第7話 揺れる静寂の先で

 竹林の朝は静けさの中に包まれていた。小鳥のさえずりが響き、風が木々の間を通り抜ける音が微かに聞こえる。

 隠れ家の裏手では、涼が焚火を囲むようにして腰を下ろし、小さな鍋でスープをかき混ぜていた。その向かい側ではミナトが煙草を一本取り出し、手馴れた動作で火をつける。

「今朝のスープ、ちょっと薄いかもしれません。」

 涼が鍋を見つめながら呟く。

「構わない。こういう生活じゃ贅沢は言えない。」

 ミナトは煙草をくわえたまま答えると、焚火の揺れる炎をじっと見つめた。

 それから数分後、静けさを破るように遠くで「ドン」という低い音が響いた。

「今の……?」

 涼が顔を上げ、ミナトを見つめる。

「気にするな。」

 ミナトは煙草を灰皿に押し付けながら立ち上がり、周囲を見渡した。その動作は淡々としているように見えたが、瞳の奥には鋭い警戒心が宿っていた。

「遠くだ。ここまでは来ない。」

 そう言いながらも、彼の目は竹林の奥へと向けられていた。

 朝食を済ませた後、ミナトは荷台の道具を確認しながら涼に声をかけた。

「今日は外に出る。必要なものを準備しろ。」

「外に……ですか?」

 涼が少し驚いた様子で答える。

「前の隠れ家で受けた仕事の納品だ。それから材料の調達もする。」

 ミナトは簡潔に説明すると、トラックの荷台を開けて工具箱を手に取った。

「私も行っていいですか?」

 涼が恐る恐る尋ねると、ミナトは一瞬だけ考え込むように視線を逸らした後、頷いた。

「車での移動だ。余計なことはするな。」

 朝日が竹林の間から差し込み、隠れ家を柔らかく照らしていた。ミナトは荷物を車に積み込むと、涼に軽く声をかけた。

「先に車に乗って待ってろ。」

「はい。」

 涼が返事をしながらセダンの助手席に向かう間、ミナトは静かに隠れ家を振り返った。風に揺れる竹の葉が微かに音を立てる。

 ミナトは目を閉じ、両手をゆっくりと広げた。掌に魔力が集まり始め、青白い光が現れる。

「少し、張りなおしておくか。」

 彼の呟きに応えるように、光の粒が広がり、周囲の空気が微かに震えた。見えない膜が隠れ家を包み込むように形成され、竹林の奥へと消えていく。

「結界は……これでしばらくは持つだろう。」

 淡々と確認する彼の目には、慎重さと責任感が宿っていた。結界の目的は単に隠れ家を守るだけではなく、無関係な人間を寄せ付けないためのものだった。

 その時、涼が車の窓を開けて顔を覗かせた。「ミナトさん、準備できましたよ。」

 ミナトは短く頷き、再び結界に目をやる。彼の手が下がると同時に、魔力の光が消えていった。

「行くぞ。」

 彼は足早に車に向かい、運転席に乗り込んだ。エンジン音が静かに竹林の中に響く。

「今の……結界ですか?」

 助手席に座った涼が興味深そうに尋ねた。

「ああ。戻れる場所がないと困るからな。」

 ミナトは短く答えたが、その言葉には隠れ家への強い思いが滲んでいた。涼はその横顔を見つめながら、小さく微笑んだ。

 二人は隠れ家を後にし、古びたセダンに乗り込んだ。涼は助手席に座りながら、窓の外を見つめていた。

「やっぱり、この車ってすごく……古いですね。」

 彼女が何気なく呟くと、ミナトは短く鼻を鳴らした。

「古くても動けば十分だ。変に新しいと、逆に整備しづらい。」

 涼は少し黙り込んだ後、「そうですね」と小さく呟いた。

 道中、ミナトは無駄な会話を避けるように黙々と運転を続けた。街道沿いの木々が流れるように後方へ消えていく。


 廃工場のような場所に到着すると、ミナトは車を止めて後部座席から工具箱を取り出した。

「中は埃っぽいかもしれない。気をつけろ。」

 彼の言葉に涼は小さく頷き、助手席から降りた。

「ミナトさん、この箱、私が持ちますよ。」

 涼が工具箱に手を伸ばすと、ミナトは一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、すぐにその手を離した。

