二章-2 ロタとの一日


 目覚めたら誰もいなかった。

(よかった)

 昨日のルフトクスの布団侵入事件は驚いた。

 目覚めてテイワズは起き上がる。


 身支度を整えて朝食を食べに行くと、召使の他にはフォルティだけだった。

「ティー。おはようございます」

 紫の髪が朝日を浴びて煌めく。優しく細められる赤い色の瞳。

「おはようございます、お兄様」

 例を言うなら今がチャンスだと、テイワズは続ける。

「昨日はありがとうございました」


「いいえ。むしろあなたと二人きりで出かけられて……僕の方が幸せでしたよ」

 

 ──予想以上の返しだった。アルバムと経験則にはない返事だった。

 柔らかな笑顔になんと返せばいいのかわからない。兄なのに兄らしくない。

 それでも不快感はなくて、これは女としての照れだ。

(なんで、私)

 固まっているところに、軽快な声が入ってきた。


「あー、抜け駆けしてるー」

「抜け駆けって……!」

 指を指されてフォルティの視線が移ったので、テイワズも視線をルフトクスに向ける。


「ルフ兄様、おはようございます」

「おはよう、ティー」

 テイワズに歩み寄って、甘く微笑んだ。

「今日も可愛いね」


 布団に入られた時並みの衝撃だった。

 甘い声と笑顔に、テイワズがまた動けなくなる。

 それを見たフォルティは慌てた。

「なっ! ……ティー、僕もあなたを可愛いと──」

「騒がしいですね、朝から」

「おはようございます、ティー」


「……よく眠れましたか?」


「は、はい」


「それはよかった」

 ロタは微笑んでテイワズの髪を撫でた。


「おー……」

 眼光鋭いいつもの赤目に、光がないのは毎朝のことだ。


「おはようございます、お兄様」

 現れたヘルフィにテイワズが挨拶をすると、ルフトクスが兄の様子を見て薄く笑った。

「いつもながら眠そうだねぇ」


「しょうがねぇだろ、俺様は忙しいんだ」

 誰よりも多く砂糖を入れた紅茶を飲んで、ヘルフィは言う。

「おい、ロタ。今日は街中行くんだろ?ここんところ物盗りが出るらしいから気ぃつけろよ」


「わかりました。ありがとうございます」


 それから朝食を終えて、テイワズは自室でドレスを着替える。

(ロタお兄様の黒髪と青い目……)

 二人並ぶことを想定して、落ち着いた色味のドレスを選んだ。


(一緒に立つ人に合わせてドレスを変えるなんて、自信がないみたいかしら?)

 彩り豊かなクローゼットを見て、考える。

(……実際、そう)

 けれどそれがバレなきゃいい。

 自信のなさも。自身の魔術要素のなさも。それによる未来への期待のなさも──。

(バレなければ、いい)

 テイワズはロタと歩くために選んだドレスに袖を通した。

(だから私は、ドレス《鎧》を着るの)


