二章-4 エイルとの夕方

 家の近くの広場とはまた違う街の賑わう広場。噴水の前に馬車が止まった。テイワズ一人を降ろした御者は心配そうだった。

 本当に大丈夫ですか、と心配する様子に何度も大丈夫だと伝える。

「エイルお兄様に会って帰りますから……帰りは流しの馬車で帰りますので」

 そう言えば御者は戻ってくれた。


(さて)

 住んでいる街とは違う広場に一人降りたテイワズは、賑わう景色を見ながら考える。

(ここまで来たとはいえ、うまく会えるかしら)

 頼りにした情報は、先日の男爵夫人から聞いた話だけ。

 ──東の街で会ったエイルという金髪の画家。

 絵を見てわかった、この絵は兄の絵だと。

 その画家は兄のことだと。


 オスカリウス家の三男、エイル・オスカリウス。

 魔術の学校を卒業するなり家を出てしまった、離れて暮らす兄。

 摑みどころのない兄は、画家として生きてくからと、家族の引き止める手を無視して軽く手を振って出ていってしまった。

 定住することなくふらふらと国内を巡っていたようだが、月に一度程度は手紙が来ていたので、なんとなく居場所はわかった。しかしテイワズの婚約が決まった頃、手紙はすっかり減り居場所もわからなくなってしまった。

 ヘルフィが最後に知った住所に、テイワズのデビュタントの日を知らせる手紙を送っていたようだが、返事もなく届いていたかすらもわからない。


 ──その手紙の宛先も確かこの街ではなかった気がする。

 男爵夫人だって絵を描いてもらったのは先月だと言っていた。今もこの街にいるのかわからない。


(とりあえず)

 宛ては画廊だ。

 テイワズが歩き出した。石畳を踏むヒールの音が、確かに進んでいると実感させてくれる。

(きっと見つかる)


 その願いが叶ったのは、天が味方をしたわけではなく、降りた場所が良かった。テイワズは知らなかったが、東の街のこの広場は人通りが多く、様々なアーティストが集まる場所だった。


 噴水の反対側。画廊の近く。

 その場所にその人だかりはあった。

 彩り豊かな人だかりで、若い女性ばかりだった。

 高い声の飛び交うその中で、低い声はよく聞こえた。


「あはは、みんなありがと〜、ちゃあんと順番にみんなのこと描いてくからね」


 聞き覚えがある声だった。

 足を止める。女性たちの輪から突き出た、高い位置の金髪はよく目立った。


「大丈夫もちろん二人っきりになりながら……ね。あはは」


 金髪の男が周囲の女性たちを見渡す。その目の色は──テイワズが思った通りの、緑色だった。

(お兄様)

 男性にしては長めの金髪。若葉色の目。

 テイワズの兄、エイルだった。

 彼は気付いていない様子で、周りの女性たちに甘い言葉を送っている。

 その様子に、テイワズは溜息をつくことなく安心さえしてしまう。

(ああ、変わってない)

 ことの尊さと難しさを、この数日間で知ってしまった。

 今までだったら、溜息をつきたくなるような様子だった。またお兄様ったら、と。呆れたくなるような様子だった。

(今はそれが懐かしい。懐かしくて安心する)

 気付いてほしい。

「お兄様」

 テイワズの呼びかけは、女性たちの重なる声に届かない。近づこうとも彼の周りはぐるりと囲まれている。

(気付いて)