「重いぞ。無理はするなよ。」

「大丈夫です。」

 工具箱をしっかりと持ちながら、涼は自信ありげに微笑んだ。その顔に、ミナトは何も言わず足を進めた。

 工場の中では、傷のある男が煙草をふかしながら待っていた。

「やっと来たか。お前がいなきゃ、このガラクタは動かないんだよ。」

「約束の時間だ。」

 ミナトは冷静に答え、涼に向かって軽く顎をしゃくった。

「そこに置いてくれ。」

「はい。」

 涼は工具箱を男の前の机に置くと、埃を払いながら辺りを見回した。

「助手を連れてきたのか?意外と面倒見がいいじゃねえか。」

 男が涼を一瞥してからミナトをからかうように言った。

「余計なことは言うな。」

 ミナトの返答は素っ気なかったが、涼はその背中越しに、彼が自分を気遣っていることを感じ取っていた。

 男がちらりと涼に目を向けた。「お嬢ちゃん、あの工具箱からソケットを取ってくれるか?18㎜の。」

 涼は工場の工具箱へ向かい、指で差された場所に手を伸ばした。

「これですよね?」

 手渡されたソケットを受け取った男は、驚いたように笑みを浮かべた。

「お前の助手、意外と仕事ができるじゃねえか。」

「少し黙ってろ。」

 ミナトが短く言い放つと、男は肩をすくめたが、その顔には少しだけ感心したような表情が浮かんでいた。

 涼はそんなやり取りを見ながら、内心でほっとしていた。ミナトと共に行動する中で、自分にも何か役に立てることがあると実感できたのだ。

 作業を終えた後、ミナトは工具を片付けながらぼそりと言った。

「悪くないな。これくらいなら、お前も次からやれる。」

 その一言に、涼は小さく笑顔を浮かべた。

「こんなところにも人がいるんですね。」

 涼がポツリと呟くと、ミナトは静かに答えた。

「人はどこにでもいる。だから隠れ家は定期的に変えなければならない。」

 彼女はミナトの言葉を聞きながら、どこか遠い目をしていた。


 帰り道、ミナトはセダンの燃料メーターをちらりと見た。針は赤い領域に近づいている。

「少し寄り道するぞ。」

 ミナトはそう告げると、近くの古びたガソリンスタンドに車を滑り込ませた。

 スタンドは今にも朽ち果てそうな建物と、自動給油機が数台並んでいるだけの場所だった。人の気配はなく、辺りには草が生い茂っている。

「……周りに何もない。」

涼が助手席からぼそりと呟く。

「ここ以外は目立ちすぎる。」

ミナトはそう答えながら車を停め、給油ノズルを取り出してタンクに差し込む。給油機が動き出し、低い機械音が静けさの中で響いた。

「それにしても、この車、本当に頑丈ですよね。」

涼が軽くシートを叩いて言った。「あんな道を走っても全然壊れないし。」

「使い方を間違えなければ、どんな機械でも長持ちする。」

ミナトは無表情のまま答えた。

「でも、なんだか不思議です。」

涼が小さく笑う。「普通、こんな古い車で旅なんてしないですよね。」

「普通じゃないからな。」

ミナトは軽く肩をすくめた。「俺たちには、この程度の『普通じゃない』がちょうどいい。」

 涼は窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。「でも、ちょっと羨ましいです。こうやってどこでも行けるなんて。」

