第5章 六敷商事泥足事象
序 社内で目撃される泥の怪異①
【10月14日 10時45分 六敷商事】
「あれ、今日少ないですね」
聞きなれた声が聞こえ、夏目は作業の手を止めて顔を上げた。思った通り、他部署の手塚が書類の束を持ってデスクの横に立っていた。
「腕木君はトイレに行ってますよ。お腹を壊したみたいだけど、手塚君は大丈夫? 昨日二人で飲みに行ったって聞いたけど」
「俺は平気ですよ、鉄の胃腸を持ってるんで」
腹をポンと叩いた手塚と腕木は同期であり、部署は違うものの、馬が合うのか休憩時間にもつるんでいるのを、夏目はよく見かけていた。
「というか、違いますよ。用があったのは足立さんだったんですけど、今日お休みですか。渡したい書類があったんですが……」
手塚が書類をひらひらさせたので、夏目は手を伸ばした。
「預かっておきましょうか」
「じゃあ、お言葉に甘えて。お願いします。……あれ、夏目さん手どうしたんですか?」
「飼い猫に引っかかれました」
書類を渡すと、手塚は「今日は橋爪さんもいないし、人が少なくて大変ですね」と夏目に労いの声をかけた。
「橋爪部長は午後から出勤されるみたいです」
「足立さんは無断欠勤だけどね」口を開いたのは、夏目の向かいの席に座る川尻だった。「でも、クソ寒いオヤジギャグが聞こえないおかげで、集中して仕事できるので助かってますー」
「あぁ、足立さんって、ちょっと独特な雰囲気ですよね。面白いけど」
「私は好きですけどね、足立さんのオヤジギャグ。場を和ませようとしてくれてるんだなって、そんな感じがします」
「夏目ちゃんは優しいね~。でもあれはね、場を凍り付かせるっていうのよ」
川尻はそう言うが、本心から足立を嫌っているようではなさそうだと夏目は思った。
「ムードメーカーですよね。じゃ、書類の方よろしくお願いします」
夏目は頷くと書類をファイルに入れようとして、奇妙なものを見た。
書類の端に、赤茶色の指紋が一つ付いていた。
汚れはまだ新しく、夏目がティッシュで拭こうとした——その時。
指紋が二つに増えた。
触ってもいないのに、三つ、四つと指紋は増え続け、紙全体に広がっていく。
「腕木君、この書類!」
背中を向けた腕木を呼び止め、もう一度書類に目を落とした時、指紋は嘘みたいに消えていた。
「何か不備がありました?」
大急ぎで戻ってきた腕木と、声に驚いた川尻の視線を受けた夏目は、バツが悪そうに俯いた。
「すみません。見間違いでした……」
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
【10月14日 19時20分 六敷商事 喫煙所】
「足立さんのこと、何か聞いてないんですか?」
川尻に話しかけられた橋爪は、一瞬何のことか思案したが、すぐに無断欠勤の事を聞かれたのだと思い立った。
「あいつは適当でふざけているように見えて、根は真面目だからな。やっぱり無断欠勤はおかしいと思うよな……」
「あの後、本当に何も連絡がなかったんですか?」
「実は、出社してからあいつに電話してみたんだよ。でも繋がらないから、さすがに嫌な予感がしてあいつの家族にも電話してみたんだ。……家族も何も知らないようだった」
「部長は足立さんと同期でしたっけ?」
「ん、ああ。そうだけど。どうした?」
「仕事中、心ここにあらずって感じでしたから、心配なんだなって。さっきも、ぼーっとしてたし」
「そんなにか」
橋爪は苦笑した。
「あいつの心配っていうより、仕事の心配の方が大きいよ。もしあいつがこのまま雲隠れしたら、あいつが抱えてる仕事をどう割り振ったらいいのかってな」
「あー……若い子達は頑張ってくれてますけど、まだちょっと頼りないところもありますしね。仕事を押し付けて潰れちゃうのは怖いし、今は簡単に転職されちゃいますし」
「難しい時代になったな」
タバコの灰を落とした橋爪は、目の前に人影を見つけた。赤茶色の泥に塗れたその影は、よく知る顔を川尻と橋爪に向けていた。
「足立?」
橋爪は火の付いたタバコを取り落とした。気を取られて視線を落とすと、足立に似た人影は消えていた。
「……本当の事、話してくれませんか?」
「どういう意味だ?」
「偶然社長室のドアの前を通った時、聞こえちゃったんです。本当ですか? ——足立さんが横領してたって」
橋爪は大きな溜息を吐いた。
「……みんなにはまだ内緒にしてくれ。特に、夏目さんは足立さんを慕っていたようだから」
そう言って、橋爪は新しい煙草に火を付けた。
「実はあの後、あいつの家族から電話があったんだ。部屋に遺書が残されていたそうだ。小口現金を使い込んだ責任を取るって。気付けなかった俺の責任だ」
「一人で背負い込まないでくださいよ」
川尻は深い溜息を吐いて、目頭を揉んだ。
「でも……色々どうすんですか」
「まだ何とも言えない。折を見て、社長が皆に話すと言っていた」
しばらく川尻と話し合った後、席を立った橋爪は、向かいの椅子に赤茶色の泥が付いているのを見つけた。それはちょうど、足立の幻が座っていた辺りだった。
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