第12話

 駅に到着すると、乗客たちが一斉に立ち上がり、出口へと進んでいく。俺もそれに続こうと腰を上げたが、長時間座っていたせいか、足が痺れて思うように動かない。無理に立ち上がろうとしても、足元が安定せず、歩みが自然と遅くなってしまった。仕方なく、ゆっくりと足の感覚を戻しながら慎重に前へ進んでいく。


 背が高いので、吊り革に頭が何度もぶつかり、そのたびに小さく身を縮めた。出口にたどり着くころには、足の痺れも次第におさまり、ようやく自由に動けるようになった。


「お店どこにあるん?」


「えー、ちょっと待って。わかんない」


 バスを降り、雑踏に流されるように歩きながら、足を止める。目当てのお店がどこにあるのか確認しようと、辺りを見回していると、心の奥から静かな焦りと高揚感がじわりと湧き上がってくるのを感じた。


 普段なら、何気なく歩き過ぎるだけの街の景色も、今日はどこか輝きを帯びて見えた。胸が微かに高鳴り、その理由に思い至った瞬間、口元に自然と微笑が浮かぶ。


 隣に彼がいたこと。それだけで、見慣れた風景がまるで違うものに映るなんて。すぐそばに感じる彼の存在が、自分の心にこんなにも影響を与えるとは思いもしなかった。混雑する駅の中、気持ちが不思議な色彩に染まっていくのを感じながら、歩を進める。


 目当てのお店を探しながら、周囲を見渡すと、人の波の中でふと感じる一抹の寂しさに気づいた。ほんの少しの間でも彼と離れることが、こんなに名残惜しく感じられるなんて、自分でも驚きだ。


 だが、今日は特別な一日だ。再会した時の微笑み、さりげない仕草、話すたびに少しずつ自分の中で募っていく温かい感情──すべてが、まるで宝物のように胸の奥で大切に輝き続けている。彼とまた一緒に過ごすこの時間が、なんだか夢のようで、心がじんわりと満たされていく。


そして、再び足を踏み出す。


「地図の向きわかる?


「いや、分からない・・・・・・」


「え? 方向音痴ってやつ? 意外」


 地図を取り出し、見慣れない街で迷った俺は、意を決して彼に見てもらうことにした。隣でスマホを覗き込み、道を確認している彼の姿に頼らざるを得ない自分が少し情けない。


 それでも、慣れた様子で案内をしてくれる彼に軽くお礼を言うと、ほんの少しだけ心が落ち着いた。


「ここだ。めっちゃ混んでるね」


「うん。どうする? 他行く?」


「陸人は? お腹空いてない?」


「俺は大丈夫。じゃあ、ここにしよう」


「うん。ありがとう」


 二人で並んで待つ間、前には三組の女性たちが楽しげに会話を弾ませている。その様子をぼんやり眺めながら、何を話せばいいのか悩んでしまった。


 彼とは一緒にいるだけで心地良いけれど、沈黙が続くとどうにも気まずく感じてしまう。焦る気持ちを隠しながら、話題を探し、何気なく彼に声をかけてみる。


「一人暮らし?」


「そうそう。めっちゃめんどくさい」


「やっぱりそっか」


 少しぎこちなくなりながらも、会話が続くことにほっとする自分がいた。


「陸人は?」


「俺は実家」


「うわー、いいなー。楽そう」


「楽ではある。けど、自由がない」


「そうなんや。自由すぎて俺は暇だけどねー」


 雄也が鼻を擦りながら小さく笑っている。無邪気なその姿が妙に愛おしく、思わず目が離せなくなってしまう。


 昔から変わらない、いや昔よりも少し大きくなった瞳がこちらをじっと見つめ、その奥にはどこか純粋さが漂っている。


 雄也の和毛は、太陽の光を浴びてほんのり茶色く染まり、風に吹かれて柔らかく揺れる。その様子がまるで穏やかな絵画のようで、自然と視線が引き寄せられた。


 無垢な笑顔が浮かぶたびに、くっきりと現れるえくぼに心を奪われ、こちらまで穏やかな気持ちになる。この笑顔が好きだと、改めて実感する。


 彼がいるだけで、不思議と世界が優しく感じられる。だから、見つめ返しながら心の中でこの瞬間を大切にしたいと思った。


「ん? どした?」


「いや、なんにも」


 二人で笑い合いながら他愛もない話をしていると、ついに順番が回ってきた。店員がこちらに近づき、俺と雄也を見比べるようにしてから、軽く会釈をして先導する。


 案内されたのは、二階席の窓側にある一番奥の席だった。人目から少し離れた静かな場所で、窓から見える景色も良く、まるで特別な空間に招かれたような気分になる。二人だけの時間が続きそうな予感に、少し緊張が高まった。


