一章-5 私のお兄様*三男・エイル-2



朝の日差しは柔らかだ。

草木が日差しに透けて輝いている。


「一人では入っちゃ駄目だよ? ここ、獣が出るらしいからね。怖いよね、あはは」

 言葉とは裏腹に、その口調はまったく怖くなんてなさそうだ。


 エイルに連れられて、テイワズは家の裏手の森を進んでいる。

 エイルは膨らんだ布袋の鞄を持っているだけで、二人とも昨日と同じ装いだ。

 人の手の入っていないようで草木が生い茂る森だが、背の高い草木は二人を傷つけない。

(さりげなく魔術を使ってる)

 すぐにテイワズは気がついた。

 ルフトクスと同じ魔術要素──大地。


 エイルが手を伸ばして草をかき分けると、それらは道を割って作るようだった。それはひれ伏すようでさえあった。

 金髪は王冠のよう。平伏す草と同じ緑の目。

 魔術の腕も剣の腕も、兄二人と引けを取らないエイルは、自身のことを器用貧乏だと言っていた。

 万能型だとテイワズは思う。


 なのに彼はろくに魔術学校には出席せず、女性と遊ぶか絵を描くかばかりだった。

(本当なら好成績だっただろうに)

 とテイワズはもちろん家族皆が思っていた。

 サボり癖があり女にだらしないとあっては、教師の心象はあまり良くない。

 だから彼はそこそこの成績で卒業し、それから家を出ていってしまった。

(なんでなのかは、わからない)


『兄貴たちがしっかりしてるから安心して遊べるよ〜あはは、ばいばーい』なんて言っていた、彼のことが。

(兄弟の中でいちばん、わからない)


「ごめんね、ドレス、汚れてない? ……着いたよ」

 前を歩くエイルの背中が止まった。

 背中を見ながら考えていたせいで、ぶつかってしまう。

「おっと」

 よろけたテイワズの腰を、エイルはすぐに支えた。

「すみませ──」

「ほら、見て」

 そう言われて、腰に添えられた手を振り払うのを忘れた。

 息をするのも、忘れた。

「……綺麗」

 テイワズの煌めく瞳を見て、エイルは頷く。

「でしょ?」


 それは小さな泉だった。木々の間から木漏れ日が差し込み、水底まで照らしている。透き通る水面には魚も見えて、それを捕まえるためか小鳥たちが泉の淵に立っている。

 泉の蓋の石は苔むしており、この場所が人工的なものではないことを告げていた。

 木漏れ日が動いて水面に反射して──小さな虹を作る。


 すごい。そう息を吐いたテイワズに、エイルはにっこりと笑いかけた。

「俺のお気に入りスポットなの」

 金髪が触れる肩をすくめる。

「癒されるでしょ?」


 秘境と呼ぶに相応しく、地上の楽園と呼ぶに値すると思った。


「足つけると気持ちいいんだよねえ」

 エイルが進み、ほとりに立った。風を浴びたその金髪が煌めく。

「……入ってみようかな」

 テイワズは横に立ち、それからしゃがんで靴を脱ぐ。あからさまに目を逸らしたエイルを気にせず、素足を曝け出した。


 泉の水は、冷たくもなく温かくもなく、快適な温度だった。

「気持ちいい」

 足を動かせば波紋が生まれ、揺れる虹がテイワズを楽しませた。

「……ちょっと、」

 エイルは泉に足を入れず、少し引いて座り込んだ。急に真剣さを帯びた声だった。テイワズは振り返る。

「お兄様?」

「そのまま」


 エイルは持っていた布袋から紙とペンを取り出した。

 見つめられている。なのに目は合わない。

(絵を? ……私を?)