 こっちを見てほしい。

 自分を見つけない緑色の瞳に、テイワズが願った。

 ──天が味方をしたのか気まぐれか。しかし吹いた風は、確かに味方だった。

「きゃあ」

 風が吹いて、女性たちの髪とスカートの裾を弄んだ。

「おっと、きみたち大丈夫?」

 真ん中の男も、風で乱れた髪を整えた。

 片手で撫で付け前髪をかきあげたその時に、その瞳に自分が映ったのを確かに、テイワズはわかった。


「……え」

 若葉と同じ、緑色の目。

「ティー?」

 その目が驚きに見開かれた。


「お兄様」

 ずいぶん久しぶりに、その目を見て名前を呼ぶ。

「エイルお兄様」

 ずいぶん久しぶりに、その目に映った。

 もう風は凪いでいた。


「みんな、ちょっとごめんね」

 エイルはテイワズから目を逸らすと、笑みを浮かべて周りの女性たちに言った。

「俺、用事ができちゃった……あはは、大丈夫大丈夫。また明日にはここ来ると思うから、よろしくね」

 エイルが言うと、女性たちは名残惜しそうにその場を去った。

 テイワズに歩み寄ってきたエイルは、兄弟で一番身長が高い。その長身は見上げれば太陽の光に透けてキラキラと映った。

「お兄様」

「ティー」

 歩み寄って呼び合って、空白ができた。

 テイワズの記憶ではいつも煌びやかな服装をしていた兄で、いつも華やかな服装を好んでいた。

 そんな兄は、街に溶け込む画家らしい服装をしていた。特別華美ではない服装だが、シンプル故に顔の造形の良さが際立った。

 その顔で、笑った。美術品にも勝る、周りの女性たちが見惚れる笑み。

「……びっくりしたよ、久しぶりだね、どうしたの?」

 話し始めれば、その声は淀みがなかった。

 濁りのないその声に安心してしまう。

「お兄様…………」

 名を呼ぶばかりで、本題が言えない。

 本題。問題。

 そういうほどでもない、話題。

 吐露の仕方がわからなくて題目はつけられない。それでも、話がしたい。

「……」

 近くから立ち去ってもらったとはいえ、さきほどまでいた女性たちのまるで品題するような視線を感じた。エイルもそれに気がついたようだ。

「……そうだね、うん、しょうがないよね」

 まるで誰も聞いてないのに言い訳をするように唸って、それから肩をすくめて提案した。

「とりあえず俺が今住んでるところ、くる?」



「この馬鹿!」

 ロタの声に、ルフトクスが顔を顰める。

「うるさいなあ。……どうせ兄さんだって同じようなこと言ったでしょー?」

「くっ……! オレとお前の話は別だ!」

 ロタが自分のことをというときは余裕がない時だと、この家の者なら誰もが知っていた。


 テイワズが家から逃げ出した直後、ヘルフィとロタは走り去る馬車に驚いた。その場に立ち尽くすルフトクスになんとなく事態を把握するが、午後の仕事も控えていたため、話すことができなかった。

 夕方やっと、代わりの馬車で向かった仕事をこなして、兄弟四人で話していた。


 戻ってきた御者に話を聞いてきたフォルティが部屋の中に入る。

「エイル兄様に会いに行ったらしいです!」

「は? エイルに? 居場所をどうやって……」

 聞いたヘルフィが眉を顰める。

 顔を上げたのはロタだった。

「先日エイルの絵を見ました。そこで、東の街でエイルと思わしき画家に絵を描いてもらったと聞きました……」

「は?」

 ヘルフィが獰猛に犬歯を覗かせる。

「なんで言わねぇんだよ」

「話そうと思ってはいたのですが、タイミングが……」

「ああクソッ」

 銀髪を乱すヘルフィを、ルフトクスもフォルティも黙って見つめる。

「っていうかアイツ、先月手紙出した時は西の街にいたはずだぞ!」


 テイワズが無事に会えたかも。

 エイルにあって無事でいられるかも──

「探しに行きますか?」

「見つけて戻ってくるとも限らないんだよねー」

「誰のせいでそうなったと思ってるんですか!」

 ──ヘルフィにはわからない。



 案内されたのは、広場から少し離れた住宅街の外れだった。すぐ後ろは森だった。整備された街中とは言い難い。


「ここだよ」

 そう言って示されたのは、庶民の家というにも質素なつくりの一軒家だった。

 オスカリウス家の屋敷の何分の一か、食事をする一部屋よりも小さそうな、古い家。


「あはは、びっくりした? 家の広間より狭そうでしょ?」

 テイワズの思考を見透かすかのように、エイルはそう言った。頭ひとつ以上は高いところから落とされる声に、テイワズは顔を上げる。

「大丈夫、別に馬鹿にされてるなんて思わないよ。俺も思ったもん。まあ単純に、小さいよね」


 エイルの微笑みにテイワズは安心する。

(お兄様、変わってない)

 人を見透かす感じも、それでいてすぐに安心させようとするところも。──その優しさが。

(あの頃のままだ)

 一体どこから話そう。

 どこから生活は分岐していただろう。


 エイルが扉に手をかけた。

 くすんだ真鍮。古い扉が、音を立てて開かれる。


「この街に来る時はこの家を借りることにしてて──あ」

「エイル?」


 開きかけた扉の向こう側から、声がした。

 女の声だ。


「…………あ、忘れてた」

 狭い家は開かれた扉から室内のすべてが見える。

 質素なベッドフレームの白いシーツの上に。

 瑞々しい若さの女性が、いた。

 その姿を見たテイワズは開ききった玄関の外で驚きに体を硬直させた。

(裸!?)


