから、熱気が湧き上がってくる。その不快感も、隣にいる陸人の存在で薄れていく気がした。


「うわ、蒸し暑い」


 そう呟く俺に、陸人が何気なく返す。


「まあ、夏だしね。でも、こういうのも悪くないよ」


 彼のその言葉に、少し驚いた。この湿気すらも、彼にとっては特別な瞬間の一部なのだろうか。その余裕ある言葉に、少し憧れすら感じてしまう。


 夜道を並んで歩く俺たちの影が、街灯の下でゆらゆらと揺れる。かつての俺たちの記憶も、こうして再び交わり始めているように思えた。

 この夜が終わるまで、少しでも長く、彼の隣にいたいと思ってしまった。


「う、暑い」


「すぐ帰ろ」


 とにかく暑かった。

 短いやりとりを終え、それぞれの帰路についた。もっとも、途中までは同じ道だったが。

 夜風が肌をかすめる中、俺たちは並んで歩き続ける。無言の時間が心地よかった。


 ふと、昔もこんなふうに一緒に歩いて帰った記憶がよみがえる。


 学校帰り、夕暮れの下、どこまでも続く田んぼ道を二人で歩いた。陸人がふざけて小石を蹴り飛ばしたり、些細なことで笑い合ったりした日々。


 今歩いているのは、あの頃とは全く違う街並み。見慣れない高層ビルと明るすぎる街灯に包まれた道だけど、不思議とあの頃の景色が重なって見えた。思い出の幻影が目の前に広がるような感覚に、懐かしさが胸を締めつける。

 目を閉じれば、あの頃の二人が浮かぶ。それを追いかけたいのに、手を伸ばしても届かない。


 時間の流れに逆らえない現実が、胸の奥に重く沈む。涙がこみ上げてきそうになるのを必死でこらえた。


 でも今、隣には陸人がいる。違う街、違う時代、それでもこうしてまた並んで歩けている。それはきっと、奇跡のようなものだ。あの頃には戻れなくても、こうして共有できる時間があるだけで十分だと思える。そう思い巡らしていた。


 ふと、陸人が振り返った。


「どうした?」


 その一言で、不思議と胸の痛みが和らぐ。ただ彼と並んで歩ける。それだけで十分だった。

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