一章-6 私のお兄様*長男・ヘルフィ





「テメェ逃げんな! 馬鹿!」

 怒声とともに迫る声に、走りながらも、ひいっとテイワズの肩が上がる。

「お兄様が鬼気迫る顔で追いかけてくるからじゃないですか!」


 暗闇の中を、金と銀が駆ける。

 その様子にまばらだに道ゆく人は通りを開けた。

(さっきもいっそのこと思いっきり走ってればよかった!)

 その方が絡まれずに済んでいたかも、なんて思っても後の祭りだ。

 なびくテイワズの後ろ髪に、ヘルフィは叫ぶ。

「テメェが止まればいいだろ!」

 兄は乱暴な言葉遣いだが、優しいのを知っている。それでも立ち止まらないのは、逃げ出したことが後ろめたいからだ。

「少し一人にしてください!」

「こんな時間に一人にできるわけねぇだろ!」


 二人の距離は確実に縮まっているが、それでもヘルフィはテイワズまで届かない。

 幼い頃から兄たちに混ざって遊び、逃げ出すことも多かった。

 それは、逃げることを十八番にするほどテイワズを俊足にさせた。


 もう後少しでヘルフィの手がテイワズの肩を掴めそうだった。

 道の利はない。テイワズはエイルの家の脇を通り過ぎて、森に踏み入る。

「クソッ!」

 森にテイワズの影が消えて、ヘルフィが悪態をつく。それでも追いかけるのをやめなかった。


 草木はテイワズに跪かない。

 それでも白い手で草をかき分け、森の奥へ進んだ。ただヘルフィが足を止めてさえくれれば、テイワズも進む足を止める予定だった。

 なのに兄は、立ち止まってくれない。

(もう、なんで)

 不確かな足元の森の中は、ヘルフィの方に利があった。筋肉質な腕で乱暴に茂みをかきわけ、長い足で草木を踏破していく。

「危ねぇだろ、止まれって!」

「止まります!」

 テイワズは振り向いて声を張り上げる。

「お兄様が止まったら!」

「テメェ……」

 聞こえたヘルフィの唸り声に、テイワズはもう一度歩みを進めた。


 そして、足を滑らせる。

「あっ」

 足元が暗いから。注意が後ろに向いていたから──理由は複数あったが、結果は一つ。ぬかるんだ足元に気が付かず、濡れた草木に足が滑ってしまった。

「おいっ!」

 ヘルフィの声が聞こえた。

 ほぼ同時に、ばしゃん、と水面が割れる音が静かだった森に響く。息を顰めていた鳥が飛び立ち、俄に森がさざめいた。

 転がる視界に月が見えて、テイワズが次に見たものは濡れた自分の手とドレスだった。

(今朝の泉……?)

 テイワズが落ちた場所は、今朝エイルと足を運んだ泉だった。日に恵まれた場所は、夜にも素直に従い闇に溶けるよう隠れていたようだ。


 濡れた足元と腰に、泉に落ちたということを頭が理解をするよりも早く、体が冷えたことを実感した。

「……っくしゅ」

「ばっかやろ!」

 くしゃみを一つ。途端に強い力で腕を引っ張られて強引に立ち上がらせられた。

 濡れたドレスが、重い。

 テイワズの腕を引いたヘルフィが声を上げる。

「危ねぇって言っただろ!」

 暗闇でも人を威嚇するような赤い目に、テイワズは俯く。

 見ればヘルフィも膝下まで泉に入ってその足元は濡れている。


 夜の泉に昼間の太陽の恵みはなく、冷たい。

(お兄様まで、濡れちゃった)


 謝ろうか悩むテイワズの腕を持ったまま、ヘルフィは悪態をつく。

「あークソッ……」

 それから空いた片手で手近な草をむしりとると、その草の先に炎を灯した。

(火の魔術)

 赤い目に光が灯る。銀髪が赤に照らされて輝く。

 ほのかに暖かくなった空気と足元。

 踏みしめる足の裏は冷たく、ドレスはじっとりと重い。それを慮るようにゆっくりと手は引かれた。ヘルフィの手に頼って、泉から出る。


「水場ならさすがに火事にゃならんだろ。森は燃えるもんも多いから明るくできねぇしよ。困らせやがって」

 ヘルフィが持つ草の先に灯る炎が揺らついた。

「……どうするかな」


 このまま馬車を乗るのも躊躇われる。第一馬車があるような場所にまで行くのも大変だ。

(お兄様も濡れちゃって……私も寒い)