「おかえりなさ……って、何よその女!」

 声と共に勢いよく枕が投げられた。

「おっと」

 エイルは片手でキャッチすると、部屋の中の女に向けて笑った。

「あはは。ただいま」

 白い枕をぽんぽんと叩きながら部屋の中に入る。

「妹だよ妹」

「妹?」

 女性からの鋭い視線に、ひっ、とテイワズの肩が上がりそうになる。

(いや、それはだめだ)

 女として。彼の妹として。オスカリウス家の子女として。

 矜持は強靭でなきゃ、意味がない。

 エイルに手招きされて部屋に入る。

 息を吸う。

 真っ直ぐ届けるつもりで声を出す。

「あっ、あの! 私は妹のテイワズ・オスカリウスと申します」

 軽く頭を立てた。

(お兄様の…………恋人?)

 そう思ったから。その女性を立てるつもりで。

 

 裸の女性はシーツを纏ってテイワズの元に歩み寄った。剥き出しの方と、素足で歩く音。

 エイルは余裕の笑みを浮かべ、テイワズは緊張の面持ちだった。

 鼻先が触れそうなほど。女性はテイワズに近づいた。

 つま先から鼻先まで、まるで品定めのするかのように見つめられ、テイワズは弁護する。

「エイルお兄様に相談があり参りまして……それだけで……その……お邪魔をする意図は、なくて……」


 気圧されるテイワズを援護するかのように、エイルが剥き出しの肩に声をかけた。

「……心配しないでも、この妹には婚約者もいるんだから大丈夫」

 そう言うと女性は顔を離した。

「……確かに面影あるわね」

「でしょ?」


 女性がシーツを翻して、テイワズに背を向けた。

(あ、離れてくれた)

 ベッドに腰掛けエイルと声を交わす。その姿を見て、テイワズは言われた言葉を反芻した。

(……そっか、私とエイルお兄様は似てるのか……)


 誰が血の繋がりのある兄がわからない今。

 誰を家族と思えばいいのかわからない今。

 テイワズにとって、その言葉は──。

(嬉しい、よね……)

 それは同時に、他の兄たちとの繋がりを否定することになるのだろうか?

(わからない)


 考え込むテイワズと同じ空間で、女性がエイルに話しかけた。

「あんた、本当に貴族の息子だったんだね。こんな妹さんがいるなんて」

「あはは。信じてなかったわけ?」

「そりゃあこんなに、金のない生活してればねえ」

 親しげな二人の様子を見て、テイワズは思い至る。

(……考えてもみなかった)

 兄に恋人がいることを。

 そうやって、まったく別の暮らしをしていることを──思い至っていなかったと、思い至る。

(お兄様のことを考えずに、勢いで来てしまった)


 黙るテイワズに、気がついたエイルが話しかけた。

「ブランドス家の一人息子だったよね? ダンスパーティはどうだった?」

「え!? ブランドス家って、王家の遠い親戚って言われるあの貴族の!?」

 テイワズに向かって投げられたその言葉に、驚いたのはその女性だった。エイルが答える。

「あはは。やっぱりそのリアクションになるよね。そうそう」


 ──魔術の要素がない自分が家を隆盛させるためには、婚約さえも道具だと割り切っていた。

 テイワズの婚約相手であるブランドス家は、名高い公爵家。

(お兄様は、婚約破棄ダグとのことを、知らない)

 自分の失敗を、まだ知らない。

 それからの事を、知らない。


「ひえー、ブランドス家と繋がりができる家って……ほんといいところの息子だったんだね、あんた」

「もうあんまり関係ない放蕩息子だよ。貴族の義務もないけど金持ちの権利もないってわけ」

「あんなチャラい画家が貴族の息子なわけないじゃんって信じてなかったけど、噂は本当だったのね」

「えー? 俺は本当のことしか言ってなかったのにひどいなあ」

 すっかり女性と話をしていたエイルが、テイワズの顔を見た。


「ティー、どうしたの? ……なんかあった?」

 今にも泣きそうな、それをこらえるその顔を見た。

(……そう、私が婚約をちゃんと果たせていればよかったのに)


 エイルはその顔を数秒見つめて、ゆらぐ青い目と同じ色の金の髪から視線を外さず言った。

「……ごめんね、ちょっと帰ってもらってもいいかな?」

「………………わかった」

 自分に言われたと女性はすぐにわかったらしい。

 テイワズと、エイルの目の前で、シーツをはらりと落とした。

(え!?)

