手を汚し足を洗う

【10月15日 異界内部 清掃開始】


 一体なぜこうなったのか。

 夏目は釈然としないながらもバケツで雑巾を絞り、大足の表面を雑巾で拭った。


「こんな厚い泥、雑巾で綺麗にできる訳ないでしょ」


 しかし、夏目の予想は簡単に覆った。

 雑巾で拭う度、泥は塊のようになって簡単に落ちていく。さらに不思議な事に、いくら拭っても雑巾は真っ白なままだ。自分の手も汚れていない。


 しばらくして——。


「お疲れ様です。雑巾を濯ぐ水はいかがですか?」


 声に振り向くと、バケツを手にした栗色の髪の女性が立っていた。彼女はたしか、日暮逢と名乗ったと、夏目は思い出した。


「まだ大丈夫そうです。どういうことか分からないけど、全く汚れてないんです。泥は落ちるのに……」


 そう答えたが、不思議と逢と視線が合わない。なぜか彼女は、夏目の手の甲に注目しているようだった。

 怪訝な目を向けると、逢は顔を上げて、


「猫を飼われているんですか?」

 と聞いてきた。


「ええ、まあ。昔から家にいる子ですよ。……よく引っ搔かれますけど」


 逢は頷くと「大変ですが、引き続きお願いします」と言って他の社員の様子を見に行った。


(バケツを持って一人一人に声かけて周るんじゃなくて、同じ場所に置いとけばいいのに。あれじゃ効率悪いでしょ)


 疲れからか、要領の悪さに腹を立てた夏目は泥を拭う手を強めた。


 その時、落ちた泥の中に四角い物が見えた。


「何これ」

 拾い上げてみると、通帳のようだった。泥が付いた名前欄には微かに「橋」の文字が見えた。擦ってみると——。


「橋爪さんの? 何でこんなところに……」


「うわ、なにこれ」

 声がする方を見ると、川尻が泥の中から何かをつまみ出していた。

「帳簿?」

 川尻が拾い上げた帳簿を睨んだ時だった。血相を変えて走ってきた橋爪が、川尻から帳簿を奪い取った。


「は、橋爪さん……?」。

「何でもない」


 橋爪は帳簿を体の後ろに隠したが、 川尻は橋爪に視線を向け続けた。その目は、まるで恐ろしい物を見るように、怯えていた。


 橋爪に向けられた視線は、一つではなかった。


「橋爪さん……」

 真っ青な顔をした夏目は両手で口を押え、か細い声を絞り出した。

「その手、どうしたんですか?」


「手?」

 夏目に指摘され、手を見た橋爪は首を傾げた。


「汚れた足を洗ったせいで、手が汚れたんだよ。はぁ。こいつのせいで泥塗れだ」


「おや? あなたには、これが泥に見えているんですか」


 いつの間にか橋爪の後ろに立っていた四辻が、橋爪の手首を掴んだ。


 その途端、橋爪の視界に異変が起こった。

 手のひらにべったりと付いた泥が、みるみる赤く染まっていく。さらには鉄臭い異臭まで立ち込め始め、ようやく自分が血塗れになっていることに気が付いた。


「これ、は……」

 逃げようとする橋爪。しかし、手首を掴んだ四辻がそれを許さなかった。


「誰の血ですか? ご自身のではありませんよね」

「し、知らない。俺は、何も知らない!」


「そろそろ、やめにしませんか?」

 橋爪の前に、逢が立ち塞がった。その手には報告書の束が握られている。


「昨日、みとし山で足立さんの遺体が見つかりました。ご遺体を調べたところ、扼殺であることが判明し、爪からは、犯人の物と思われる皮膚が検出されたんです。これはその分析結果です」


 逢は書類を見せた後、橋爪の手を差した。


「先ほど、雑巾を濯ぐ水を配るふりをして、社員の皆さん全員の手を拝見しました。橋爪さん、その手の甲の傷は何ですか?」


 四辻は掴んだままの橋爪の手を持ち上げて、手の甲に付いた血液をハンカチで拭ってから絆創膏を剥がした。


「おや。ひっかき傷のようですね。形を見るに、相手は猫じゃなさそうだ」

「足立さんの首を絞めた時についた傷ですよね? DNAを採取させていただきますが、よろしいですね?」


「扼殺って……どういうことですか……」

 橋爪を見る夏目の目が吊り上がった。

「足立さんは、遺書を残して失踪したんじゃなかったんですか? どういうことですか、橋爪さん!」


 橋爪は唇を震わせたが、

「そうか……この化物は、足立の怨霊だったのか」

 そう言って、深い溜息を吐いた。


「話していただけますね?」


 四辻が問いかけると、橋爪は力なく頷いた。


「最初はほんの出来心だった。でも、全くバレずにできてしまったから、続けてしまった。そのうち返せばいいと、軽い気持ちで……。


 一昨日の夜、久しぶりに足立と飯を食べた。その時に指摘されて、金を会社に戻すなら見逃すと言われた。そこでようやく、もう返せないほどの金を使い込んでしまったと気付いた。


 告発すると言われて、怖くなった。だけど同時に、足立が憎くなった。こいつさえ気付かなければ、今ここで口を塞いでしまえば、そんな気持ちが膨れ上がった。


 気付いたら……足立の首を両手で絞めていた……。

 手を放した時には、手遅れだった。足立を殺してしまったという事実から逃げたくなって、足立の


 破裂音が部屋に響いた。


「最低です。橋爪さん」

 橋爪の頬を叩いた夏目が、泣きながら橋爪に掴みかかった。

「どうして殺したんですか! どうして足立さんの所為にしたんですか! 全然納得できません!」


「夏目ちゃん!」

 川尻と近くにいた社員に止められても、夏目は橋爪を睨み続けた。


 打たれた頬を片手で擦っていた橋爪だったが、四辻が掴んでいた彼の手に手錠をかけると、頬を擦っていた手も差し出した。


「足立は、俺に自首してくれと言った。でも俺は罪を認めたくなくて、あいつに全部押し付けてしまった……。真面目なあいつが化けて出るのは当然だな」

 手錠を見て、橋爪は苦笑した。

「怪奇現象を取り除くと言い出した時は、妙な奴らが来たと思ったが、君達は刑事だったのか」


「当たらずとも遠からずといったところです。何かと不自由なので、警察には助けられてばかりですが、今回のように犯人逮捕に協力することもあります。持ちつ持たれつというやつです」


 四辻はそう答えると、杉浦を呼んで橋爪を任せた。


 そして大足に目を向けると――。


「よかった。僕の出る幕はなさそうだ」

 そう言って、四辻は微笑んだ。


 砂のように崩れ始めた大足の中から、人影が現れた。


 人影を見た夏目は目を見開いた。そこには、彼女のよく知るくたびれたスーツを着た足立がいた。

 足立は、まるで夏目に挨拶するかのように片手を挙げて、そのまま消えていった。


 やがて大足が完全に崩れて消えると、部屋を囲んでいた土の壁も、床を覆っていた泥も、幻のように消え去った。

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