第3話 逃亡の道、星空の下

 夜明け前、九州の山間部を走る黒いクラシックセダン。その背後には、簡易トレーラーが静かに揺れながら続いている。トレーラーには厚いカバーが掛けられ、その下には霞切が隠されていた。

 助手席に座る篠塚涼は、窓の外を見つめていた。淡い朝の光が山並みを照らし、木々の隙間から鳥のさえずりが聞こえてくる。

「……なんだか、ずっと緊張してます。」

 涼が呟くように言うと、運転席のミナトはハンドルを握ったまま短く鼻を鳴らした。

「慣れろ。そのうち何も感じなくなる。」

「でも……こんなに大きな魔導機を運んでて、もしバレたらどうするんですか?」

涼の不安げな問いに、ミナトは淡々と答える。

「バレない。」

「どうしてそんなに自信があるんですか?」

「簡単だ。俺がいるからだ。」

 涼はその言葉に驚きつつも、何も言えなかった。ミナトの横顔には確固たる自信が滲んでいる。

「……それにしても、こんなトレーラー、どうやって手に入れたんですか?」

「昔から持ってたんだよ。まさか魔導機を載せることになるとは思ってなかったがな。」

「本当に何でもできるんですね……。」

 涼は驚きと尊敬の混ざった目でミナトを見たが、その顔にはまだ不安の色が消えない。ミナトは視線を前方に向けたまま、少しだけ口角を上げた。

「お前が心配する必要はない。余計なことを考えると車が動かなくなるぞ。」

「えっ……そんなこと……。」

 涼が驚く顔を向けると、ミナトは小さく笑った。

「冗談だ。気張りすぎるなってことだよ。」


 舗装された道路に入ると、前方に警察の検問所が見えてきた。数人の警官が車を止め、手続きをしている。背後には青白い光を放つ魔導機雷光とバン型のパトカーが1台、白バイが2台停まっていた。その威圧感に、涼は思わず身を縮めた。