「雰囲気いいね」


 雄也がキョロキョロと店内を見回し、視線を戻すとニコニコと満面の笑みで話しかけてきた。懐かしいこの笑顔、彼がワクワクするときの表情だ。


 頬がふっくらと膨らんで、小さな八重歯が見え隠れする瞬間、その可愛らしさに心を奪われる。俺はずっと、この笑顔に弱い。


 料理が運ばれてくるのを待つ間、自分が注文したアクアパッツァに思いを馳せる。


 魚好きな俺にはたまらない選択だ。香ばしい魚の匂いが漂い始めると、空腹がますます強まり、食欲が湧いてくる。

 オリーブオイルに絡んだ海の幸が、色鮮やかに並んでいる。


 一方、雄也が頼んだのはオムライス。とろとろの卵がデミグラスソースに覆われ、見るからに柔らかい楕円形をしている。料理を目の前に、雄也の顔がさらにほころび、まるで幸せそのものだ。


 そんな彼の表情を見ているだけで、こちらまで同じ気持ちになる。


「いただきます」と小さな声で言って、雄也はスプーンで一口すくい、丁寧に口元へ運ぶ。

 その仕草はどこか無邪気で、思わず微笑んでしまう。卵の柔らかな食感と、デミグラスソースの濃厚な香りが彼の顔にさらに喜びを広げる。


 穏やかなひと時が流れ、俺たちは目の前の料理にゆっくりと向き合いながら、それぞれの幸せを感じていた。


「どう? 美味しい?」


「めっちゃ美味い! 最高!」


 雄也はモグモグと食べながら、何も持っていない左手を軽く上げて、グッドポーズを決めてきた。


 そんな姿を見て、思わず心の中で「またやられた」と呟く。可愛すぎる。仕草も動作も、何から何までまるで天使のようだ。あんなに一生懸命に食べる姿に、俺の胸はきゅんと締めつけられる。


 見ているだけで、自然と微笑みがこぼれてくる。雄也は何も気にせずに、幸せそうに食べ続けているけれど、俺はそんな無邪気な姿に完全に心を奪われていた。


 少しばかりの隙間を見つけて、こっそりとスマホを取り出し、雄也の幸せそうな顔を写真に収める。


 シャッター音が静かに響き、雄也がその音に気づく。反応して顔を上げ、こちらを見てきた。目が合うと、彼が少し照れたように上目遣いでこちらを見てくる。その瞳は、どこか挑戦的で、でも少し恥ずかしそうで。


「ちょ、何撮ってんの!」


 こんなにも素直で愛らしい彼に、私はますます引き寄せられていく。


「え、可愛かったから・・・・・・」


「もー、なにそれ。こっそり撮んなよ」


 雄也が上目遣いで見つめてくると、どこか照れくさいような、でもどこか楽しんでいるような表情を浮かべている。


 それに気づいた俺は、心の中でホッと息をつく。彼は嫌だとか、やめてとか言わないし、むしろそんなことをされて嬉しそうにも見える。

 それに、何より顔が赤くなったりするわけでもないから、俺が少し冗談のつもりで撮った写真が、彼にとっても悪い気分じゃないのだろうと確信する。


 可愛い雄也の写真、ゲット! 俺は内心で小さくガッツポーズをして、満足感に浸る。こうして幸せそうに食べている雄也を見ていると、何だか自分がどんどん彼に惹かれていく気がする。


 俺もその後、アクアパッツァを少しずつ口に運ぶ。魚の身はふわっとしていて、オリーブオイルと海の幸の香りが口の中に広がる。雰囲気もあるだろうが、こんなに美味しいアクアパッツァは今まで食べたことがなかった。恐らく、雄也と食べたらなんでも最高になるのだろうか。


 魚の旨味がしっかりと感じられて、口に広がる味わいが絶妙だ。思わず目を閉じて、しばらくその余韻に浸る。


 何気ないひとときが、こんなにも特別で心地よく感じられるのは、やはり雄也と一緒だからだろう。

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