捜査開始 異界渡り①

【10月15日 12時30分 六敷商事前】


「すみません、関係者です! 通してください!」


 野次馬の中を潜り抜け、一人の若い女性が警察官の前に現れた。「ふぅ」と溜息を吐いて栗色の髪を手櫛で直す彼女は、警察官の訝し気な視線を受けて動揺したのか榛色の目を揺らした。


「あたしは、照魔機関の——」

 身分証を出そうとしたのか、スーツの内ポケットの中に手を入れた彼女は首を傾げ、ポケットというポケットを漁った。


「リュックのポケット」

 いつの間に現れたのか、灰緑色の髪の青年が彼女のリュックから身分証を取り出した。


「さっき、『人混みで失くしたらやだ』って、こっちに入れてたよ」

「そうでした! 見つけてくださって、ありがとうございます。四辻さん」


 四辻と呼ばれた青年は微笑むと、警察官に向き直り、二人分の身分証を提示した。


「僕は、照魔機関 未特定怪異特別捜査課所属の捜査官 神無かんな四辻よつじ。こちらの彼女は、同じ課に所属する捜査官、日暮ひぐらしあいです」

「さきほどは、お見苦しい所をお見せしました……」


「お待ちしてました!」

 建物の入り口を覆うブルーシートの裏から現れた男性が叫んだ。


「K支部の捜査員 杉浦です。指示通り六敷商事のエントランスはブルーシートで覆いました。警察と連携して、ガス爆発の危険があるという体でビル周辺の封鎖も完了してます」


 四辻と逢は後ろを向いた。さっきやっとのことで通り抜けた人混みがある。


「ですが、封鎖した区間の周りに野次馬が集まってしまいまして……。怪異の存在をどのように隠したらよいか、情報部と相談中です」


「いえ、ありがとうございます。動画撮影をしている人も見かけましたので、早急に対処します。報告を聞いた限りでは、危険度分類は低そうですので」


「これで低い方なんだ……おっと」杉浦はまた咳払いすると「現場に案内します」と言って歩き始めた。


 歩きながら逢は六敷商事を見上げた。灰色の壁の二階建てで、六敷商事という看板が側面に張り付いていた。


「滑りますんで、お気を付けて」


 目隠しのビニールシートを潜り、階段を登る前、逢は足元を確認した。赤茶の泥が薄く付いている。


「念のため、階段前のドアは閉じておきます。現場の状態は……見てもらった方が早いかと」


 杉浦がドアを開けた途端、泥が川のように溢れ出した。押し流されかけた逢は、咄嗟に近くの部屋のドアノブを掴んで耐えた四辻に、片手で抱えられるようにして助けられた。


「先に言っておいて欲しかったですね」

「すみません。さっきはこんなんじゃなかったんですが……。溢れる泥の量が増してるみたいです」

 苦笑いする四辻の視線を受け、杉浦は首を竦めた。


「ごめんなさい。また助けられちゃいました」


 腰に回された手から解放されると、逢は足元に目を向けた。先ほどの噴出で膝の近くまで泥に埋まってしまっている。

 さらに泥が緩やかに流れている事から、徐々にかさが増していると気付いた。


「歩けそう?」

「はい、大丈夫です。あたしも四辻さんも、膝まである長靴を履いてきて正解でしたね。今はまだ靴下が汚れずに済みそうです」


 直後、泥に埋まった足を上げようとして長靴からすっぽ抜けてバランスを崩した逢は、靴下のまま泥の中に片足を突っ込んだ。


「はっ!?」

「ふっ……」


 笑うのを堪えた四辻を恨めし気に見上げ、片足を引き上げた逢は、見るも無残に泥塗れの靴下を予想した。だが実際に靴下を見た彼女は首を傾げた。確かに泥に埋まっていたはずなのに、靴下にも皮膚にも全く泥が付いていない。


 長靴の中に足を戻すと泥を掬い上げ、手のひらの中で転がした。まるで里芋の葉の上を水が流れるように、泥は皮膚の表面を滑って跡一つ残さない。


「あたし達は幻を見せられているんでしょうか」

「どうかな。君も僕も流されかけた。この泥は、確かにここに存在しているよ。でも普通の泥とは違う、怪異の一部と考えていいのかもしれないね」


 そう言って、四辻は室内の様子を眺めた。

 無人の部屋の中央の床から泥が湧き出しており、中央にあった机は壁の方へ押し流されていた。デスクの上は雑然としていたり、パソコンが付いていたりしたので、ついさっきまで人が使っていたと簡単に想像できた。


「もう一度確認しますが、この階にいた人間は、慌てて避難した訳じゃないんですね?」


 四辻の質問を受け、杉浦は頷いた。


「はい。神隠しが起こる直前までこの部屋にいた手塚と腕木という社員が証言しています。外に出てすぐ、忘れ物を取りに戻った腕木は、同僚達が消えているのと、部屋の中央から泥が湧き出しているのを見たそうです」


「早い対応をしてくれて助かるよ。ありがとう」


「いえ、昨日の会議の後、怪異の出現に備えてこのビル周辺に待機していたので、速やかに行動できました。怪異の存在が表社会に知られてしまったら、気を餌にする怪異達は力を増してしまいますから、そうならないように対応できてよかったです。でも泥がどこから湧いているのかは、まだ特定できなくて……」


 杉浦はバツが悪そうに下を向いた。


「このビルは築二十年ですが、今まで特にこういった事象は報告されていません。周辺のビルもです。土地の神の怒りを買った訳じゃないとは思うんですが……」


「ご心配なく。これは想定している怪異の仕業で間違いないと思います。あの土地の穢れを取り込んだことで、よくない方向に力を増しているだけです。俗に言う、妖怪に近い存在になっているんでしょう」


「応援を呼びましょう」


 杉浦は不安そうな表情を浮かべたが、四辻は「必用ありません」と言ってドアを閉めた。泥の深さは増しているのに、不思議と簡単にドアは動いた。

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