桑原珠月の回想⑨ 【神無四辻 事象】
「何してるの!」
怒鳴った見鏡が僕の手から注射器を叩き落としたが、既に中は空だ。
上尸には、「全て忘れさせろ」と命じた。
弱体化の原因を作った機関を見捨てない事から、照魔鏡には人並みの情があると推測した。それなら、自分の巫女を助ける為に、封印を解くはずだ。
あとは、賭けだった。
僕達を巻き込んだんだから、上尸くらい何とかしろって、サンを責める気持ちもあったかもしれない。
注射した直後、液体が溜まった腕の腫れは瞬く間に引いた。
——ゴトリ。
大きな音がした。
ゴトリ、ゴトリと虫の活動が脳から鼓膜に響いたのだと気付いた時には、もう始まっていた。
激しい頭痛。
取り落とした注射器が床に転がった。
苦しさのあまり蹲り、両手で頭を押さえて掻きむしった。
胃はひっくり返り、内容物の無い胃液が口から流れ出た。
記憶が塗り潰されていく。
アイの微笑みが思い浮かんで掻き消えた。
あれはいつの記憶だろう。名前はなんていうんだろう。彼女は誰だろうか。
景色がぼんやりして、何も分からなくなっていくのに、「彼女はこんな思いをしているのか」と、漠然とした悲しみと後悔が押し寄せた。
その時——。
突然、頭の中の霧が晴れた。
全てを思い出した僕は、肩で息をしながらアイを見つめた。
ベッドに腰掛けたアイが、窓のように組んだ指の間から僕を見ていた。
狐の窓——怪異の変化を見破るお呪い。
彼女はそれをトリガーにして、サンの繭を解くらしい。
やがて指を解くと、アイは虚ろな目で、不思議そうに僕を眺めた。
「アイ……」
呼びかけると、アイは気を失ってベッドに沈み込んだ。
僕は彼女をベッドに寝かせ直して、掛け布団を整えながら、歓喜していた。
よかった。サンの不滅の力は、イレイザーの記憶障害を治せる。アイを救える。――と、僅かに見えた希望が、僕を奮い立たせた。
「あのさぁ」
見鏡の呆れた声が聞こえた。
「やるなら、やるって言ってくんないかな!?」
「いいじゃないか。証明できたんだから」
見鏡に向き直ると、僕は心の底から笑った。
「見鏡。僕を共犯者に選んだからには、僕を裏切るなよ。機関の最期の砦にでも、守護神にでも、何にでもなってやる。アイが助かるなら、何だってやってやるさ!」
見鏡は呆気にとられたような顔をした。
「珠月さんってさ、腹黒だよね」
「君に言われたくないな」
「そうね。私みたいに、みんなの前では優等生っぽくしてた方が良いわよ」
そう言って穏やかに笑う見鏡の腹の中は、僕以上にドス黒いと思えた。
「じゃ、アイさんの記憶を封印しましょう。準備するから、その間あなたはこれをお願い」
見鏡は一枚の書類を渡してきた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
【神無四辻 事象】
当機関が初めて存在を確認した時、彼の神は、守り神の加護が及ばぬ辻に顕現し、辻神を食らっていた。
その食欲たるや凄まじく、中世以前は朝に三千、夕には三百の悪鬼羅刹を飲み干していたと推測される。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
「機関が保管するサンの最古の記録よ。この続きを書いてちょうだい」
「続き? 僕達に関する記録は、研究部が嫌という程持ってるはずだよね?」
「その記録をなかったことにする為のレポートよ。あれも非公開の記録だけど、万が一情報が洩れたら、あなたの報復を恐れる職員が出るかもしれない。そしたら、安心できる守護神じゃなくなっちゃうでしょ。委員会にとっても、私達とっても都合が悪いわ」
「正式な記録を消して、改竄した記録を残しておくのか」
「改竄されていても、数十年後にはそれが正式な記録になるわ。当時を知る人間はいなくなるもの」
僕は本当に、何て所に来てしまったんだと、今も激しく後悔している。
「これから作る記録も、限られた人間しか目にできないよう管理される。でも、本当の記録も完全には処分されない。誰の目にも触れないよう、委員会が本部の情報部に管理させるでしょうね」
「そんな事だろうと思った。本当の記録を残しておかないと、偽の記録と見分けが付かなくなるだろうし」
つまり委員会と、本部の情報部職員だけが、記録の真偽を確かめられるということだ。
「それにしても、どうして僕が僕を偽る報告書を書かないといけないんだ」
「どうしてあなたが機関に協力しているのかを説明する嘘の報告書だもの。他の人がてきとうに書いたら、あなた怒るでしょ?」
だからといって、本人に書かせるのも酷だと僕は思うんだけど……。
「報告書には、あまりあなた自身の事は書かないで。アイさんの記憶を封じるのにも、その報告書は必要だから」
照魔鏡に記憶を隠させた後、偽装レポートを見せて、さらに記憶を隠したあとで黒く塗り潰した偽装レポートを見せると見鏡は説明した。
照魔鏡の力で隠しても、弱体化しているせいで、何かのきっかけでアイが思い出してしまう可能性があるらしい。
もし正しい記録を全部思い出してしまったら、照魔鏡が記録を隠しても効果が薄くなってしまうようだ。
思い出すきっかけになるものに触れないよう、安静にしていれば封印は安定するようだけど。もし短期間で何度も思い出して、その度上尸に強い記憶障害を起こされたりしたら、最悪の場合は寝たきりに戻ってしまうと釘を刺された。
だから本当の記憶を思い出させないように、嘘の記録を植え付ける必要があった。文字が隠された報告書を見れば、アイはそこに真実が書かれていると思い込むはずだと見鏡は考えていた。
「封印しても、元の記憶に関係あるものに触れていると、それを呼び水にして思い出してしまう。でもアイさんは眷属だから、どうやっても珠月さんとは引き離せない」
「ほんの少しでもきっかけになるものは減らしたいな。顔を変えたら、再生能力で戻ってしまうだろうか」
「もっと簡単な所から変えましょ。名前とか」
ふと、見鏡に渡されたレポートが目に映った。
「
「人の名前じゃないでしょ」
「ああ。僕は人じゃない。ぴったりじゃないか」
僕が報告書を書いている間、見鏡は髪を結び直したり、頭に飾りを乗せて整えたりしていた。彼女なりのルーティンなんだろう。
「書けた。終わったら確認してくれる?」
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
その凶暴さから、一時は辻神と混同されたものの、後に辟邪絵に描かれた善神と同じ類の怪異であると判明した。
機関が有するこの怪異の記録は中世以降のものであり、この世に招かれた理由、召喚方法、依代にしている青年の詳細は不明。
近代に入ってからは、常世に潜む怪異を見つけて捕食する為か、彼の神は機関に隷属する素振りを見せている。
神の名は【神虫】
底無しの胃袋を持つ八脚の蚕である。
人の姿をとるときは、神無四辻を名乗っている。
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