「行ける場所があるのは幸運だ。」

 スタンドの店員は、年配の男性が一人。ミナトに向かって「あんた、ここいらじゃ見ない顔だな」と声をかけたが、彼は特に気に留めることなく代金を支払った。

「動けばそれでいいって顔してるな、その車も。」

 店員の言葉に、ミナトは短く「そうですね。」とだけ答えると、車に戻った。

 セダンのエンジンが再び低い音を立て、車がスタンドを後にした。

 涼は助手席に座り直しながら、「あの人、何だか親切そうでしたね」と呟いたが、ミナトは何も言わずにエンジンをかけた。


 隠れ家に戻った頃には、空が深い藍色に染まり始めていた。ミナトは車を停めると、まず荷物を降ろす前に周囲を見渡した。竹林の隙間から冷たい風が吹き抜け、葉の擦れる音だけが耳に届く。

「涼、荷物を片付けておけ。俺は結界を張り直してくる。」

「……またですか?」

 涼は少し疲れた表情を浮かべながらも、車から買い出し袋を抱え出した。

「念のためだ。」

 短く答えると、ミナトはそのまま竹林の中へと足を踏み入れた。

 彼は慎重に周囲を歩きながら、指先から魔力を少しずつ送り出していく。結界のラインをなぞり、破損や歪みがないかを確認しながら、細かな調整を施していく。

「京都が来た以上、ここも安全とは言えない。」

 独り言のように呟きながら、彼は竹林の中を進んでいく。その目は、何かを探るように鋭く光っていた。

 結界を張り終えた後、ミナトは一息ついて隠れ家へ戻る。車の近くでは、涼が買い出しの袋を運び終えたところだった。

「今日は夕食、私が作りますね。」

 彼女は笑顔を見せると、そのまま隠れ家の中へと入っていった。ミナトは一瞬だけ彼女を見つめた後、作業場に足を向け、霞切の整備を始めた。

 隠れ家の台所では、涼が夕食の準備を進めていた。作業台の上には街で買った新鮮な野菜や、廃村で漁った缶詰、そして竹林近くで罠にかかった鹿肉が並んでいる。

「これで足りるかな……。」

 涼は鹿肉を適度な大きさに切り分けながら呟いた。その隣では、火を起こすための簡易的な魔法が、薪に小さな炎を灯している。

「もう少し火力を強くして……。」

 彼女は魔力を慎重に制御しながら、鍋の中で煮立つスープをかき混ぜた。スープの香りが部屋中に広がり、どこか安心感を与えるようだった。


 ミナトは霞切の整備を進めながら、ふと遠くから何かが響いたような気がして手を止めた。

「……なんだ?」

 遠くの空に目をやると、竹林の間から一瞬だけ黒い煙が揺れるように見えた気がする。だが、音も煙もすぐに消え去り、再び静寂が戻ってくる。

「気のせい……じゃなさそうだな。」

 眉をひそめたミナトは、工具を片付け始めた。その時、台所から涼の声が響く。

「ミナトさん!夕食できましたよ!」

 その声は、どこか嬉しそうだった。ミナトは霞切に布をかけると、静かに歩き出した。


 隠れ家の中に戻ると、テーブルには鹿肉の煮込みと缶詰の豆を使ったスープ、それに街で買ったパンが並べられていた。涼は満足げにそのテーブルを見つめ、ミナトを促した。

「今日は頑張ったんですよ!魔法で火の調整もバッチリです!」

「……悪くない匂いだ。」

 ミナトは短く答えると椅子に腰を下ろした。涼の顔に、どこか誇らしげな表情が浮かぶ。


 夜が更けるにつれ、隠れ家の周囲は深い闇に包まれていった。竹林を渡る風の音が響く中、かすかに遠くでまた爆発音が聞こえた気がした。だが、それを確かめる前に、ミナトは目の前の夕食に集中することを選んだ。

「今は食うことが先だ。」

 その言葉が静かに響き、焚火の光が隠れ家の中を穏やかに照らしていた。






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