桑原珠月の回想⑤ イレイザーの正体

 見鏡が取り出した注射器の中には、黄金色の液体が入っていた。その薬の正体を、僕はすぐに察した。


「イレイザー……」

「そうよ。記憶を消す厄介な品物。一度でも打たれれば効果は死ぬまで続く」


 よくそんな悍ましい物を懐に仕舞っておけたものだ。

 僕の視線の意図を汲んだのか、見鏡は「大丈夫な理由があるの」と、説明を続けた


「これはね、記憶を完全に取り除く訳じゃないの。思い出せないように蓋をするだけ」


「それは安全だって理由にならない。その副作用のせいで、アイはあんなことになったんだ。万が一針が刺さって、薬が注射されたらどうする?」


 見鏡は「ああ。心配してくれてたの」と笑って、イレイザーがただの事故では絶対に効果を発揮しない理由を、説明し始めた。


「人間に取り憑く虫の怪異の話は知ってるでしょ? イレイザーには、その内の一つ、上尸じょうしが使われてるの」


上尸じょうし……ああ、三尸さんしの一つか」


 三尸さんしは、下尸げし中尸ちゅうし上尸じょうしという人の体に潜む三種の虫の怪異の総称。それらは潜む場所が異なり、それぞれの場所で人を病気にする。

 下尸は足の中に潜み腰から上の病気を、中尸は腹の中に潜み臓器の病気を、そして上尸は、脳に潜み首から上の病気を引き起こす。


 何より厄介なのは、三尸は人を病にするだけでなく、人の感情まで操るらしい。つまりこれらは、それぞれの場所から人のと言える。


 記憶障害という病を引き起こすのに、脳に潜む上尸はこれ以上ない程最適な怪異だったのだろう。


「つまりイレイザーは、培養して能力を調整した上尸を注射して取り憑かせているの。薬に分類されているけど、私に言わせれば『非霊能者でも簡単に使える式神みたいなもの』ね。忘れさせたい記憶を念じて注射するだけなんだから」


 僕はこの時、きっとイレイザーはアイにしか作れなかったと悟った。


 僕がまだ桑原家に居た頃、僕の周りには不思議な生き物がいた。目が見えるようになってから分かったけど、彼らの正体は虫の怪異だった。


 どこからか集まってきて『サンを慕っている』と言った彼等は、僕に怪異を食べさせず、人の食事だけを勧め、読み書きや遊び、社会を教え、人として育てた。

 彼らが、人に取り憑いて生きてきた怪異だからこそ、できた芸当だったのだろう。


 彼らの本当の目的は、サンになりかけていた僕を人間のまま衰弱死させることだった。

 万が一失敗しても、僕が人間の心を持っていれば、捕食対象から外してくれるはずだと期待していたのかもしれない。


 現に、僕は現在も彼らを特別寮で飼っている。実の兄達よりも、彼らは優しかったから……。

 いくつかは人に取り憑くだけでなく、人に化けられる個体だから、施設係の仕事を与えてコーヒーカップを片付けさせたりしている。

 人に化けるのは窮屈らしく、すぐ本性を現してガサガサ這ったり、バタバタ飛んだりするから、なかなか賑やかだ。


『虫の居所が悪い』『泣き虫』『腹の虫が鳴く』など、虫の怪異は人の感情に影響を与える。かつて僕は彼等の力を借りて、アイを離れから出して屋敷で働かせてくれるように、屋敷の人間達の心を動かそうとした。


 恐怖は、死に直結する本能だ。だから完全には取り除けない。試行錯誤して、何十回も繰り返してようやく、屋敷の人間のアイへの恐怖心をほんの少し薄れさせるのに成功した。彼女が屋敷の人間に受け入れられたのは、彼女の性格によるところが大きい。


 本当は僕も、家族に受け入れられて屋敷に戻してもらいたかった。でも、虫達の力じゃどうにもならないくらい、家族は怪異と話をする僕を恐れていた。霊感の無い家族に虫の怪異は見えなかったかもしれないけど、気配は微かに感じていたのかもしれない。

 虫にも得意不得意がある。もし虫の力で人間の感情や考えを自由に変えられるなら、僕は今のように苦労していない。


 だからこそアイの研究には感心してしまった。


 アイは離れにいる時、虫達と仲良くなって彼らの能力を知ったんだろう。どの虫がどんな力を持っているのか知っていた彼女は、サンの眷属という立場を使って虫達を恐怖で従えた。

 そして他の怪異とかけ合わせることで能力を強化し、霊能者じゃない職員まで簡単に使える上尸を作り出した。


 さっき見鏡は式神と言ったが、僕は別の言葉が頭に浮かんだ。


「家畜化した上尸か……。まるで蚕のようだ」

「そこから発想したのかもしれないわね。この上尸は、人の体の中と培養液の中でしか生きられない脆い怪異。人がお世話しないと生きられなくなってしまった蚕と似てるでしょ」


 見鏡はどこか寂しそうに、

「虫に人生を狂わされたから、利用してやりたい気持ちもあったのかも」

 と呟いた。


 もしそれが動機だったなら、彼女はまた虫に人生を狂わされた。イレイザーの仕組みから考えると、やはり事故じゃなくて故意に注射されたんだから。


「虫に人生を狂わされた、か。そうだな。僕も彼女についた悪い寄生虫だ……」

「そういう考えって、失礼だと思わない?」


 気が付けば、見鏡が僕に刺すような視線を向けていた。


「何でアイさんがこんなになるまで頑張ったのか、勘の良いあなたなら分かるでしょ。さっきだって、イレイザーが起こす頭痛に耐えながら、必死にあなたを思い出そうとしてたじゃない。どうして分かってあげないの」


 見鏡に言われなくても、分かっていたさ……。


 でもそのことについては、今も考えないようにしている。

 兄達が言ったように、僕は疫病神なんだ。

 アイの幸せを願ったのに、やる事成す事全て裏目に出た。


 彼女の為を思ったなら、突き放すべきだったのに。僕にはそれができなかった。

 僕は、アイの優しさに甘えて縋り付いてしまった。

 

 もう遅いけれど、これ以上彼女の枷になりたくない。


「部外者が口出しする事じゃないけどさ……」

 そう言いながら、心底面倒くさそうに溜息を吐いた見鏡のあの顔は、今も覚えている。


「アイさんが元気になったら、一度くらいはデートしてあげてよ。東京タワーとかどう? 凄く眺めがいいの」

「東京たわー?」

「世界一の電波塔よ。四年前にできたの」

「登れるの?」

「もちろん」


 見鏡は「じゃ、そろそろ話を戻すわよ」と言ってまた話し始めた。

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