「……ミナトさん、どうしますか?」

「どうもしない。普通に通る。」

「でも……。」

「お前は顔を出さなければいい。」

 セダンが列に並び、順番が来た。警官が手を上げて車を停める。

「すいません、ご迷惑おかけしてます。後ろに載せてるのって———」

「魔導機です。」

 ミナトはあっさりと答えた。その正直さに涼は驚き、小さく息を呑む。

「魔導機?」

 警官の眉が僅かに動く。

「霞切の払い下げ品です。民間登録もやってるんで。」

 ミナトは落ち着いた様子で書類を差し出す。警官はそれを受け取り、慎重に目を通し始めた。

「こんな場所で何に使うんですか?」

「整備に持っていってたのを回収してただけですよ。持って帰っても工場で使う用なんで」

 その答えに警官は少し怪訝そうな表情を浮かべたが、やがて書類を返しながら頷いた。

「わかりました。特に問題はないようです。ただし、運搬は慎重におねがいします。トレーラーで魔導機を引いてるのはやっぱり目立っちゃうんで。」

「はい、お疲れ様です。」

 ミナトが車を動かし始めると、涼が恐る恐る口を開いた。

「本当に、魔導機だって言って……よかったんですか?」

「問題ないだろう。」

「でも、どうしてあんなに素直に?」

「誤魔化すと怪しまれる。それより正直に言った方が疑われにくい。」

 ミナトの言葉に、涼は感心したように頷いたが、彼が手を握り締めているのを見逃さなかった。

 ――魔法を使っていたのだろう。認識を歪め、警官たちが深く追及しないように。


林間の空き地に停めたセダンは、月明かりの下でその黒いボディを静かに輝かせていた。焚火が薪を弾けさせる音だけが、夜の静寂に響いている。

 ミナトは焚火を見つめながら、手に持った細い枝で炎を軽くつついた。その隣で涼は、炎の温かさを感じながらも心の奥に潜む冷たさを消し去ることができないでいた。

「……ミナトさん。」

 涼がぽつりと口を開く。

「ん?」

「さっき、検問でバレなかったのは……本当は魔法のおかげだったんですよね?」

ミナトは少し間を置いて、淡々と答えた。

「そうだな。」

「それって、なんだか不思議です。相手の認識を歪めるなんて……そんなことができるなんて。」

 涼の声には驚きと尊敬が混ざっていたが、ミナトはそれを受け流すように肩をすくめた。

「大したことじゃないさ。慣れればお前にもできる。」

「私に?」

 涼は目を丸くしてミナトを見たが、彼の視線は焚火に向けられたままだった。

 炎のゆらぎに照らされるミナトの横顔は、どこか哀愁を帯びているように見える。涼はそれを見つめながら、意を決して問いかけた。

「……ミナトさんは、何か大事なものを失ったんですか?」

ミナトの手が一瞬止まる。そして、軽く笑いながら答えた。

「誰だって、失うもんはあるさ。」

 その言葉には深い哀しみが滲んでいたが、涼はそれ以上追及することができなかった。ただ、焚火の炎を見つめながら、ぽつりと呟く。

「私……まだ普通の生活を覚えてるんです。でも、もう戻れないんですよね……。」

「忘れるな。」

 ミナトは短く答える。

「だけど、しがみつくな。今は生き延びるのが優先だ。」

「……また、その言葉。」

 涼が苦笑交じりに言うと、ミナトも軽く笑った。

「お前がそれを忘れるくらいには、俺が繰り返してやるさ。」

 涼が焚火の炎をじっと見つめながら、そっと口を開いた。

「……ミナトさんって、本当に何でもできるんですね。」

「生き延びるためにやってるだけだよ。」

 ミナトは焚火をいじりながら淡々と答える。

「お前も、そのうち慣れるさ。」

 その言葉に涼は驚き、思わず聞き返した。

「……慣れる、ですか?」

 ミナトは焚火の棒を持つ手を止め、涼に視線を向けることなく静かに言った。

「慣れるしかない。俺たちみたいな立場の奴はな。」

 焚火の炎に照らされた涼の手のひらが、抑制具の跡を浮き上がらせる。涼はその跡を指先でなぞりながら、微かに眉を寄せた。あの無機質な命令の声、冷たい金属の感触――逃げても、心の中に焼き付いたものは消えない。『普通の生活に戻りたい』と思う気持ちと、二度と戻れない現実の間に、彼女は揺れていた。それに気づいた彼女は、拳を強く握りしめた。

 ふと、涼が空を見上げて呟く。

「星……きれいですね。」

 ミナトも少し顔を上げる。

「そうだな。たまには、こういう景色を見るのも悪くない。」

「ミナトさんも、こういうの好きなんですか?」

「嫌いじゃないさ。ただ、余裕がないときは見ても何も感じない。」

 涼はその言葉に考え込み、意を決して尋ねた。

「……余裕がないときって、どんなときですか?」

 ミナトは焚火の棒をつつきながら一瞬黙り、低い声で答える。

「大事なものを失うときだ。」

 彼の言葉に滲む深い哀しみが、涼の胸に重く響いた。

 ふと自分の家族のことを思い出した。収容所に送られた後行方知れず―――収容所でのそれは、すなわち死を意味するものだ。

 彼女は俯きながらそっと呟いた。

「ずっとこんな風に移動してるんですか?」

「大体な。場所を転々としながら、必要なもんを集めてるだけだ。」

「……疲れないんですか?」

「疲れるに決まってる。でも、止まれば、そこで終わりだ。」

 涼は焚火を見つめながら沈黙する。その目には、ミナトの言葉の冷たさに隠された決意を感じ取る何かが宿り始めていた。

「それでも、俺は生きてる。」

 ミナトが静かに言った。

「だから、お前も生き延びろ。どんな形でもいい、まずはそこからだ。」

 涼はその言葉を聞き、じっと焚火を見つめた。そして、彼女の瞳に、炎の中で燃え上がるような微かな決意が灯る。

「……私も、負けたくないです。逃げるだけじゃなくて、ちゃんと自分の力で何かをしたい。」

 涼は拳をぎゅっと握りしめ、炎の揺らめきに照らされた瞳が微かに光った。『逃げるだけじゃなくて、自分に何かできることを見つけたい』――そう思う気持ちが、彼女の胸に小さな火を灯していた。