 玄関に出ると、ロタが既に待っていた。その服装は、いつもより少し洒落ていた。

「並んで歩くのは、嫌ですか?」

「…………いいえ」

 差し出された手を取る。

「ぜひ」

 ロタの青い目に、金髪の自分が映ったのを見た。


 貴族であるオスカリウス家の屋敷は巨大で敷地も広いが、繁華街はさほど遠くない。

 真昼の太陽の光を浴びると、ロタの黒髪が日に青く透ける。まるで空みたいな髪の色だと思う。昼と夜で色が違う。

 隣を歩けば周りの女性たちがロタに思わしげな視線を送っているのがよくわかった。


「どうしましたか? ティー」

 テイワズを見下ろす、眼鏡の奥の青い目。

「歩き疲れましたか? 歩かせてすみません」

「い、いえ」

 テイワズは慌てて首を振る。

「ロタお兄様と二人でこうして歩くなんて、いつ以来かと思いまして」

 ああそうですね、とロタが眼鏡を押し上げる。

「六年四ヶ月ぶりです」

「はい!?」

「ですから、六年四ヶ月ぶりです」

 口を開けたままのテイワズに、ロタは淡々と続けた。

「自分が魔術学校に入る前ですね、用品の買い出しに、一緒に来てくれました」


 よく覚えてるのね、と驚嘆する。

 六年ほど前のテイワズは十歳ほどで、そんな日常の一コマのようなシーン、正直覚えていない。

 その頃はよく、兄たちとでかけていた。

 そのうちに兄たちは貴族御用達の魔術学校に通い、卒業したら家業に──。

 自分だけが置いていかれている気がしていた。

 性差もある。単純に比べられるわけではないが、それでも自分だけが何もできず、引け目があった。


 ロタは何も言わず、一度テイワズの顔を見た。目は合わない。

 それからしばらく歩いて、ロタの足が止まって、テイワズは顔を上げた。

「着きましたよ」

 

 あまり大きくはないが、小綺麗な建物だった。看板の文字で喫茶店だとわかる。

 窓から見えた店内の様子は、まばらに人がいた。


「昨日話した領主が、ここの甘味が美味しいと言ってまして」

 テイワズはロタの顔を見上げる。

「……なんですか?」


 しばらく二人きりで出かけてなかったとしても、わかる。

 家族の味覚の好みくらい。

(ロタお兄様は、甘いものがそんな好きではないはず)

 ずっと、一緒だったのだから、それくらい知っている。

「……なんでもないです」

 だからそれだけ答えた。

(連れてきてくれたのは、優しさだと知っているから)


 そうですか、と言ってロタが扉を開けた。

 さりげなく腰に手を添えられて、その手の大きさに心臓が跳ねる。


 ──その後の食事は、ロタは紅茶を一杯飲んだだけで、あとは店の名物スイーツを頬張るテイワズを見つめていた。

(ロタお兄様の手は)

 細くて、骨ばってて。

 腰に触れられた手は、見た目よりも大きかった。


「美味しいですか?」

「……美味しい、です」

 それはよかった、とロタは微笑んで目を伏せた。それから紅茶を口に含む。

 皿の上に残る料理は、もうそれほど多くない。

「…………ティー」

「なんでしょうか?」

 口に含んだそれを飲み込んで、ロタの顔を見る。

「……自分にもひとくち、いただけますか」


(え)

 驚きで固まった。

 フォークを持ったままのテイワズの手に、ロタが触れる。

 ゆっくりとその手が、ロタの方に運ばれた。

「──ああ」

 テイワズのフォークからひとかけら食べて、ロタはその手を離す。

「甘いですね」


 こんなことをするお兄様じゃなかった、とテイワズは彼の青い瞳の中を彷徨う。

「……こんなこと、してみたかったって言ったら、」

 ロタが固まったままのテイワズを見つめて続ける。

「そんな男は、嫌ですか?」


 嫌じゃない。

 嫌じゃないけれど。

(意地悪な聞き方だ)


 ロタは答えないテイワズを視線から逃して、店の人間を呼んだ。

 おかわりを求めたロタに、店の人間は目を細める。

「お若い恋人同士できてくださってありがとうございます」

「ええ」

 ロタの返事は早かった。

「来てよかったです」


 なんで訂正しないの。

(恋人だなんて)

 テイワズはすっかり空になった皿から目が離せなかった。


 それからどちらが言い出すでもなく店を出た。

「行きましょうか」

 ロタの黒髪が青く揺れる。瞳の色は、テイワズと同じ青色。

 だから差し出された手を、取るのに躊躇した。

(この手を取る意味を)

 

 伸ばされた手の意味を考えたその時だった。

 耳に届いたのは女性の叫び声。

 周りを歩く人々も二人同様、一斉に声の方向を見た。

 