 とりあえず余計なことは言わないでおこう、と水を跳ねさせたテイワズを見て、エイルが微笑んだ。

「あはは。いいね、絵になる」


(どっちが)

 長めの金髪と緑の目。誰もが見上げる高身長。

(お兄様の方が、絵になるのに)


 真剣な目で、エイルは言った。

「ティー。綺麗だ」


 穏やかな時間だった。

 俗世から隔離された、聖域のような空間。

 ずっとここにいたいと願うテイワズを切り取るように、エイルは絵を描いた。


(今まで、お兄様に描かれたことなかった)

 エイルは同じ家に住んでいた頃、遊び相手の女性ばかりを描いていて、家族のことは一度も描いてはくれなかった。

 なんでなのかと聞けば、あははと笑って別にとはぐらかされた。


(嬉しいような恥ずかしいような)

 嫌じゃない。

 いつもより真剣な瞳も、射止められそうなほどの視線も、嫌じゃない。


 だからテイワズは穏やかな時間の流れに身を任せた。

(別世界みたい)

 昨日泣いたせいだろうか。不思議と気分は凪いでいる。──落ち着く。


 それからしばらくそんな時間が過ぎて、エイルが立ち上がった。

「あはは。ごめんごめん、夢中になっちゃった」

 どんな絵になったのかとテイワズは覗こうとしたけれど「だーめ、秘密」と言われて見せてもらえなかった。


 それからその場所を後にして、二人で街中で昼食を食べた。

 今まで行かないような庶民の店で、エイルは馴染みらしい挨拶を交わした。

 天気がいいからと、窓際の席に座った。


「それにしても、親父には困ったもんだねえ」

 出てきた料理を食べてから、エイルが言った。


 避けていた話題が出来る。

 向き合うことができる。

 テイワズは聞くのを躊躇わなかった。


「お兄様はわかったりしますか?」

「あはは。覚えてないなあ、気がつきゃ出来のいい兄二人に囲まれてたし」

 エイルが食後のお茶を啜って、それから続きを語る。

「きょうだいの共通点を探すなら」

 テイワズもカップを置いて喋る

「ヘルフィとフォルティが同じ赤目で『火』、ロタときみが青い目、俺とルフが同じ『大地』の力で……俺と、きみは」

 エイルがテイワズをじっと見た。

「同じ髪の色だ」

 太陽に愛されたような、金髪。

 じっと見つめられて、テイワズは唾を飲み込む。

 見た目の共通点があるのは、二男ロタと三男エイル。


 とはいえ──

「ふー。……とはいえ、外観的な色の要素なんてなんの意味もないんだよねえ、魔力は多少遺伝の要素があるけど、胎内環境とかで変わるらしいしねぇ」

 そうなのだ。

 エイルの言う通り、髪の色が同じイコール血縁とは限らない。


 だからもしもこの出来事が物語になるのなら、ミステリーにはなり得ない。

 きっとただの、思い出話にしかなりえない。


「お前たちは異母兄妹! オスカリウス家の同じ子供だから同じように育てる! ってひとまとめにされただけだもんなあ」


 やっぱりここで結論は出ない。それでも話ができたことで少し前進したような気になった。


「メイドさんとかに話を聞こうにも出入りがあるしねー、畑が不作の時は人が多かったり、いるメンバーはバラついてるしねぇ」

 ああけど、とエイルは付け足す。


「きみが……きみが来た日のことは、覚えてるよ」

「え、お兄様。それ──」


 その話をいちばん聞きたい。

 その話が、いちばんきっと核心に近付ける。

 テイワズが身を乗り出したその時、

「エイルー!」

 店の入り口から黄色い声が飛び込んできた。

「エイル様、今度はわたくしを描いてくださーい!」

 歩み寄ってきた女性たちに囲まれて、エイルが答える。

「あはは。みんな、ありがとう」

 囲む女性の一人が、エイルに向かい合って座るテイワズを睨んだ。

「…………こちらの女性は?」

 その鋭い視線に、テイワズは苦笑いをする。

(お兄様、変わらずに人気なのね)


