桑原珠月の回想⑦ 最低な願い

 アイの研究、その記憶を献上すること。それが照魔鏡がアイを助ける条件だと見鏡は告げた。


「研究部にあった記録の方は、既に委員会が手を回して処分したみたい。完成しかけていた依り代ごとね。でも、アイさんの記憶はイレイザーで蓋をされているだけで、完全には無くなってない。照魔鏡様は、その記憶が怖いみたい」


「記憶を取り戻したアイが、サンの依り代を完成させるのを恐れているのか。僕と違って、サンは本能で怪異を食べ尽くす。サンに喰われるのが怖い照魔鏡は、何が何でも僕の体からサンを出したくないんだな」


「その通りよ」

 見鏡はアイに視線を向けた。


「委員会にあなたの説得を任された時、アイさんの研究は成功しかけていたと聞いたわ。依り代は、少ない食事量で生きられるように調整されていた。機関に養ってもらえるなら、サンも断る理由はなかったみたい。アイさんが用意した依り代に、反応していたそうよ」


「だからこそ潰したかったのか」


「ええ。機関はずっと、サンを従える確実な方法を探していたのよ。大正時代にサンが朽ちた時、機関はサンが新しい依り代を見つけて転生したんじゃないかって可能性に賭けて、血眼になって探した。でも、まさか人間になっていたとは思わなかったみたい」


「そうか。屋敷に来た科学者は優秀だったんだな」


 桑原家の離れで隠されるように育てられた忌子の話を、逃げ出した奉公人から聞いたのかもしれない。

 医者を名乗って僕を診察した彼は、心の底から喜んだ事だろう。僕を羽化させて、人間の意識を持ったサンを作る事ができれば、サンを従えたいという機関の長年の夢が叶うんだから。


「委員会は、もしサンがあなたから解き放たれたら、サンを制御する方法を失ってしまうと考えた。だから研究を潰すついでに人質も作った。怪異を食べるあなたが、機関の情報収集力を利用するしかないと分かっていても、不安はあったから」


 機関の委員会と照魔鏡は、それぞれ別の理由でアイの研究を潰したかったらしい。でも両者の利害は、完全には一致しなかった。


「照魔鏡が繭を解くアイの力を封じたのは、委員会も予想外だっただろうな」


「そうね。委員会が照魔鏡様を説得できるわけないし。ある意味、私達は委員会に一矢報いてやったと考えていいかもしれないわ」


 見鏡はクスッと笑ったが、僕は全く笑えなかった。


「君の計画は別にあるんだろ」

「そうよ。とっておきのがね。だから協力して」


 協力する以外の選択肢は残されていなかった。

 しかし、確実にアイを助ける為に、もう少し情報を引き出すべきだと思った。


「どうかな。記憶を隠してイレイザーを無効化したとして、結局は先延ばしでしかない。照魔鏡は、どうやら年々弱体化しているようだ。近い将来、隠す能力すらまともに使えなくなるんじゃないのか?」


「否定しないわ。でも、やらないよりはマシでしょ。それに……もしかすると、アイさんは本当に助かるかもしれない」


「どういう意味?」


「サンは不滅の神様だけど、他人の傷は治せない。でも、自分自身の傷は治せる。幼虫からやり直して傷がない姿で羽化するから、不滅の神と崇められた。もし、サンの力を分け与えられて眷属になったアイさんにも、その再生能力が分け与えられていたとしたら?」


「上尸によって引き起こされた病気、記憶障害を治せるということか」


「ええ。でも、これは賭けよ。不安要素が多すぎるの。まず再生能力で本当に記憶障害が治せるか分からない。だけど照魔鏡様は、研究の記憶をアイさんが献上してくれるなら、アイさんが授かった不滅の力を照らして、再生能力を使えるようにしてくださると仰ったわ」


「再生能力で記憶障害が直せるかどうかは、一旦置いておこう。問題は、照魔鏡に記憶を渡す方法だ。どうすればいい?」


「渡す、じゃなくて献上よ。照魔鏡様への供物として、アイさん自身に記憶を捧げてもらうの。捧げると念じてくれるだけでいい。そうすれば、記憶は照魔鏡様へと流れていくわ。