「きゃー! 物盗りよおー!」


 遠くないその場所で、膝をついている女性が見えた。伸ばした手の先に走り出す男が見えた。男の風貌と不釣り合いの華やかなバッグ。

 眼鏡の奥の青が、鋭く燃えた。

「ティー」

「お兄様」

 構わず行ってください、とティーが言うより早かった。

 髪をかきあげてすぐに、ロタは男に向かって走り出した。

「待てやあ!!」


 テイワズはその間に膝をついた女性に走り寄る。

 女性の傍らには品の良い老婆がいた。爵位があるか良家の女性だろう。質の良い服を着ていた。

「大丈夫ですか」

「ありがとう……大丈夫です」

 怪我自体はないらしい。テイワズは手を取って女性を立ち上がらせる。

「彼は……」

 婦人の視線の先には、男を追いかけるロタがいた。

 走る二人が人並みを割る。男は必死の形相で、ロタの表情は、どこか笑っているようだった。

「私の兄です」


 あと一歩。ロタが伸ばした指先は、すんでのところで男に届かない。

(あの長い指が)

 届け、と念じる。

(ロタお兄様)

 願う。

 胸元で両の手を組んで、兄の成功と無事を願う。

「……お願い」

 呟きは、横の婦人たちにも聞こえないほどだった。

 それでもそれは、確かに空気を震わせた。テイワズの喉は震えた。

 物盗りの男が、盛大に転んだ。

「なんだあ!?」

 信じられないと言うように、男は分の躓いた足元を見た。その声は大きかったが、離れていたテイワズたちには聞こえなかった。

「大地の魔術か!?」


「──うるせぇなあ」

 ロタは転んだ男の背中を乱暴に踏んだ。

「お前が勝手に転んだんだろ」

 眼鏡のレンズに、男を映す。

「そのバッグから手ぇ離せ」

 乱暴で優しさの欠片もない低い声に、観念した男は奪ったバッグを握る手を離した。



 それから騒ぎを聞いて駆けつけてきた自警団に男を引き渡して、ロタはテイワズたちのところへ歩み寄った。

「ありがとうございます」

 バッグを受け取った婦人たちは、丁寧に礼を述べてそれからロタを讃えた。

「素晴らしいお兄様ですね」

 言われてテイワズは頷いた。

「ええ……自慢の兄です」

 ロタが見たテイワズの横顔が、心底嬉しそうだったから、ロタは何も言わなかった。

 名前を聞かれて答えると、侯爵家だと知っていたようで婦人たちは深くこうべを垂れた。


「もしよろしければ、お礼をしたいのでウチに来ませんか」

 テイワズとロタは顔を見合わせる。

 青い目にお互いが映る。

「……では、せっかくなので」

 ロタが答えると、婦人たちはすぐに馬車を用意した。



 招かれたのは、古いが丁寧に整えられた屋敷だった。

「しがない男爵家の家ではございますが」

 心を尽くされているのだとわかる歓待だった。

 調度品や壁の絵画に至るまで、手入れの行き届いた応接間。

 そこでロタとテイワズは焼き菓子と紅茶を出されていた。

「美味しいです」

 ロタの言葉に、老婆──男爵夫人は微笑んだ。

「私が焼いたんですよ」

「そうなんですか」

 あまり甘くない焼き菓子で、ロタの言葉はお世辞ではなさそうだった。

「こんなに美味しく作れるんですね」

 テイワズの言葉に、男爵夫人は嬉しそうに頷く。


 応接間には、多くの調度品が置かれていた。

 あからさまに高価なものはないが、それ故に品の良さがよく分かった。

 ──壁の絵画が、目に留まる。

「ああ、これですか?」

 テイワズの視線に、老婆が絵画を指し示した。

 それは女性の肖像画だった。

「娘をね、描いてもらったのです」

 男爵夫人の隣の婦人が、少し気恥ずかしそうに頬を掻く。

 それは繊細な筆使いで、鮮やかな色彩の絵画だった。肖像画というには幻想的で、幻想画というには写実的。

「お若い画家の方だったんですけれども、そうとは思えない素晴らしい絵でしょう?」