 突然剥き出しになった同性の裸体と、顔色を変えない兄。テイワズはどちらにも驚いた。


 女性はベッドサイドにあった服を纏った。幾分か質素だがそれはドレスだった。

 帰り支度を整える女性を見て戸惑う。

「あ、あの、お兄様」

(恋人を帰らせるなんて)

 邪魔してしまった。


 言いかけたテイワズに、エイルは立てた人差し指を唇に当てた。

 それから身支度を整え、テイワズとすれ違い扉に向かった女性に軽く手を振った。

「あはは。ごめんね、またね〜」


 その飄々とした様子に、テイワズは思い出す。

(家を出て行った日と同じだ)

 口調も、手の振り方も。

 ──別れを惜しむ気持ちの感じられない、別れの言葉。


 扉が音を立てて閉まった。

 家の中は、テイワズとエイル。金髪の二人だけになる。


「……久しぶりだね、ティー」

 違うのは、目の色と──

「何かあったのか……俺は聞いてもいいのかな?」

 男と女という、性別。

 乱れたシーツが視界の端に入る。


 ──それでも怖くない。

 テイワズは高いところにある緑の目を見つめる。

 ──だって、家族だから。

「エイルお兄様」


(お兄様と、安心して呼べる)



 どこから話せばいいかわからなかった。

 確かテイワズの婚約が決まった頃に出て行ったはずだ。


 婚約自体を知っていたのなら、その結末だ。

 婚約は破棄になったこと。

 そして父の告白と、ここに来ることになった顛末だ。

 実は兄たちと血縁関係がないかもしれないこと。

 それはそのうち四人だということ。

 自分と血の繋がりがある兄は1人だけということ。


 ──その結果。


「……ふーん、野郎どもが目の色変えてきたってわけね」

 椅子に座るテイワズに、紅茶を注いだエイルが言った。

「……そうなんです」

 そんな言い方、と思わなかったけど言わなかった。

 そんな言い方も愛だと知っている。


「シナモンと砂糖はこれくらいでよかったよね?」

「あ、はい」

 よく覚えているな、と。注がれた紅茶にテイワズは思った。

 しっかり葉を蒸らして注がれた紅茶は、テイワズ好みの味付けにされている。

 兄弟五人の中で、茶葉の蒸らし時間が適切なのは彼だけだ。上二人は早いし、下は遅いし。兄弟の真ん中の彼だけが──適度な蒸らし時間を知っている。


「まさか家を出て、そんなことが起きてるなんて思わなかったよ」


 ──適度な距離を知っている。


 テイワズは紅茶を啜る。

「お兄様は、飲まないんですか?」

 エイルはその質問には答えなかった。

 机の上で頬をついて、聞いた。

 緑の瞳に、テイワズを映した。

「ねえ、ティーは…………なんでここに来たの?」

 その瞳を、テイワズは知っている。


(お兄様たちと同じ目だ)