 ミナトは短く笑い、星空を見上げながら言った。

「なら、まずはその覚悟を示せ。まだ何も始まっちゃいない。」

 焚火を消した後、二人はセダンの中で夜を過ごすことにした。助手席に座る涼は、寝袋の中で膝を抱えながらふと尋ねた。

「……ミナトさんは、どうして魔法使いを助けてくれるんですか?」

 ミナトはしばらく何も言わなかったが、やがて窓の外を見つめながら答えた。

「助けるってほど大層なことはしてない。ただ、自分がやれることをやってるだけだ。」

「それでも、危険なのに……。」

「危険だろうがなんだろうが、俺は自分が決めたことをやるだけだ。それだけだよ。」

 涼はその言葉に何かを感じ取りながらも、さらに尋ねた。

「……霞切って、すごいですね。どうしてあんなものを持ってるんですか?」

 ミナトは少しだけ笑い、助手席に投げ出していたジャケットを手に取った。

「古いもんだ。払い下げ品だよ。」

「でも……あんな動き、普通じゃないです。」

 ミナトは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに軽く笑った。

「それは俺の腕が良いからだろ。」

「本当は違うんですよね?」

 その問いかけに、ミナトは返答せず、窓越しに夜空を見上げた。星明かりが彼の顔を薄く照らし、その眼差しには何か深いものが宿っていた。


 涼は寝袋に包まりながら眠りにつこうとしていた。しかし、目を閉じると、かつての収容所の光景が脳裏に浮かぶ。

 白い壁に囲まれた無機質な部屋。規則正しく並んだ椅子に座る抑制具をつけた者たち。彼らは皆、無表情で、命令を待つだけの存在に成り果てていた。涼はその一人として扱われていたことを思い出すたび、心の奥が冷たく軋むように痛むのだった。

『50-427B、移動開始。』

 機械的な声が頭の中で響き渡り、涼は思わず目を開ける。冷たい汗が額に滲んでいた。焚火の残り火がぼんやりと照らす空間の中、涼はミナトの寝姿を見て少しだけ安堵する。

「……ミナトさん。」

 声に出さず呟く。彼の無防備な寝顔を見て、涼は少しだけ目を閉じ、再び眠ろうとした。


 翌朝、セダンに乗り込む前、涼はトレーラーのカバー越しに霞切のシルエットを見つめていた。カバーの端がわずかにめくれ、内部の装甲が覗いている。粗削りなラインの一部が月光に照らされ、その下に埋め込まれたパーツが反射しているのを涼は見つけた。『古い払い下げ品』という説明には似つかわしくない不気味な違和感が彼女の胸をざわつかせた。

「……これが、霞切……。」

 涼はその形状に違和感を覚えた。昨日検問所で見た雷光とは全く異なるが、それでもどこか得体の知れない力を秘めているように見える。

「何してる?」

 ミナトの声が背後から響く。驚いた涼が振り返ると、彼は冷静な表情で立っていた。

「早く乗れ。時間がもったいない。」

「すみません……これって、本当にただの古い魔導機なんですか?」

 ミナトは一瞬だけ視線を霞切に向け、軽く笑った。

「古いもんだよ。払い下げ品だ。」

 その言葉にはどこか含みがあったが、涼はそれ以上追及しなかった。ただ、胸の奥に小さな疑念が残る。

 朝日が昇り、セダンのフロントガラスに反射する。ミナトがエンジンを始動すると、車内に振動と低い音が広がった。

「今日も長い道のりになるな。」

 涼は小さく頷きながら窮屈そうに体を伸ばした。

「でも……不思議と落ち着いてきました。」

 その言葉に、ミナトは軽く笑いながら短く答えた。

「気を抜くな。落ち着いてるときほど、危険が近いもんだ。」

 セダンは静かに走り出し、二人は再び険しい道のりへと踏み出した。

 車内では、エンジン音だけが響く静寂の中で、二人はそれぞれの思考に沈んでいた。

 涼はエンジン音の振動を感じながら、頭の中で昨日の検問の光景を繰り返し思い出していた。『どうしてこの人は、こんな危険なことをしてまで私を助けるんだろう』――その問いは何度考えても答えが出ないまま、彼女の心の奥に澱のように沈んでいった。

涼がふいに口を開く。

「ミナトさん、次はどこに行くんですか?」

「もっと安全な隠れ家だ。そこなら、しばらく落ち着ける。」

 ミナトの答えは淡々としているが、その声には確かな意志が感じられた。

「……生き延びるために?」

 涼の問いに、ミナトは軽く頷いた。

「それが第一だ。」

 彼の言葉はぶっきらぼうだったが、涼にはその中に僅かな優しさが込められているように感じられた。



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