 夫人がテイワズを見た。視線は絹のように優しい。

「貴女のような、金髪の画家でしたわ」


「あの」

 もしかして、とテイワズはその絵画に目を凝らす。

「……いつ頃描かれた絵なんですか?」

 質問したのはロタだった。

 そうねえ、と夫人が娘と顔を見合わせる。

 娘の顔は、絵画ほど華やかではない。だけれどその画家にはそう見えているのだろう、内面の美しさがよく現れていた。

「先月の終わりごろだったかしら」

 テイワズは絵画の隅に、画家のサインを見つける。

「旅行先の東の街でね、描いてもらったのよ」

 サインは──エイルと書かれていた。



「お手柄だったじゃねぇか、ロタ」

 夕食を取りながら、ヘルフィが声をかけた。

「ああ、昼間の件ですか」

 ロタが答えると、ルフトクスとフォルティも食器から顔を上げた。

 なんなの、と二人が聞くと、ヘルフィが仕事中に自警団から話を聞いたと昼間の出来事を説明する。

「へえー、すごいじゃん、ロタ兄さん」

「素晴らしいですね!」

 テイワズも手を止めた。

「本当に、とてもご立派でした、ロタお兄様」


「ただなあ」

 暖かな空気の温度を下げたのは、ヘルフィの冷たい声。

「ちょっと乱暴だったな。怪我してたぞ、あの物盗り」

「…………それは、すみませんでした」

 場の空気が一変する。

 白銀が刺す。赤い目の視線は、手元。

「物取りとはいえ本来なら守られるべき民だ、ただの──」

 その低い声に、誰も食器の音で遮らない。

「不作で困窮していた、ただの一人の親父だった」

「けれど」

 重くなった空気を震わせたのは、テイワズの声だった。

 八つの鮮やかな瞳が、テイワズを映す。


「バッグを取られたご婦人も、膝をついていましたし何より……何より、バッグを盛り返してもらうと喜んでいらっしゃいました」


 テイワズは知っている。

 兄たちが自分を大事にしてくれていることを。

 だから言える。

(思ってることを言っていいって、言ってくれる兄だから)

 だから言った。

 ──ロタの僅かに落ちた肩を、少しでも上げたくて。


「……そうだな」

 ヘルフィの声の温度が、幾分か上がったような気がした。

「わりぃな、ロタ。俺様としたことが、嫌な言い方をしちまった」

「確かにその通りです」

 食卓に再び食器の音が戻る。

「気を付けます。……ティーも、怖かったですよね」

 伏せられた青い目を見据えて、ティーはいいえと首を振った。

「かっこよかったですよ、お兄様」

 その言葉に食卓はまた騒がしくなったが、ヘルフィだけは僅かに視線を下げたままだった。



 食事を終えて、ベッドに入る前に窓のカーテンを閉めようとした時、外に人影があることに気がついた。

 月明かりが暴くその髪の色は、黒。

 広い庭を撫でる風にその髪が揺れていた。

 寂しそうに見えたと言ったら傲慢だろうか。

 テイワズの足が自然と庭に向かった。

 テイワズが外に出ると、ちょうど風が落ち着いた時のようだった。


「ロタお兄様」

「ティー」

 後ろから声をかけられても、ロタは驚くことなく振り向いた。

 その顔は微笑みだった。

(さっきはそんな顔じゃなかったと思う)

 一人で庭に立っていた彼の足元は暗そうで、顔だって見えなかったけれど、寂しげな顔をしていた気がする。

 それなのにテイワズが見た顔は、半月のように柔らかな光のような笑み。

 

「夜に外に出るなんて、危ないでしょう」

「お兄様がいたので」

 会いに来ました、と言うのは憚られた。

 以前だったら言えていたはずだ。

 なのに、なぜ。

(変わってしまったのだろう)

 ここ数日で、自分も変わってしまった気がする。

(何も変わってないのに。そんなつもりも、ないのに)