 フォルティと。ルフトクスと。ロタと。

 熱っぽいその目を知っている。


「お兄様?」

「……俺が、あいつらと同じ気持ちって、思わなかったの?」

「…………お兄様?」

 どうしよう。

 優しい声なのに、逃れられない。

 狭い家では、視線も逃がせない。

「お、お兄様、先程の女性は? あの方、恋人ですよね?」

「やっぱりそう思ってたの? 違うよ、ただのモデルだよ」

 エイルの笑みは穏やかだった。人のいいそれのままだった。


「なあんかみんな、やりたがるんだよねえ……裸婦画」


 けれど瞳の色は若葉の色なんかじゃないことをテイワズは知る。深い新緑だ。

 その色に、ごくりと唾を飲み込んだ。

 その様子を見てから、エイルはすぐにいつもの調子に戻った。

「あはは。冗談だよ。びっくりした?」


 びっくりした。

 それ以上に、少し怖かった。

 苦笑いするテイワズの顔を見て、エイルは柔らかな表情で言った。

「移動してきて疲れたでしょ? なんか食べる?」

 たくさん焼いたスコーンはほとんどルフトクスが食べていたし、そういえば昼食を取り損ねている。

 腰を落ち着ければ自分の空腹を時間した。

「あ、なら私が……」

「いーっていーって。お客様なんだから」

 立ち上がったテイワズを抑えて、エイルがキッチンの方へ向かった。

 キッチンに置かれた棚を見ながらエイルが言った。

「んー。あんまり食材ないんだよねえ、ちょっと買い物着いてきてくれる?」



 差し出された手を取るのに迷ったのは、先程の目を知ってしまったせいだ。


 エイルの家を出て歩き出し、道行く人通りも増えてきたところで、エイルがテイワズに手を差し出した。

「はい」

 テイワズの迷いは一瞬だった。

 それでもそれより早く、エイルの方が口を開いた。


「こんな時間に女の子が一人だと思われたら、危ないでしょ。ほら、ね」

 そう言われてその手を取った。

 それにエイルの方が驚いた顔をしたから、テイワズも戸惑ってしまった。

「……お兄様?」

「あ、うん。なんでもないよ」

 なぜ触れた手を見つめて数秒止まったのか、今も目を細めてるのか。

 テイワズにはわからなかった。


 気がつけば太陽は落ち、辺りは温かみのある色から冷たい色に変わろうとしている。

「あはは、いい夜」

 路上で演奏している人たちがいるようで、広場から音楽の音が聞こえた。

 やけに視線を感じる気がするのは、特別美形な兄のせいだろう。周囲を見れば女性の一人と目があった。

「どうしたの?」

「なんでもありません」

「あはは。ごめんね、俺よくこのあたりにいるからさ」

 知り合い多いんだよねー。

 と言ったエイルは、やっぱり人の心を覗いているんじゃないかとテイワズは思った。


 音楽を聴いて土産物を見た。同じ国なのに土産物には地域の特色が出る。見惚れている間にエイルは店主と話をしていて、それから食材を買って帰路に着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 下がった外気に、経った時間に。

 あれだけ混乱していた頭が冷静さを取り戻す。

 家は大丈夫だろうか。

 ルフトクスは、大丈夫だろうか。

(こんな時間になってしまった)

 それでも、家とは違う古い扉が開いて、どこか安心してしまう自分がいた。


「ごめんねー、お腹すいたよね。さっそく作るからね」

 キッチンに向かう高い身長の背中の隣に、テイワズは立った。

「手伝います」

「あはは。いいのに……じゃあそこの野菜の皮剥いてくれる?」

 テイワズが処理した野菜を、エイルが鍋に入れていく。


 かぐわしい匂いが部屋に漂った頃、テイルが部屋の窓の外を見た。

 すっかり暗くなった外に、連絡しなくて大丈夫かと心配する。

「さっき家の方に遣いを出してもらったから、安心して」

 手元を見ながらかけられたエイルの言葉に、テイワズは驚く。

「ほうら、出来上がり。さ、食べよ食べよ」

 エイルは手際良く作った料理を皿に持った。

 テーブルに並んだ食器が二人分あることにもテイワズは少し寂しさのような感情を覚えた。

(こうやってご飯を共にする相手が、いるってことよね)

 一緒にいなかった時間を実感して、少し寂しくなってしまった。


 それでも味付けは知っている味付けだった。

 エイルは五人の兄たちの中で一番料理が上手い。

 

