第13話

 店を出て、二人でふらふらと駅前を歩き続ける。時刻は十五時を少し過ぎた頃。夏の日差しがじわじわと肌を暖め、蒸し暑いが風が吹くと心地よい。


 雄也は食べすぎたのか、それとも急いで食べたせいなのか、脇腹を押さえながら苦笑いを浮かべていた。その姿が少し不安そうで、自然と声をかけてしまう。


「大丈夫?」


 雄也はすぐに顔を上げ、慌てて笑顔を作った。


「あ、大丈夫、大丈夫」


 そう言うけれど、本当に平気なのかは分からない。それでも、あまりに気まずそうな彼の顔に、これ以上追及するのはためらわれた。


 少しだけ心配な気持ちを抱えながら、軽く提案してみる。


「ちょっとカフェでも入ろうか」


 その言葉に、ふと記憶がよみがえる。数年前、再会したあの夜。雄也と過ごしたあのカフェでの時間が、ふいに脳裏に映し出された。ピアノの柔らかな旋律が店内に響いていて、ショパンの《子守唄ニ長調》が流れていたっけ。


 あのメロディは今も頭の片隅に焼きついていて、耳にするたび、懐かしさと切なさが胸を満たす。


「うん、ちょっとだけ休憩したいかも」


 そう呟くと、雄也は少し頷き、気を使わせてしまったとでも思っているのか、申し訳なさそうにしている。


 二人でそのまま三分ほど歩き、目についたチェーン店のカフェに入る。店内には多くの女性客が集まっていて、若い人たちはパソコンを開いて作業していたり、高齢の人は一人で本を読んでいたりと、それぞれの時間を静かに過ごしている。


 カフェの中は、キーボードのタイピング音や本のページをめくる微かな音、食器のカチリという音が重なり合って、居心地のいい静寂が広がっていた。俺たちは窓際の席に座り、水を持ってきてくれた店員に軽く頭を下げる。


「雄也、大丈夫?」


 心配そうに尋ねると、彼は慌てて首を縦に動かす。


「あ、大丈夫、大丈夫。もう少しすれば楽になると思う」


「ならいいけど」


 言葉はそう返したものの、ふと目をやると、彼は少し顔色を戻し、さっきまでの苦しそうな表情が消えていた。


 ようやく安心できた。


 食べ過ぎて胃がびっくりしたのだろう、体が小さくて消化に時間がかかるのかもしれない。そんなことを考えながら、つい自分も甘いものが食べたくなり、メニューを開いた。


「え、まだ食べんの?」


「ん? なんか甘いのが欲しくなって」


「あっそう。じゃあ、俺も少し欲しいかも」


「お腹大丈夫なの?」


彼の体を心配しつつも、少し意地悪に尋ねてみると、また彼は慌てて笑顔で答える。


「大丈夫、大丈夫」


その様子に、俺もついクスリと笑ってしまう。


「ならいいけど」


 そう言って、メニューに目を戻す。すると、雄也が興味津々にメニューを覗き込んで、ある一つの写真を指差した。


「これ! 抹茶のパンケーキ!」


 雄也の瞳が楽しげに輝き、無邪気に指を差す姿が、少しだけ心を揺さぶる。抹茶ソースがかかった四枚重ねのパンケーキを注文し、それが届くのを待つ時間は、どこか特別なもののように感じられた。


 だが、不思議なことに、次の言葉がなかなか出てこない。微妙な沈黙が続き、雄也は手元のおしぼりの袋をいじり始めた。俺は頬杖をついてその様子を観察しながら、彼が何を考えているのかをぼんやりと想像する。


 ふいに、心の中で、昔のことを尋ねたくなった。


「ねー。中学とかどうだった?」


「中学? 楽しかったよ。あーでも、仲のいい友達がいたんだけど、その子、二年生の時に引っ越しちゃった」


 俺の問いに少し考えた後、雄也が静かに答えた。その言葉を聞いて、胸に小さな希望が灯る。


 五年前とはいえ、思春期にいろんな経験をしている時期だ。忘れてしまっても無理はない。

 でも、それでも、少しだけ期待してしまう。


「その人、どんな人だったの?」


 一瞬の静寂のあと、雄也は懐かしそうな表情を浮かべた。


「んー・・・・・・なんか、陸人みたいな人だった」


「あ、そうなの?」


 驚きと共に、胸が高鳴る。思い出してくれるかもしれない。そう感じた瞬間だった。


「その人、どんな人?」


「俺より背が低くて、顔がシュッとしてた感じ」


 関西の言葉で「シュッとする」というのは、かっこいいとか洗練されているという意味だった。嬉しい。思い返せば、あの頃は確かに俺は雄也より背が低く、気が弱かった。


 小柄で頼りない俺を、雄也は子供ながらに守ってくれていた。

 ずっと、俺の隣に立って、優しく接してくれていたんだ。


「その人に、また会いたい?」


 少し意地悪な気持ちと期待を含めて尋ねてみると、雄也は真剣な顔で答えた。


「うん、会いたいよ。一番好きだったんだ」


 心臓が一瞬止まったかのような感覚がした。「好き」という言葉の意味を一瞬、どう受け取るべきか戸惑ったが、彼はすぐに慌てたように弁解を始めた。


「あ、そういう意味じゃないよ! 親友っていうか、お気に入りっていうか・・・・・・そういう感じの意味で!」


 焦った様子で手を振りながら言い訳する彼が可愛くて、つい微笑んでしまう。心の奥底にあった秘密を、いまこそ明かしてもいいのかもしれない。勇気を振り絞り、俺は小さな声で告げた。


「あのさ、その人・・・・・・俺だよ」


 たった一言だったけれど、その瞬間、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。ずっと言いたかったことがようやく形となり、言葉として伝わった。


 恥ずかしさよりも、また彼に昔のように接してもらいたい気持ちの方が強かった。

 雄也は驚いたように目を見開き、動けずに固まっている。


 数年の歳月を経て再会して、ようやく伝えられた言葉に、俺も静かに息を整えた。

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