 向けられる感情のせいで、何かが変わってしまった気がする。


「だからいいってことでもないでしょう」

 ロタはテイワズの髪を耳にかけて笑いかける。

「……今日は、ありがとうございました」

「いえいえ、むしろ忙しなくさせてしまいましたね」

「けど、楽しかったです」

 テイワズは笑いかける。

「六年四ヶ月ぶりのお出かけ」

 その言葉に、ロタが意表をつかれたように目を見開いた。

「…………覚えていないかもしれませんが」

 一度目を伏せて、ロタは語り始める。

「その買い物の時、あなたはずっと自分の服の裾を握って離れないでいてくれたんですよ」

 確かにテイワズは、覚えていない。

 その頃ロタは十六だが、テイワズは両手ほどの年齢。

(そんな愛しそうに語ってくれているのに、覚えていない)


「一年先に入学していたヘルフィがいるとはいえ、自分は新しい環境に緊張していました。広い世界で、自分の魔術が通じるかどうか」

 魔術の素養がある貴族の子供は、十五、十六で魔術学校に入ることになる。それまでは家庭教師を呼んで、同年代のことを深く知ることない学習環境なのだ。


「あなたはまるで私の不安を知っているように、ずっと離れずにいてくれました。お転婆だったのに」


 月明かりが足元に影を作る。

 テイワズから伸びる影は、あの頃より長い髪の影。


「その頃から、どんどん美しく変わっていって……あなたと並ぶときのため、自分は変わる決意をしました」


 今のテイワズは、その頃のロタと同じ年齢。瞳の色は同じ青。

 どれほどの決意だったか、と思う。


「……まあ、ヘルフィが学校でも王様のように振る舞ってましたからね、オレらしく、というよりは、変わるべきだと自分を変えました」


 たしかに学校に行くようになって、ロタは変わった。

 眼鏡をかけ言葉使いを直し、荒々しかった振る舞いを直した。オスカリウス家の次期当主の右腕と称されるに相応しいように。

(それに比べて)

 子どもだったテイワズが変わったのは、魔術の素養が自分にないとわかったからだった。

 魔術の使えない貴族の子供。しかも娘など、あとはせいぜい名高い家に嫁いで繋がりを作るしか価値はない。

 無力な自分にも、家族がそんな目で見てはないと知っていた。だからこそ、尚更役に立ちたかった。

(美しさは)

 それは武力だと知っているから。

 女性らしく指先を磨き、教養を深め、髪を梳いた。

 婚約に愛は求めてなかった。

 愛されたいとは思ったけれど、それよりは家の役に立つことが優先だったから、親が決めた婚約に逆らわなかった。

 ダグと顔を合わせたのは数回だった。

『結婚しましょう。うちはかつては王家と繋がりがある家です。たしかに資産は多くはないですが、それでもあなたを一生守ります』

 そう言ってくれた。

 愛が芽生えると、信じてた。

(……愛って)


 話を聞いて黙り込んでしまったテイワズの姿に、ロタが腰を曲げて顔を覗き込んだ。


「ティー?」


(なんなのかしら)


「……泣くなよ」


 テイワズの顔を覗き込んだロタは、その目元に雫が溜まっているのを見た。

(なんで)

 なんで泣いてしまったのかわからない。


 テイワズが口を開くより先に、ロタは手を伸ばし、その目元の涙を掬った。


 ──指先が触れて、気づいた。


 ロタは目元の涙を掬うと、顔に伸ばしたその指先を持ち上げた。

 その指先から、水で出来た蝶が生まれる。

 涙でできたその蝶が、ロタの細長い指から飛び立った。

「あ」

 月の光に透けたらさぞ綺麗だろう、と思ったのに、その蝶はすぐに弾けて霧散してしまった。


「かっこつかなかったですね」

 眼鏡の奥の瞳を細めて笑うロタに、テイワズの目から涙はすっかり引いた。

(触れた指先が、愛だった)


 ロタはテイワズのその顔を見て、言う気はなかったんですが、と前置きして喋り出した。

「……もしも自分が、あなたの兄ではないと分かったら、」

 テイワズは月明かりに透ける青から目が離せない。

「自分のことを、男として見てほしいです」


(何か答えなきゃ)