「妹だよ、妹」

 エイルの返事はすぐだった。

「俺、いいとこの貴族の息子って言ったでしょー? こっちは妹。ほら、似てるでしょ?」

 そう言われて周りの女性たちの目が変わった。

「エイル様の妹さんなのー!?」

「きゃー! 可愛い、兄妹揃ってお綺麗ー!」

 途端に向けられる好意的な、または偽善的な笑みに、テイワズは微笑みだけで返す。

 困惑は見せない。

 見せるものではない。


「エイル様、次はいつお呼びくださるの?」

「わたしの番だったはずよ」

 軽く流していたエイルの態度に煮え切らず、女性たちが口論を始める。

「宮廷画家になれるほどの絵の腕よ? あんたなんか描かれるわけないでしょ?」

「あんたこそ脱げば描いてもらえるって思ってるんでしょ?」

 兄の周りで始まるキャットファイトがなんとも息苦しい。

(私、そろそろ邪魔なのかも……)

 兄を巡って女性たちが争うのは以前も日常だった。

 とはいえ。

 兄の予定と、その周囲の予定。

 何も考えずにきてしまったな、とその様子を見たテイワズは自分を省みる。


 そんな周囲を、エイルは柔らかな笑みで収めた。

「ごめんね、今日は兄妹水入らずの日だから」

 まるでその緑の瞳に映ることだけが目的だった。その目的は果たしたとばかりに、女性たちは名残惜しそうながらも、立ち去っていた。

 それでもやっぱり視線を感じて落ち着かない。


「あはは、ごめんね」

 ひとまず静決意さを取り戻した席。エイルが言う。

「まだ帰んないでいいよ。兄貴たちには言ってあるから大丈夫だって」


 やっぱり見透かすような言葉だった。

「でも、お兄様……」

「今帰ったって、なんか気まずいでしょ?状況は変わらないんだから」


(それは、まあ、その通りなのだけれど)

 何を言っても受け入れられてその上で飲み込まれてしまう。

 それでもテイワズが言い訳を考えていると、エイルは柔らかに笑った。

「無理することないよ。俺はきみのお兄ちゃんなんだからね」


 兄と言ってくれるのなら。

 ならば甘えていいのかもしれない。

(今まで通りに)


「ありがとうございます、お兄様」


 結局聞き逃した話の続きをすることもなく、二人はそれからすぐに店を出た。

 それから街を案内されながら、エイルの家に戻った。

 二人で食事を作り、今日見たものや聞いた音楽について話す。

 話題が多く、時折り身振りを交えて話すエイルの話は尽きることがなかった。女性に人気があるのは納得だと身内ながらに思う。


 エイルとはこうして二人でゆっくり過ごしたことがなかったな、とテイワズは思う。

「あはは。俺遊び回ってたからね」

 また見透かされた。

「ティーだけじゃないよ。兄弟みんなとそうだよ」

 避けていたわけじゃない、と暗にエイルは言った。

「ま、俺の罪な性分だよ」

「お兄様ったら」

 笑うテイワズの顔を見て目を細めたエイルは、いつもの軽い笑いをしなかった。


 陽の光を浴びて、社交的なエイルに連れられ多くの人々と話したテイワズは、夜にはそれなりに疲れていた。

 やはりテイワズはベッド。エイルは部屋の隅で寝ようということになる。

「あはは。昨日のは話の流れで……事故みたいなもんだよ、安心してよ」

 行く先々で顔を合わせた知り合いに「妹だよ」と自分を紹介していたエイルに、テイワズはもう気まずさを感じない。

「おやすみなさい、お兄様」

「おやすみ、ティー……いい夢を」



 夜中に目が覚めたのは古い家特有の隙間風に撫でられたからだった。寒いと思うほどではないが、やはり家とは違う環境のせいだろう。

(昨日よく眠れたせいかもしれない)

 抱きしめられて眠った夜は、暖かかった。


 思い返して視線を投げる。

 暗闇の中でも金髪はよくわかる。エイルは部屋の隅でシーツで体を巻くようにして眠っている。

(動きづらそう)

 さすがにそんなぐるぐる巻いていたら苦しいんじゃないかと思うほどシーツは巻き付いている。

 そんな丸まるほど寒いだろうか? とはいえ、ちょっと緩めてあげようとテイワズは思い至る。


 音を立てないよう身を起こし、寝息に足音を隠すようにベッドを降りて兄に近づく。

 影の中に震える黄金のまつ毛。やはり少し寝苦しいのだろう、寝息に混じった唸り声に微笑ましい気持ちになった。

(やっぱり寝苦しいのね)