 揺らめく炎が暗い森の中に二人の影を作った。

 思案に忙しく言葉がが出ない二人の空間に、人間以外の声が聞こえた。

 不規則に草を荒らす音と、枝木を折る重い音。

 それに混じって聞こえたそれが、獣が喉を鳴らす音だと、すぐにわかった。


「おい。この森、獣がいんのかよ」

 ヘルフィの声が、いつもよりわずかに控えめだった気がした。

 炎で照らされる先の草が、動く。

「……そういえば、エイルお兄様がそう言ってたような」


 体を硬直させた二人の視線の先で、茂みが明らかに生物がいる揺れ方をした。揺れ方は小さくない。どんな獣が出るかは分からないが、それなりに大きい生き物だろうと見当がついた。

 そして、夜に動く生き物が、人間に友好的とは限らないことも知っている。

「おい、逃げるぞ」

「え」

 言葉の途端、火が消えた。

 視界が暗くなったと同時に、テイワズの体が宙に浮く。

「お兄様!?」

「シッ」

 テイワズはヘルフィに両腕で抱え込むように胸元に抱かれていた。

(ダグ《元婚約者》にもされたことない)

 これがお姫様抱っこか。

(重そう)

 そして、熱い。触れるヘルフィの体が、熱く、硬いのを感じる。

 抱き返すことは躊躇われた。

(濡れてるから、抱き返したらお兄様が余計濡れそう)

 だから組んだ手は自分の胸元に置いた。


 走るぞ、とも。捕まれ、とも。

 ヘルフィはそんなことを言わなかった。

「クソッ」

 いつものようにそう言って、水の滴る重いドレスを纏ったテイワズを抱き抱えて、その場から離れ進んだ。

 火を消したのは獣に追われないためだろう。

 喋ることも憚られる状況。

 テイワズが見上げたヘルフィの顔は、鋭い視線で周囲を警戒し、歯を食いしばっていた。

(お兄様の方が、獣みたい)

 絶対言わないでおこう。

 テイワズは口を真横に引き結んだ。


「ここなら大丈夫だろ。降りろ」

 ヘルフィが見つけたのは洞窟だった。

 さほど移動距離は長くなかった。と、思う。張り詰めた状況は一瞬を長く思わせるし、夜の闇では時の流れは視認できない。


 ヘルフィはテイワズをゆっくりとした動作で降ろすと、そのまましゃがみ込んで枯れ木を拾った。その木の先に炎を灯すと、洞窟の中が見えるようになった。

 さほど大きくはない。それでも人が四人ほどなら入れそうな広さの洞窟。

(こんな場所が)

 テイワズが見回す後ろで、ヘルフィは足元の枯れ木を拾い集める。


「奥入ってろ」

「え?」

 テイワズの聞き返した言葉に答えず、ヘルフィは持っていた枯れ木を洞窟の真ん中に置いた。

 そしてそこに火をつけて篝火のようにした。

 洞窟の真ん中で燃える炎が、温度と明るさをもたらせた。

(すごい)

 火の魔術は便利だ。危ない反面、危ない場面では役に立つ。

 篝火に背を向け明るくなった洞窟の出入り口を見ながら、ヘルフィが零した。

「こういうときルフがいりゃあなあ」

「ルフお兄様?」

「エイルでも……や、しょうがねえ」

 こうするか、といって周辺の草木を集めて入り口に並べた。


 ヘルフィの返事を求めない呟きに、エイルとルフトクスの共通点を考える。

(魔術の要素が『大地』ということ)

 草木の成長のコントロール。力が大きければ、大地を動かせる。


 ヘルフィは入り口周辺に並べた草木を触れて燃え上がらせた。

 洞窟内がより明るくなり、温度を持つ。

「ま、獣ならこれで大丈夫だろ」

 まるでそれは炎の壁だった。

「目立つけどな。……侵入は防げるだろ」

 その景色に、なるほど、とテイワズは理解に至る。

(獣が入ってこないよう入り口を塞ぎたかったということね)