 そして記憶を捧げたら、アイさんはもう二度と研究内容を思い出せないし、その方法を思いつく事もない。あなたが話しても、研究内容を認識できない」


「捧げるにしても、その記憶をアイはどうやって思い出せばいい? イレイザーのせいで、何も思い出せないのに……」

 そこでふと、僕は思いついた。


「照魔鏡の力で記憶を隠せるなら、イレイザーに隠された記憶も照らせるのか」


「昔はそれもできたでしょうけど、今は無理よ。上尸に押し負けるわ」


 僕は内心舌打ちした。


「あなたが言わないから、聞いてあげるけど。不滅の神になったあなたが眷属のアイさんに働きかけて、力を目覚めさせるというのはできるのかしら?」


 僕は舌打ちした。できるんだったら、もうやっていた。


 僕の力はかつてのサンに及ばない。

 原因は分からないけれど、もしかしたら精神の在り方が違う所為じゃないかと思っている。体を作り替えられたとはいえ、僕は心まで八脚の蚕蛾になった訳じゃない。


 いくつかの力は、今も僕の中に溶けたサンが使っている。眷属を作る力もその内の一つだ。

 だけどサンの力にも限界がある。試してはいないが、羽化した時に自然とそういうものだと理解した。


 眷属を増やすのは不可能。

 別の人間を眷属にすれば、以前の眷属は力を失って人間に戻り、二度と眷属には戻らない。


 眷属の力に働きかけるのは不可能。

 サンは時間をかけて僕とアイを作り替えた。そのときサンはアイに力を分け与えたようだけど、今は彼女の中に眠る力に手を加えられない。アイの容姿が変わらないおかげで、不滅の力が与えられたと推測できたのは不幸中の幸いだった。


 眷属の意識に働きかけるのも不可能。

 サンは、人間の感情に働きかける三尸のような能力を持っていない。


「つまり……照魔鏡は、研究に関する記憶をアイが献上するまで再生能力を目覚めさせない。だが、アイが記憶を捧げる為には、研究を思い出さなきゃいけない。……不可能じゃないか?」


「照魔鏡様もそこはちゃんと考えてる。機関が集める情報を使って、人の記憶に働きかける怪異を探すのよ。上尸の力をほんの少しでも無効化できればいい。その怪異を使って、研究の記憶だけを狙って思い出させるの」


「怪異の数が少なくなった今の時代にか? 拮抗薬の開発を待った方が確実に思えるな」


「でも、あなたが私達に協力しなければ、アイさんはこのままよ。サンも一度は朽ちたのよ。不滅の力が使えないアイさんが、イレイザーの拮抗薬が完成するまで耐えてくれるといいけどね」


 見鏡は僕達を救いに来た訳じゃない。目的の為に、僕達を利用したいだけだ。


「卑怯だな」

「委員会に従うよりはマシでしょ」


「……でも」と、見鏡は続けた。


「これ以上恨まれたくないから先に言うけど。もし研究を思い出せたとしても、アイさんがそれを献上してくれるとは思えない。あれはあなたを人に戻す、唯一の方法だから」


「また、僕の為か……」


 僕はアイに向き直った。

 まだ頭が痛むのか、アイの目尻から涙の粒が零れ落ちていった。


「出会った時から、僕は君の足を引っ張ってばかりだね」


 近づいて膝を付くと、彼女の手を取って額を寄せた。


「でもね。僕は、アイに幸せになってほしかったんだ。今まで君の優しさに甘えて縋り付いてしまったけど……」


 子供の頃からずっと、僕は彼女を愛している。

 

 アイが支えてくれたから、僕はどんな理不尽にも耐えてこれた。

 いつか人間に戻れたら、アイが僕にくれた以上の幸せを彼女に返してあげたかった。


 だけど……僕には無理だった。

 本当に彼女の幸せを願うなら、自由にしてやるべきだ。


「僕のことは、もういいんだよ」

 想いが伝わるように、念じながら思いを吐き出した。


「アイが助かるなら、僕は化物のままでいい。今の僕は君を人間に戻せる。僕が眷属を見繕えば、君は人間に戻れる。戻れるんだよ! こんな狂った機関なんだ。眷属になりたいおかしな人間だって、探せばいるはずだよ。だからお願いだ。僕の為に進めてくれたあの研究を、今度は僕の為に手放してくれ」


 身勝手で、残酷な願いだ。彼女の気持ちを知っていたのに、僕はそれを踏みにじった。これまでの彼女を否定する、最低の願いだと自覚している。


 でも、そうするしかなかった。


 見鏡に向き直ると、僕は答えを告げた。


「もしアイが研究を思い出せたら、どんな手を使ってでもそれを捧げさせる。だから力を貸してくれ」


「……私が言うのもなんだけど、本当にいいのね? 恨まれるわよ」


「構わない。無事アイが助かったら、僕はようやく彼女を自由にしてあげられるんだ。計画を教えてくれ。僕は君達の為に何をすればいい?」

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