 首元だけでも緩めよう、とテイワズはしゃがみ込んで手を伸ばした。


「んん、ティー……?」


 唸り声に慌てて手を引っ込める。

 起きたかと思って息を殺したが、寝言だったようだ。再び寝息が聞こえてくる。

(よかった)

 再び手を伸ばして、今度こそエイルの首元に手を伸ばした。

 寝息に混じって、それは聞こえた。


「愛してる……」


 ──息が止まった。

 一歩引いた。愕然とした気持ちに、音を殺すのを忘れた。

 テイワズが一歩引いたその音に、エイルの体が反応した。

 すわ起きたかと思ったが、再び聞こえた寝息に、ひとまず胸を下ろす。

 エイルの寝息はまだ聞こえている。

 帰らなきゃ、と思った。

 ここにいるべきではないと、テイワズは思った。

(聞いちゃいけなかった。きっと、お兄様は──)

 

(広場の方なら夜でも流しの馬車がいるはず)

 テイワズはエイルの顔を見て、先ほどまで自分が使っていたシーツをエイルにそっとかける。

(ごめんなさい、お兄様)

 逃げてばっかり。

 そう思ったが、今はそうするしかなかった。

 何もわからない状況では、どう動くべきかも──どう兄たちの顔を見つめればいいのかもわからないから。


 細心の注意を払って玄関の扉を開けた。

(おやすみなさい)

 声には出さなかった。それなのに扉を開いて頬を撫でた風は、まるで答えてくれたようだった。

(優しくしてもらった)

 テイワズは扉を閉める。

(……お兄様の気持ちを封じ込めさせて。優しくしまった)


 テイワズは細心の注意を払っていたが、閉められた古い扉は軋む音を立ててしまう。

 一人きりになったばかりの部屋の中で、エイルのめがゆっくりと開いた。

「……ん?」

 自分にかけられたシーツの枚数が増えていることと、きつく巻いていたシーツの首元が緩くなっていることに気がつく。

 そしてベッドに視線を投げた。

「…………ティー?」

 緑の目に、人の姿は映らなかった。



 夜はとっぷり道を染めていて、月が出ているおかげで歩けるような暗さだった。

 すれ違う人は酔っ払た様子の男ばかりで、テイワズは存在感をできるだけ消して道の端を歩いた。

(お兄様を求めてる人はたくさんいる)

 広場に向かって早足で歩く。

(私はそばにいないほうがいい)

 逸る鼓動。早る足。

 暗い道を誰とも目を合わさないように下を妹弟歩いていた。だから前から来た人影に気づかなかった。

 テイワズの体が、前から歩いてきた屈強な体の男たちの一人とぶつかって跳ねた。

 しまった、と思ってすぐ顔を上げた。

「申し訳ありま──」

「なんだ? おっと、可愛い女じゃねぇかあ」

 言いかけた謝罪に、男の声が覆い被さってきた。男たちは時間と場所に見合わぬ格好をしたテイワズを見て、愉快そうに笑った。

「こぉ〜んな時間に一人で歩いて、危ないよぉ、お嬢ちゃん」

 下卑た笑いが添えられて、失礼しますと避けようとしたが、男たちは道を遮った。

「いいじゃん、おれたちが送っててやるよぉ。どこ行くの?」

 最悪だ。

 周りを歩く人通りはまばらで、その少ない人々さえもこちらを見ないようにしている。

 酔っ払いに絡まれる女子なんて珍しい光景ではないだろう。関わりたい光景でもないだろう。


(笑顔だ)