「……あはは。まさかきみと、この家でこんな風にご飯を食べることがあるとはね」

「お兄様?」

 懐かしさを噛み締めていたから、テイワズはエイルの言葉を聞き逃してしまった。

「なんでもないよ……やっぱり誰より綺麗に食べるよねぇ」

「そうですか?」

 うん、とエイルが頷くテイワズの所作は、指先まで磨き抜かれた所作。

 テーブルの上には誇りがよく見える。貴族としての、女としての誇りが。


「……今から宿探すわけにも行かないし、今日は泊まってよ」


 テイワズは逡巡する。

 今まで通りのラベリングが許されているのか、わからないから。


「心配なら、俺、家の外にいるからさ」

 そこまで言わせてしまったことが少し胸が痛くて、テイワズは頷いた。

 相変わらず人の心を見透かすような兄で、だからこそ傷つけたくなかった。


 結局テイワズがベッド、エイルは部屋の隅で身を丸めることになった。

 いつまでも眠れない。

 時間が経っても寝返りを打つしかできない。

 暗くなった部屋の中に、衣擦れの音が響く。

 部屋の隅に、同じ空間に、エイルの気配を感じる。


「眠れるわけがないよねえ」


 かけられた声に、テイワズは無理に閉じていた目を開いた。


「髪の色なんて魔術の素養とかでも変わったりするしねー、うーん」


 まるで独り言のようだった。

 それでもそれは、テイワズのための言葉だった。

「わからないことばかりで嫌んなっちゃうよね。やだよね、最悪だよね」

 テイワズは身を起こす。

 暗闇で体を丸める兄の顔が見たくて。

 狭い部屋の中は、離れていても顔が見える。


「っていうか、ほんっと、なんなの、ダグってやつ。俺まじで許せないんだけど」


 そういった顔が唇を尖らせていたから、なんだか部屋の隅で丸まっているという状況も相まってテイワズは笑ってしまった。


(家で、家のお兄様たちは、この話をしないようにしてたから)


「うちの可愛い妹をさあ? そんな場で婚約破棄、しかも新しい恋人を連れて? 最悪じゃん。ほんと許せないよ」


(だからそう言われて、おかしくって、その通りで──)


「ねえ辛くない? いや……」

 エイルがテイワズを見た。

「辛かったよね、ティー」

 暗闇の中でも、お互いの金髪は見つけやすかった。

「お兄様」

 気がつけばテイワズは泣いていた。

 ずっと我慢していた気がする。

 あの日から。


 エイルは歩み寄ってベッドサイドに座り、テイワズを抱きしめた。

「……辛かったね」

 頭を撫でて抱きしめられれば、抱き返すことを躊躇わなかった。

「よしよーし。きみは、頑張ってたよ……」

 テイワズの泣き声と、エイルの静かな声が暗闇に溶ける。

 エイルに縋り付いて泣きながらも、テイワズは誰の名前も呼ばなかった。



 朝目覚めたテイワズがまず見たものは、長い金色のまつ毛だった。

(お兄様!?)

 状況を把握する。

 添い寝なんてものじゃない。抱き締められて眠ってる。

 エイルの硬い腕と胸元の感触。心臓の音は、自分の音が大きすぎて自分の分しか聞こえない。

(えーっと、確か話しながら泣いちゃって、それから……)

 テイワズは思い出す。

 気がつけば抱きしめられて、眠ってしまったことを。

(とりあえず)

 抜け出そう。

 腕の中でテイワズが身じろぎすると、抱きしめる腕に力が込められた。エイルが唸る。

(んんん〜!?)


 起こさないよう逃げようとしていると、エイルの肩が震えていることに気がついた。

「……お兄様?」

 起きてる。今度はエイルの腕を思い切り振り払うことができた。

「もう!」

「あ、はは、は……」

 振り払って上半身を起こすと、エイルは笑いを殺すのを我慢できなくなったようだった。

「はー……可愛い」

「お兄様ったら!」

「ごめんごめん……あははっ」

 エイルも上半身を起こす。

 同じベッドの中で起き上がると、顔は近い。ベッドは大人二人には狭い。


 ……シーツの皺が生々しく感じるのは、昨日の女性のせいだ。


「おはよ、ティー」

「……おはようございます。お兄様」

「あははっ」

 テイワズの少し気まずそうな顔を見て、いつものようにエイルは笑った。

「いつから起きてたんですか、お兄様」

「んー、きみが起きるちょっと前からかな」

 エイルの手が目元に伸びてくる。

 少し荒れた手は、家の兄たちとは違う。

「……喋りながら寝ちゃったねえ」

 テイワズの目元の涙の跡を、慈しむように撫でた。

 それからその手が逡巡して──エイルは手を引っ込めた。

(抱きしめられるかと思った)

 予想が外れた。

(なんて……思ってしまった)


 しばらくテイワズの顔を見つめてそれから、エイルはベッドから立ち上がった。

「綺麗なところに連れてってあげるよ」

 軋む音がして、乱れたシーツの上にテイワズ一人座ったままになる。

「ま、その前に朝ごはんだね。作るよ、座って待ってて」


 エイルの金髪が、部屋の窓から差し込む朝日にきらきらと輝いた。

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