序 社内で目撃される泥の怪異②
【10月15日 12時5分 六敷商事】
夏目は、ふと隣の席に視線を向けた。置かれていた山積みの書類も、どこの名産かもわからない置物も、捜査の為に彼の荷物は全部運び出されてしまった。この空のデスクには、一昨日まで足立が座っていたというのに。
彼の仕事ぶりはあまり評価されていなかった。でも夏目は、彼が誰よりも責任を持って仕事をしていたこと、後輩育成に力をいれていたことを知っていた。
どこか飄々としていて、つまらない駄洒落を言う愉快な人だから、誤解されることが多かった。その彼が——会社の金を横領して、遺書を残して失踪したかもしれないと、今朝社長から聞かされた。
「どうしてですか……足立さん」
席を立とうとしたとき、一陣の風がオフィス内を吹き抜けた。
何かが腐ったような悪臭が漂い、夏目は咄嗟に鼻を抑え辺りを見回した。同じように異臭に気付いた数人が困惑したように首を傾げている。
ミシミシ パキパキ
オフィス内が異音に包まれた。そのとき——。
バキバキバキ!!!
激しい揺れと共に天井から巨大な影が降ってきた。
咄嗟に頭を庇ってデスクの下に潜り込もうとした夏目は、部屋の中央に現れたそれを見て言葉を失った。
降ってきたのは、赤茶色の泥に覆われた巨大な足だった。
足の真下にいた人は、寸前で我に返り部屋の隅に逃げていく。激しい揺れに転んだ人は、大足がデスクを踏んだ間に、なんとか這い出して踏み潰されるのを寸前で回避した。
やがて揺れが止まると、部屋の中は小さな悲鳴とざわめきに包まれた。
夏目は改めて、部屋の中央に陣取ったそれを観察した。つま先からかかと、ふくらはぎまでが赤茶色の泥に覆われた巨大な足は、天井を突き破って現れたようだった。床に視線を落とせば、足から染み出した泥が広がり出している。
「あれ? 映んない」
スマホのカメラを向ける同僚から、そんな声が上がった。
「写真より警察呼んでよ」
「これ警察で対処してもらえるの?」
「すげっ。これ作り物?」
好奇心旺盛な同僚が足に近づき、「よせ」とざわめきが起こる。
「電話繋がんないんだけど」
「圏外って、何? どういうこと?」
電話機とスマホいじっていた、何人かがざわつき始めた。
「全員外に出よう」
ドアノブを捻った橋爪が首を傾げた。
「誰か、手伝ってくれ。ドアが全く動かないんだ!」
何かに気付いたのか、窓を開けようとした川尻が悲鳴を上げた。窓の外が、土の壁に覆われている。
呆気に取られていた夏目は、徐々に今起きているこの馬鹿げた事態が悪夢ではなく、現実に起こっているのだと受け入れつつあった。圏外になったスマホを見つめ、せり上がる不安感を押し殺そうとした。だが、それは無駄な抵抗だった。
「これ、ドッキリの企画だったりしない?」
面白半分に大足に触った同僚が、つま先を上げた大足に蹴り飛ばされた。
一つ悲鳴が上がると、共鳴したように沢山の悲鳴が部屋内を埋め尽くす。パニックを起こして窓やドアを叩く同僚達を、夏目は茫然と見つめていた。
そのとき、
「足を洗え」
彼女のよく知る声が、轟音のように響き渡った。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
【10月15日 12時05分 六敷商事 エントランス】
「おつかれ、随分酷い顔してんな」
「そりゃそうだろ」
腕木は溜息を吐くと、ポケットを漁って舌打ちした。
「うわっ財布忘れた」
「ドンマイ。奢ってはやらねーよ」
「手塚……ケチだなお前」
昼休みは短い。同期を待たせない為に、腕木は大急ぎでオフィスに戻った。部屋のドアを開けて——。
腕木は目を瞬かせた。
さっきまで一緒に仕事をしていた同僚達の姿が消えていた。
机の上に置かれた書類の山も、受話器が外れた電話も、文書作成中のパソコン画面もそのままの状態で残されている。
受話器からもしもし、と困惑の声が聞こえ、混乱しつつも腕木は受話器を耳につけた。
「——をぁらえ」
受話器から怒鳴り声のような不快な音が聞こえ、腕木は咄嗟に受話器を放り出した。受話口から泥が溢れるのを見て、腕木は自分の耳に手を触れた。濡れたような気はしたが、不思議なことに泥は付いていない。
「何だよこれ!」
半ば叫ぶように受話器から離れた腕木だったが、泥を吐く受話器よりも奇妙なものを部屋の中心に見つけた彼は、悲鳴を上げるよりも先に部屋から逃げ出した。
部屋の中央の床から泥が溢れ出していた。それは次第に床を埋め、廊下に向かって流れていった。
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