 こう言う時こそ、笑え。強く笑え。


「すみませんでした。急いでおりますので」

 正当に答えたつもりだった。この時間にそれは正答ではなかったらしい。

 男たちは、テイワズの足元から顔まで舐めるように見回してから、仲間内で笑い合う。

「いやいやぁ、人にぶつかっといてその態度はないでしょ?」


 だめだ。話しても通じない。

 こうなれば逃げるしかないとテイワズは道を確認した。


「おれたちとさぁ、楽しいところ行こうよ」


 向かい合った距離でもわかる酒臭い息がかかって、汚れた長袖の腕がテイワズに伸びてくる。

 逃げなきゃ、と身構えたその時だった。


「クソがっ! 俺様の妹に触るんじゃねぇ!」


 目の前が明るく照らされた。

 否、手を伸ばした男の袖先が赤い炎で燃え上がった。

(この声は)

 男たちの後ろから現れたその髪の色が、月明かりで照らされた。──銀髪。

 月の色の名前を読んだ。

「ヘルフィお兄様」


 袖先の火にたうち回る男と困惑する仲間たちの横を抜けて、テイワズの肩を自分の胸元に寄せた。

(なんで!?)

 テイワズの肩を強く抱いたヘルフィ。

 赤い瞳が、目の前の炎の光で揺らめいていた。

 男たちを一瞥したヘルフィが、チッ、と舌打ちをしてその火を消した。

 火をつけられた男の袖先は黒く燃え、焦げついた匂いがしていた。けれど腕自体にまったく火傷の跡はなかった。

 立ち上がった男たちは、テイワズと突然現れて肩を抱くヘルフィの足元に唾と言葉を吐きかけて逃げるように立ち去った。

「魔力持ちかよ!」

「こんな時間に貴族が歩いてんじゃねーよ!」


「それは俺様も同意だわ」

 小声で頭上から落とされた声に、テイワズはおそるおそる顔を上げる。

「お、お兄様……?」

 なんでここに。

 言外の言葉はヘルフィの牙に噛み殺された。

「こんな時間に出歩くなんて馬鹿じゃねぇのか!」


「ひっ」

 先ほどの男たちにも怯まなかったテイワズの肩が、兄の言葉にびくりと跳ねた。

「どういうことか聞かせてもらおうかぁ?」

 獰猛な犬歯を隠さない兄の顔は怒っている。

 どうしよう。

 なんと言おうか、と悩み出したテイワズの肩がヘルフィの腕から離された。

 向かい合う形になって、兄の顔を見る。

 その銀髪を、たった一日見てないだけなのに久しぶりに感じた。


「ティー!」


 突然後ろからかかった声に、二人は振り向く。

 駆け寄ってくる金髪に、ヘルフィが目を細めた。


「おー、久しぶりじゃねぇかあ」

 乱れた金髪を見て、銀髪は笑って名前を呼んだ。

「エイル」


 金髪のエイルは、銀髪の兄を見て露骨に嫌そうな顔をした。

「うーわ、兄貴じゃん……」

 どうして、なんてことをエイルは聞かなかった。息を整えたエイルは、乱れた髪を直していつもの声の調子で言った。


「あはは。こんな時間にくるなんてよっぽど切羽詰まってたのかな? ほーんと自分勝手な兄貴だよねぇ」

「うるせぇ。久々に顔合わせて言うことがそれかよ」

 ヘルフィが肩をすくめて言ったエイルを諌めるが、その言葉は軽く流される。

「はーいはい。……っていうか、こんな時間にどうしたの?」

「それは俺様のセリフだ。なんでテメェがついてねぇんだよ」

「俺はティーに聞いてるんだけど」


 二人の兄のやりとりで言葉を求められ、テイワズは言葉に詰まる。

「えっと、私、その……」

 他人には気丈に振る舞えるテイワズの矜持も、兄たちの前では脆弱になってしまう。

 家族だけは特別な存在だから。


「さ? 帰ろ? ティー」


「はぁ? テメェ……」


 差し出されるエイルの手を取れないのは、さっき聞いてしまった寝言のせいだ。


 もう、聞かなかったことにはできない。

 もう、知らなかったころには戻れない。

(エイルお兄様も)