 大地の魔術要素を持つ二人の名前を出したのは、岩や土で塞ぎたかったからだろう。

 炎は油断すれば燃え移ってしまうし、夜を照らす炎は目立つ。とはいえ普通は人がいない場所だ。獣の侵入を防ぐ意味では確かに最善だろう。


 洞窟内の中心の篝火と入り口の炎のお陰で、中は明るく温かい。濡れた服の冷たさを忘れる。

 とはいえ、じっとりと肌に張り付く布の感触と水をふんだんに吸った重みは不快だ。

 しかし着替えなどないから、どうしようもない。

(とりあえずしばらくってこと?)

 とりあえず獣の危険性がなくなるまで?

 朝が来るまで?

 まあこの温度なら風邪は引かないだろう。

 ただそんなことよりも、ヘルフィ《兄》との時間の方に身震いしそうだ。

(怒られるかな)


 炎が枯れ木を喰んだ音。ぱきっとした小気味のいい音が響いて、ヘルフィが言った。


「よし、脱げ」

「え!?」


 思わぬ言葉に、反射的に自分の身を抱いた。

 そんなテイワズを見て、ヘルフィが口を荒げる。


「ばっかやろー! 誰が妹なんかに発情するかよ! そのままじゃ寒いから脱げっつってんだよ!」


 その言葉と同時に、テイワズの顔に布が投げつけられる。手に取ったそれはヘルフィが着ていた上着の一枚。


「その間俺様の服着てろ! さっと乾かしてやっから! 脱げ!」


 また一枚、ヘルフィが脱ぐ。

 テイワズが言い返す隙を与えずに、もう一枚。

 ──ヘルフィの上半身が剥き出しになった。

 上半身だけとはいえ、曝け出された兄の素肌にテイワズは慌てて目を逸らす。


 下げられたテイワズの頭に、フォルティの声がかけられる。

「俺は入り口を見張る必要があんだよ。フォルじゃあるまいからあんまり意識を逸らせねぇ」

 魔術の天才、ヘルフィと同じ火の要素を持つフォルティ。

 意識せず臆さず労せず魔術を使いこなすフォルティなら、確かに意識の外で燃え移りなどコントロール効かなくなることを臆す必要もなく、炎の壁を作り維持できるだろう。

 とはいえこの長男も一般的には優れているのだ。──少々火が暴れやすいだけで。

(……珍しい)

 彼が弟を引き合いに出すのは珍しかった。

(フォルお兄様のことを言うなんて)

 思わず顔を上げて見てしまう。

 どんな顔をしてるのかと知りたくなったが、洞窟の奥にあるテイワズには背を向けており、背中しか見えなかった。


「おい聞いてんのか。俺様はそっちを見れねえから、それに着替えて乾かしとけって言ってんだよ」

「えっ、あ、けど、」

「こんな火に近づいてる俺様が寒いわけねぇだろ」


 炎の向こうの屈強な背中を見つめる。

 子どもの頃、最後に見た記憶とは違う背中。

 抱いていい感情がわからなかったから、感慨も湧かず。

 ただ投げつけられたヘルフィの服に目を落とした。

 一番外側に着ていた上着が多少湿っているのは、先ほど濡れたテイワズをお姫様抱っこしたからだろう。とはいえ他の服には湿り気はないし、この温度と炎なら三枚着れば問題はなさそうだ。


 濡れて不快な感覚は肌にある。

 とはいえ──

(ここで脱ぐってこと?)

 子女として、それは躊躇って当たり前の行為だ。

 野外で服を脱ぐという行為が。

「俺様が見張ってるから安全に決まってんだろ」


 そこに男性がいるということが。

「おい俺様は長男だぞ? 妹に発情するわけねーだろ」

「…………」

 ヘルフィの言葉に、テイワズは沈黙する。

(なんかさっきから言い訳を潰すように言葉を投げられてる!)

