第2話

 入学式の日、キャンパスは新しい季節の訪れを告げるように華やいでいた。見渡す限り、真新しい制服に身を包んだ学生たちが笑顔を浮かべ、あちらこちらで弾むような会話が飛び交っている。けれど、その輪の中に自分はいない。大阪から来たばかりの俺には、ここには誰一人として知り合いがいなかった。

 両親も弟の入学式に行っていて、ここで支えてくれる人もいない。そんな孤独感がじわじわと押し寄せてくる。既に固まった小さなグループを眺めながら、ふと、自分の道は「おひとり様」かと、少しばかりの寂しさが心を過る。

 気を紛らわせようと喉の渇きを覚え、自販機に向かった。硬貨を入れ、ボタンを押すと、冷たいペットボトルの水がガチャンと落ちてきた。その小さな音に、何故かほっとする気持ちになる。

 ふと、長かった学長の話を思い出しながら、近くのベンチに腰を下ろす。静かに視線を空へ向けると、青く透き通った空が広がっていた。入学式で賑わう周囲の喧騒も、今は遠く感じる。

 漠然とした思いが胸に広がる。新しい環境への不安と、微かに混じる期待。

 数羽の鳥が視界の端から端まで、数秒で風を渡っていった。あの青空を翔けるように、自分もどこかへ飛び立てる日が来るのだろうかと、そんな希望がほんの少しだけ胸を温かくしていた。


「カメラ持ってこればよかったな」


 ふと見上げた空は、澄み切った青がどこまでも広がり、一片の雲さえ見当たらない。

 時折、桜の花びらがはらはらと舞い、青のキャンバスに淡いピンクがそっと描かれているようだった。俺はその瞬間に見とれ、無意識に手がカメラを探してしまう。

 趣味である写真を収めたい衝動に駆られるが、今日はあえてカメラを持っていない。だからこそ、目の前の光景を静かに胸に焼き付ける。

 瞬間を惜しむ気持ちが、少し胸を切なくさせた。


「あれ、あなたも一人ですか?」


 青空をぼんやり眺めていたせいか、誰かが自分に話しかけたことに気づかず、そのまま無視してしまっていた。ふと我に返ると、肩を優しく叩かれ、驚いて振り返る。

 見上げた先には、穏やかな笑顔を浮かべた男子学生が立っていた。春の光に照らされたその表情に、不意に心がほころび、自然と自分も笑みを返していた。

 

「え? あ、すいません!」


「いや、俺は大丈夫ですけど。あなたは? なんかずっと上向いて止まってたけど」


「あ、ああ。カメラが趣味で、綺麗な空を見てたんです。今日は持ってきてないですけど」


「へーそうなんですか。ね、よかったら俺と友達になってください」


 思いがけない出会いというのは、いつも突然に訪れる。ふとした瞬間、何気ない場所で、まるで偶然のように姿を現す。

 けれど、本当は出会いのチャンスは日常のあちこちに散らばっていて、自分からその場所に足を踏み出さなければならないのかもしれない。

 そう思うと、世界が少しだけ広がる気がして、一歩を踏み出す勇気が湧いてきた。


 

「え、俺でよければ・・・・・・」


「ほんと? やった! 俺、友達あんまいないんすよね」


「そうなんですか」


「どこから来たんすか?」


「大阪です」


「え! 大阪! めっちゃ都会じゃん。おれは東京」


 軽く自己紹介を交わし、少しの間、何でもない話で盛り上がった。新しい環境にまだ馴染めずにいる自分に、こんな風に気さくに話しかけてくれる人がいるのは、少し心強い。

 彼の名前は市原光一と言うらしい。どこか人懐っこく、初対面にもかかわらず自然と距離を縮めてくれる雰囲気があった。

 ただ、一つだけ気になることがあった。「~じゃん」という語尾。東京生まれの彼にとっては自然な言葉遣いなのだろうが、関西人の自分にはどうにもなじめない響きだった。なぜかその度に微妙な違和感が胸に引っかかり、少し居心地の悪ささえ覚える。

 しかし、ここは関西ではない。郷に入っては郷に従え。新しい場所での出会いに、些細な違和感を理由に背を向けるのはもったいないと、心の中で自分に言い聞かせた。


「そういえば何学部?」


「え、経営です」


「経営なんだ。てかなんで敬語なの?」


「え、あーなんかわからないですけど」


「なにそれ。俺は法学。学部違うの残念だな」


 確かに、学部が違う以上、授業で彼と顔を合わせることはほとんどないだろう。それぞれ異なる分野を学んでいるから、授業中に偶然隣り合うこともなければ、共に課題に取り組むこともない。講義は一人で受けなければならないし、慣れない環境で周りに知り合いがいないのは少し寂しい。

 それでも、少しずつ自分のペースでこの場に慣れていくしかないのだと思った。


「あ、ライン交換しよ」


「う、うん」


 話の進め方具合に、若干気後れしてしまった。


「雄也ってめっちゃ可愛い顔してるね」


 出会ってからまだ二十分も経っていないのに、光一はまるで長年の友達のように接してくれる。そんな気さくさが心地よくて、知らず知らずのうちに気が緩んでいる自分がいた。新しい環境で出会ったばかりの人から、ここまで親しげに扱われるのは少し嬉しい。

 けれども、彼が突然「可愛いですね」と口にしたときには、さすがに驚かずにはいられなかった。お世辞とはわかっていても、どう反応すべきか戸惑いを覚え、つい苦笑いがこぼれてしまった。


「え、そんなことないですよ!」


 昔から、近所のおばちゃんには、かっこいいとか男前とか言われたことはある。もちろん、社交辞令の一種だ。

 そして、モテたことはない。それにあまり恋愛に興味はない。今し方言われた言葉を頭の中で否定し、言わなくていい部分は口の中で濾過し、単なる否定だけを伝える。

 そして、お互いのQRコードを読み込み、友達登録した。


「そう? 可愛いしイケメンだけどな。俺の友達もイケメンなんだけど、ちょっとタイプが違うイケメンだ。まあ、いいや。じゃあ、また連絡するから、会おうよ!」


「うん。わかった」


 光一と別れたあと、家路につくことにした。初対面ながら親しく話してくれた光一との出会いは、思ったより心に残っていたが、帰宅して自分の時間に浸りたい気持ちも湧いてきた。趣味のカメラや音楽に没頭することで、一日の疲れを癒したいと思ったのだ。

 八王子というのは大学が集まっている学生街で、町全体に活気があふれている。カフェやショップには学生たちが溢れ、まるで街全体が若さに包まれているようだ。自分もそんなエネルギーに触れて刺激を受ける一方で、まだ馴染めない違和感も少しある。

 八王子駅から中央線に乗り込み、しばらく電車に揺られながら窓の外をぼんやりと眺めた。やがて立川駅に到着し、自宅へと向かった。

 いつも通りの駅の喧騒、見慣れた通り、家までの道のりがやけに落ち着く。

 帰宅してスーツを脱ぐ間もなく、急激な眠気に襲われ、ベッドに倒れ込んだ。スーツのまま横になりながら、今日の出来事を思い返しているうちに、意識は次第にぼやけ、深い眠りへと引き込まれていった。

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