 自分を、女として見ている。


 それがわかってしまった今、伸ばされた手は妹に向ける変わらぬ優しさであろうとも、取ることを憚られた。


 ──エイルがそれに気がつかないわけがなかった。


「あー……ねえ、ティー」

 彼にしては気まずそうな切り出し方だった。

「俺、なんか寝言言ってた?」

 まるで自分に心当たりがあるかのような、言い草だった。

「……だとしてもさ、それは寝言だから、忘れてよ」


 忘れられない。

 忘れてもいいのか。その気持ちを失ってくれるのなら忘れてやろうという気にもなるのに。

 彼の緑の目に映る自分には、きっと妹じゃない。


 顔を合わせられないと思った。

 合わせる顔がないと思うのは、彼に本心を封じ込めさせている自覚があるからだ。

(ねえもしかして、お兄様が家を出たのは)

 自分と顔を合わせたくないからかと、テイワズは思ってしまった。


「おい」

 ヘルフィは自分に向かって言ったようだった。

 その声で思考から意識が戻ったテイワズは、再三にわたった同じ選択肢を取る。


「おい!」

 ヘルフィの声に怯むことなく駆け出した。

(逃げたい!)


 広場の方向にはヘルフィ。

 来た道の方からはエイル。

 ──エイルの来た方向に逃げたのは、あげられた大声を無意識に避けてしまったからかもしれない。


「クソ!」

 ヘルフィの悪態を背に、テイワズはエイルの横を走り抜けた。

 エイルはそれを止めず、駆け抜けたテイワズが作った風を頬に浴びただけだった。

 棒のように立っていただけのエイルの胸ぐらを、ヘルフィが乱暴に掴む。

「おい! なんで止めねぇ!」

「わかるでしょ」

 炎のような赤い目にも、獣のような犬歯にも、エイルは怯まない。

「もう俺じゃ駄目なんだ」

 たった一言。

 それでもそれだけでヘルフィは理解した。

 緑の目に映る自分の顔を見て、その瞳の色を見て、胸元を掴んでいた手を乱暴に離した。

「……クソッ」

「あはは」

 笑い声を上げたエイルの目は、それでも笑っていなかった。

「じゃ、兄貴。よろしく〜」

 ひらりと軽く振られてる手は、まるで家を出た日のようだった。

 忌々しげに舌打ちを一つ。それだけ残して、ヘルフィはテイワズの後を追いかけた。



「……あんな手紙、送ったのにねぇ」

 二人が立ち去った暗闇に、エイルはぽつりと言葉を落とす。

「俺って本当、かっこ悪いなぁ」

 乱雑に書いた手紙の内容を思い返す。

『妹は預かりました。きみたちのアホが治らなさそうなので返しません♡ よろしくね』


「アホなのは、俺だったなぁ」

 兄貴よりも弟よりも。家で忌み嫌ってた誰より──自分より。

 エイルは月を見上げる。

 自分の髪の色とは違う月の色。


「寝言さえ怖かったから、家を出たのになぁ」

 金髪を見れば自然と思い出す。

 毎朝自分を見るたび、思い出す。

「愛してるんだ、ティー。だから離れたのに」

 たった一人の妹を。

 毎日毎晩顔を合わせる女を。

 自分がおかしいと思って、消そうとした。それでも消せなくて、隠せなくなりそうなほどに思いは募って、眠ったらこぼしてしまいそうで。

 そんな自分を見せられなくて、家を出た。

 なのに。

(俺に希望を見せないで)

 彼女の突然の訪問も、持ってきた知らせも──それは凶報で、それでも吉報だった。

 知ってしまったら俺だって。なんて考えてしまうのはしょうがないことだろう。

 エイルはその場にしゃがみこむ。

「せっかく全部、捨てたのに……きみの幸せのために身を引いて、それを見ないために捨てたのに」


 もう顔なんて見られない。

 見たくないと思う。愛を隠せないこの顔は見せられたものではないから。次に会ったら、軽く笑える自信がない。


(絵の中のきみにしか、会えそうにないや)

 エイルは暗闇に声を落とす。

「頼んだよ…………クソ兄貴」

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