 もしかしたらエイル同様心を見ているのかもしれない、なんて思ったが、今度は何も言われなかったのでその考えは火にくべた。


「おい早くしろよ」

 兄は言葉を曲げない。

 オスカリウス家の長男。侯爵子息は自分の意見を曲げない。

 こうと決めたら変わらない。

 だからテイワズは、自分の服の袖に手をかけた。


 男の意地は硬い。

 だが、女の矜持は強靭ながらもしなやかだ。


(妹なんかに発情しないって言っていた)

 私を妹として見てくれているのだと。

 家族の絆は揺るがないのだと、胸がすく思いだった。


「……お借りします」

「おう」


 薪が燃える音と衣擦れの音が響く。

 ヘルフィはずっと外を見ている。その背中が時折音に反応して跳ねたが、小さい動きだったのでテイワズは気づかない。


 袖を通せば体格の違いを実感した。

 長い袖は指先あたりまで隠すほどで、シャツの裾は腹まで覆い隠してくれた。

(あったかい)

 温もりは篝火のせいだけじゃないと、テイワズはわかった。


「なぁおい」

 雑に呼ばれて背中を見つめる。

 同じ空間にいるのに、炎越しに見つめると別世界のようだった。

 次の声は、危うく炎のゆらめきで聞こえなくなりそうな程の声だった。

「帰ってこいよ。……アイツらは俺様が叱っといたから」

 はっ、と鼻で笑って、ヘルフィは続ける。

「馬鹿だよなあ、アイツら」

 けど、と続けられる声はいつになく優しい。

「けど、俺様の弟で、テメェは妹だから」

 まるでこの炎のようだ。

「帰ろうぜ。俺様たちの家に」


 投げつけられたこの服は確かに愛だった。

 それがどんな種類か仕分けるのは不粋だと思った。


 どのみちもう東のエイルのそばにはいられない。

 婚約も破棄されて、他に帰る場所はない。

 五人の兄がいるオスカリウス家こそがテイワズの家。

 四人の兄が住む場所こそがテイワズの居場所。


(怒らないんだ)

 突然の家出のことも。

「……そうですね」

 そう答えれば腹は決まった。

 兄の背を見て、声をかける。

「寒くはありませんか?」

 返事はだいぶ間があった。

「…………ちょっとな」

「もっと焚き火の近くに来たらどうですか?」

「いや、いい」

 テイワズを一度も振り向かず、ヘルフィは言った。

「やっぱり寒くねぇ」

 どっちですか、とテイワズは笑ったけれど、ヘルフィが笑った気配はなかった。


 交わす言葉がなくなっても絶えることのない炎に、安堵感を感じた。

 ヘルフィの背中はずっと背筋が曲げられることもなく、それを見ているうちにテイワズは眠ってしまう。

「……クソ」

 ヘルフィの呟きは、誰の耳にも届かず炎の中に溶けた。



「おい起きろ。……いつまで寝てんだ」


 頭を小突かれて目が醒める。

「わ」

 テイワズが目を擦って青い目を開くと、そこにはヘルフィがいた。──上半身が裸の。

(なんで!?)

 驚いて自分の衣服を確認した。ヘルフィの服を着ていて、首元は緩く服装は乱れている。

 寝起きで昨夜の状況を忘れ、慌てて自分の胸元を隠した。


 その忙しない様子を見て、ヘルフィが笑った。

「ばーっか」

 それはいつになく穏やかな笑みで、優しい微笑みで──洞窟の入り口から差し込む朝日に照らされて銀髪は輝き、赤い目は獰猛さを潜めていた。


(あ)

 その微笑みを見て、テイワズは昨夜の出来事と今の状況を思い出す。

「あ、お兄様──」

「ドレス、すっかり乾いたみたいだな」

 寒くなかったか、とか。ありがとう、とか。

 そう言った言葉を言おうとしたテイワズの言葉を、ヘルフィが遮った。

 視線の先には昨夜聞いていたドレス。見た目にもわかるように、もう濡れていなかった。

「あ、はい……」

「んじゃ。着替えて帰るぞ。……ここに住む獣にわりぃからな」

 早くいくぞ、と言ってヘルフィが立ち上がり背を向けた。


(やっぱり、だから昨日あの影を追い払ったりしなかったのね)

