桑原珠月の回想②

 照魔機関の科学者は、身分を医者だと偽り僕を診察した。そして彼は、自分になら治療できると父に話したらしい。すぐに治療が始まった。


 彼の治療は、とても不思議な物だった。薬を一切使わず、代わりに僕の食事を変えた。

 僕は生まれて初めて、味を知った。

 旨味で舌が焼けるような、美味しいというあの感覚は、今も忘れられない。それまで茶碗一杯も食べられなかった僕が、一匙をあっと言う間に飲み込んで、どんぶり一杯も平らげてしまったらしい。


 その次の日、僕の体に変化が現れた。たった一度食事を終えただけで、寝たきりだった体には力が溢れ、誰の支えもなく立ち上がれるようになった。


 次の日の夜、僕は彼が持ってきた食事に夢中で 齧りついた。食事を一度終える度に、僕の体は力を取り戻した。たった五日で身長はメキメキと伸びて、走る事もできるようになった。


 ある日、遂に視力を得た僕は、彼が出す食事の正体を知って——嫌悪した。

 同時に、なぜアイがサンだけを見る事ができなかったのか、理解した。


 怪異とそれが纏う穢れを餌にするサンが、ずっと僕の中にいたからだったんだ。


 怪異に喰らいつく度、サンが僕の中に溶けていくのを感じた。


 僕が僕でなくなっていくのに、食べることをやめられなかった。

 食べるのをやめれば、屍のような暮らしに戻ってしまう……それが恐ろしくて、怪異の肉があまりにも甘美で、僕は貪り食っては吐き戻す、そんな惨めな生き物になってしまった。


 そんな苦しみの中で、僕は初めてアイの顔を見た。

 ふわふわな栗色の髪に、柔らかな榛色の目、温かな笑み。一目見てすぐに彼女がアイだと分かった。


 涙が止まらなくなった。

 嬉しそうに僕の回復を祝ってくれた彼女に、事実を知られたくなかった。だから絶対に夜の間は僕の部屋に入らないように、約束したのに……。


 アイは約束を破った。


 襖を開けて、僕を見つけたアイは目を見開いた。

 涙で濡れた彼女の頬に、またいくつも涙の粒が流れて落ちていくのが見えた。


 アイの目に、僕はどう映ったんだろう。

 きっと怪異の血肉と一緒に佇む、飢えた獣の目をした恐ろしい化物に見えていたはずだ。


 拒絶されると思った。彼女の目が恐ろしかった。


 それなのにアイは……僕を受け入れてくれた。


 粥を食べさせてくれた時のように、血と肉片で汚れた僕を、優しく抱きしめてくれた。


「大丈夫。きっと良くなります。お医者様がそう仰っていました」


 そう言うアイの声は震えていて、まるで僕と自分自身に言い聞かせているようだった。


「治療をお手伝いさせていただけるように、お医者様にお願いしてみます。珠月様が一日でも早く人に戻れるように、頑張りますから。だからどうか……泣かないでください……」


 僕は血で汚れた手を裾で拭って、僕よりも泣きじゃくっていたアイを抱きしめた。


「アイ。ありがとう……」

 何とか声を絞り出すと、アイはこくこくと頷いた。


 十歳にも満たない子供達は、まだ気付いていなかった。自分達の体に、本当は何が起っていたのかを。

 何も知らぬまま機関に迎えられ、桑原の巫覡と呼ばれるようになった。

 それからアイは怪異研究の道に、僕は怪異の正体を暴き捕える道に進んだ。


 アイは科学者達に、僕を生かす為だと説得され、僕に怪異の肉を食べさせた。いつか人に戻れると言った科学者達を信じていたから、僕は怪異の肉を吐き戻さず食べ続けた。


 アイとは違う方法で、僕は人間に戻る方法を探し続けていた。けれど大した成果は得られず、いつの頃か僕とアイはある事に気付いた。


 僕達の成長は人よりも緩やかで、成熟を境に老いは完全に止まっていた。


 原因はやはり、サンだった。

 サンが、僕だけじゃなくアイまで、人でないものに変えようとしていた。


 サンは、八脚の蚕蛾の魂。以前の依り代が朽ちてしまったから、新しい体を求めて僕に取り憑いていた。


 怪異は気を餌にする。

 八脚の蚕蛾は、たまたま穢れを好んで餌にしていたから、善神として人に祀られた。


 信仰もまた、怪異にとっては良質な食事だ。

 桑原家の信仰に惹かれたサンは、その時見つけた死産した赤ん坊の体を新しい依り代に定めた。そしてサンが取り憑いたことで、赤ん坊は息を吹き返した。

 それが僕、桑原珠月が誕生した瞬間だった。


 その時まだ僕の体の中には、僕の魂が宿っていた。

 僕の魂とサンの魂は混ざり合い、一つの生き物になろうとしていた。その所為か、サンは自分が何者かを忘れ、人間に近い思考を得ていたようだ。だから怪異を捕食しようとせず、人の食事を求めていた。

 僕が虚弱だったのは、ずっとサンが僕の生気を無自覚に吸っていたからだった。

 

 だけど、僕とアイの願いが、神と呼ばれていた頃のサンの意識を呼び起こした。


 『ずっと一緒にいたい』

 子供の頃の純粋で強い願いを、サンは僕達を怪異に作り変える形で叶えた。


 そしてサンは、願いを叶える代わりに僕とアイを巫覡にした。

 まるで蚕を育てるように、巫は覡に怪異を与えて育て、覡は幼虫のように、羽化するのに必要な力を蓄える為、怪異を喰らう役目を担わされていた。


 機関の科学者は、僕らを死なせない為に必要な事だったと弁解した。

 事実、僕が怪異を食べなければ、サンの眷属になりかけていたアイも、サンに生気を吸われて衰弱死していただろう。


 それから間もなくして、羽化が迫った僕は昏睡状態になった。


「またあの頃に戻ってしまいましたね……」


 毎日僕に話しかけてくれる寂しそうなアイの声を、僕は夢の中で聞いていた。


 ある日、

「一つ方法を見つけました」

 と、嬉しそうなアイの声が聞こえた。


「上手くいけば、サンの体を作り直せます。以前とは違って、サンは珠月様の食事量と同じ量で活動できるようになるんです。そうすれば、サンは今の環境でも生きられます。サンが気に入ってくれたら、珠月様の体から出て行ってくれるはずです」


 機関は研究を援助してくれる。必ず間に合わせると、アイは話してくれた。


 そして——。



「お目覚めになられましたか」


 目が覚めると、見知らぬ女性が病室にいた。巫女装束の羽織の紋から、彼女が機関の祭神の巫女であると察した。

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