 ヘルフィは兄弟間で一番動物が好きだ。人には攻撃的な一面を見せることが多いが、動物には容易く破顔する。


「おい、早く俺様の服を返せよ」

「……はぁい」

 見ないでくださいね、なんて言おうか悩んで。きっと言ったら「ばかか」と言われるのは目に見えてたので言うのはやめた。

 何も纏ってない背中が剥けられて、テイワズも背を向けて洞窟の奥を向いて着替える。

 昨夜もそうだが──脱ぐのは正直、恥ずかしい。いや、朝であれば尚更だ。素直な日差しに背を向けていそいそと着替えた。


 知らない朝だった。

 知らない場所。知らない冴えた空気。


 ドレスはいつもより肌触りが硬かったが、それでもすっかり乾いていた。それを纏って、一晩借りたヘルフィの服を持つ。

「ありがとうございました」

「ん」

 ヘルフィはテイワズを一瞥することなく、それを受け取る。

 ヘルフィがシャツを羽織って着替える間、テイワズは横をすり抜けて洞窟の外を出る。

 がさりと揺れる草木から小さな四つ足の獣が出てくる。獰猛な個体もいると聞くが、やたらと人を襲うことがないと言われる獣だった。

(畑を襲うこともある害獣とはいえ、小さくて可愛い)

 その獣はテイワズと目が合うと翻して森の奥に消えていった。

(昨日の影にしては小さいような……子どもかな?)

 首を傾げたテイワズの頭上へ、ヘルフィが袖口のボタンを留めながら声をかけた。

「おい行くぞ」

 ヘルフィがテイワズの一歩先に躍り出た。夜の月を思い返させる銀色に、はい、と頷いて踏み出す。


 洞窟を出た二人を出迎えるような穏やかな風が、銀と金の二人の髪を撫でた。

 森の美しさはテイワズの憂鬱を消した。

 太陽の光は葉を透かして、二人の髪を輝かせる。自然の色の中でそれはよく目立った。

 ──きっと獣が目印にするほどに。

 咆哮。

 朝には不釣り合いな不穏さ。

 それは夜に聞いた獣の唸り声と思じだろうと思われた。猛々しい声ではなく、悲痛さに苦しむような声に近いことが、驚きと共にヘルフィの眉間に皺を寄せさせた。

「なんだぁ!?」

 次の瞬間、木立を弾き飛ばしながら獣が姿を現した。

 逆立つ毛。荒い息。四本足の巨体。地を揺るがすと思うほどの足音ともに、瞬く間に距離が詰められる。


 ヘルフィがテイワズの肩を突き倒して、その獣の前に一人で立った。

 押されたテイワズは距離を取った場所で尻餅をつく。

(危ない)

 息を吸うことができず、叫ぶこともできなかった。

(こんな時でも、獣を攻撃しないの!?)

 目を見開いてヘルフィを見た。


 一瞬の間に、ヘルフィは気がついてしまった。

 その獣の体躯に、切りつけられたような大きな傷があり血が流れていることに。

 だから躊躇った。傷つけることを躊躇って助ける方法を考えてしまった。


 尻餅をつくテイワズにはそれは見えない。

 ただ兄が、黙って自分の盾になろうとしているとしか、見えない。


(だめ)


 危ない。

 ヘルフィが逃げられるわけがない。自分が後ろにいるから。

 なんで攻撃しないの。そんな優しさ──優しさより、血を見たくなんかないのに。

(お願い)

 助けて、とも。逃げて、とも言わなかった。

 かろうじて絞り出したテイワズよ声を聞いたのは、風だけだった。

「やめて……!」


 ヘルフィが鞘から剣を抜こうとした。

 ──それより速く。

 銀色が一閃を引く、それより疾く。


 吹いた突風が、迫り来る獣を吹き飛ばした。


「なっ……!?」

 ヘルフィが赤い目を見開いた。獣は確かに、風で吹き飛んだ。──自分が何かをする前に。


(飛んだ!?)

 テイワズも自分の目を疑う。

(魔術!?)


 咆哮と、啜り泣きのような鳴き声をして獣は奥の木に叩きつけられる。巨躯を叩きつけられたその木は音を立てて揺れ、盛大に葉を落とした。その葉が地に落ちる前に獣は立ち上がると、二人を見ずに森の奥へと消えて行った。


 獣の脅威が消えたその場で、二人の間を一陣の風が吹いた。──まるで終わりましたよというように。


「…………おい」

 ヘルフィがゆっくりと振り返る。

「今のは、テメェのチカラか?」

「え?」


 聞かれた言葉は思いもよらない言葉だった。

 ヘルフィはいつになく渋い顔をして、鋭い目線でテイワズを見ていた。

(何を言ってるの)

 私には魔術の素養などないのに。

 緊張状態のせいか、兄のいつにない威圧のせいか、動悸がして苦しい。

 胸元を抑えたテイワズに、ヘルフィは言葉を続ける。


「今のは明らかに魔術だ」

「…………お兄様じゃ?」

「俺は、使ってない」

 明らかに魔術による景色だったそれを、魔術の使い手である兄は使っていないという。

(ならば、)

 どういうことだろう。

 今獣を吹き飛ばしたものは、火でも水でも、大地でもなかった。


「ただの風……風だった」

 ヘルフィは呟く。

「風なんて操れるわけがねぇ。ただの人間が、風を操れるわけがねぇんだ」

 火と水と大地には実体があって、見れば形が分かりイメージができ、触れれば掴むように動かすことができる。

 でも風は見ることもできなければ、触っても輪郭などわからず、それは逃げるばかりだ。

 だから魔術の要素に風なんてなくて、風なんて操れるわけがないのだ。

「……けど明らかに、風は俺様たちを守るように攻撃していた」

 そんなことあり得るわけがない。

 風が、空気が、全てを包む空間が一介の存在の味方をするなど。

「魔術を使うと疲れんだ。魔術の素養は血液と同じように体を流れるもんだってされてるからな」

 だから、とヘルフィがテイワズを見つめた。

「…………辛くねぇか。違和感はねぇか」


 ある。心臓は高鳴り息が苦しい。──まるで走った後のように。

 テイワズの荒い呼吸を、ヘルフィはその肩に見た。小さくも何度もはやく上がる肩に、疑念を確信に変えた。

「──テメェには何か知らない魔術の素養がある」


 きっとそれは恐らく風だとヘルフィは言った。


「とんでもねぇぞ。…………そんなテメェと血が繋がってるヤツは、一体誰なんだ?」


 こんなチカラが二つもあれば。

 いや、一つとて露見して仕舞えば。


「……国が、ひっくり返るぞ……?」


 風は答えず、銀髪をただ撫でた。

(ああもう)

 その風に、ひとまず脅威は去ったことをテイワズは実感する。

(疲れた)

 だんだんと意識が遠くなる。目を開けていたい。それでも、知りたいことより、わからないことの方が多い。

 何か一つでも知りたい。それなのに、重くなる瞼にテイワズは抗えない。

「……おいっ!」

 強制的に暗くなる視界と、遠くなる意識の中で、ヘルフィが自分を呼ぶ声が聞こえた気がするけれど。

(眠い)

 起きたばかりなのに、泥のように眠たいと、テイワズは駆け寄る兄の姿を最後に見て、安心して意識を手放した。



「……本当だった」

 森の中で、黒い外套を着た男が呟く。

 男は呟きながら走っていて、その顔はフードにすっぽりと覆い隠されている。

 男の腰には短剣があった。それは血がベッタリとこびりついていた。男には傷はない。まるで、獣に傷をつけた直後のような血のこびりついた剣だった。


 息切れをしながら走り、改めて自分を追ってきた森の中の獣を撒く。──ただでさえ致命傷になりかねない傷だった。その上に木に叩きつけられたあのダメージだ。どうせ追いついてはこられない。

 獣の姿が見えなくなったことを機に、男は速度を落とす。そして朝にも関わらず陽の射さない森の奥で、歩きながら呟く。

「……本当だった、本当だった……」

 外套は闇に溶ける色。潜むためと明らかな色。

「ブランドス様の言ったことは本当だったのだ……」

 誰にも聞かれていない言葉を呟くのは、まるで使命を果たした達成感に陶酔しているようだった。


「あの娘には『風』の魔力があったとブランドス様に……ダグ様にも知らせなければ……」

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