 テイワズとは反対に、ロタは声を漏らす。

「言う気はなかったのにとまらない」

 縋るような声だった。

 いつも凛とした兄の、まるで懺悔のような痛みを堪えるような声でもあった。

「……女になるのを見ていた、ずっと特別な女の子だった」


(何も言えない)

 やっぱり、答えられない。


 黙るテイワズの姿に、ロタは眼鏡を押し上げて微笑みなおす。

「今日はたくさん歩いて疲れたでしょう、しっかり休んでくださいね」


 何も答えられないままに、テイワズは部屋の中に戻り、窓のカーテンを閉め忘れたまま布団の中に潜った。



 庭が見える窓のカーテンを、音を立てて閉める。

「兄さん」

 カーテンを閉めたヘルフィは、後ろからかけられた声に答える。

「ルフか、こんな夜遅くまでご苦労だな」

 兄さんもね、とルフトクスは肩をすくめた。


 四男、ルフトクスは秀才である。

 剣も魔術も兄弟間では特別優れているとは言えないが、学校など外の世界では十二分に優れていた。

 魔術の実践も、座学も成績自体は優秀で、『三男でどうなることかと思ったが、さすがオスカリウス家の男子だ』と学校では高い評価を受けてている。

 それは優れたカリスマ性のある長男と、随一の剣術の腕を持つ二番の兄。そして三番目の兄の看板に泥を塗らないためだった。


 生まれた時から比べられ、気がつけば劣るまいと努力が染み付いていた。

 睡眠を削って腕を磨き本を捲った。

 その努力を、ヘルフィはもちろん家族皆が知っていた。

 本人は空が暗くなって闇に隠れるように学ぶが、部屋の隙間から漏れ出る光のその努力に気付いていた。

 それでも外では飄々として努力など知らないとばかりの振る舞いをしていた。──睡眠不足でいつも眠い、惰眠が好きな嫌味な天才と呼ばれても、本人が言わないから家族も言わなかった。

 紅茶を飲んで《カフェインをとって》もいつも眠いほど、努力をしてることを。


(おれは天才なんかじゃないのにねえ)

 この家で魔術の真の天才は──五男、フォルティだった。


 学校でのフォルティへの評価は『真面目な秀才』

 本人が素直で勤勉。それを隠していないから、優秀な魔術と剣の腕は努力によるものだと思われていた。

 まったくそんなことはない。

 彼は生活態度さえも真面目だ。睡眠と食事を尊び、ただそれだけ。

 入学してすぐ、誰もできない火の魔術──火の鳥を作って飛ばすほどの魔術の腕は天才的だった。

 実直な性格を見た教師陣は『たくさん努力したのだろう』とフォルティを評価した。

 彼は努力してない。やれることをやっただけだ。

 男兄弟の中では末っ子らしい奔放さと愛嬌で、睡眠不足になるほどの努力も知らずに魔術の腕を評価された。


 ルフトクスは天才と称されるがそれは努力に裏付けられた秀才で、フォルティは秀才と称されるが努力をする時間もないほどよく眠る天才。

 家の中での実際のところと、世間の評価は正反対だった。


 そんなルフトクスを、ヘルフィは信頼していた。

「……テメェは、誰だと思う?」

 損な性格だと思う。柔和なふりして誰より堅実なのに。

 ヘルフィが言った言葉を、ルフトクスはすぐに理解した。

「うーん、結局、四人が実子ってことなのか養子ってことなのかさえわかんないからねぇ」


 婚約破棄があったあの日の父親の発言のことだった。


「兄さんが一番年上だからわかりそうなもんだけど」

「それがそうでもねぇんだよ」

 ヘルフィは語り出す。

「ロタとエイルは気がつきゃ一緒に育ってるし、テメェは新しい愛人とこさえちゃったって突然親父が連れてきたし」

「うちの父さんってなかなか元気だよねえ」


 ルフトクスが紅茶を用意する。

 兄さんも飲む? と聞かれ、ヘルフィは応と答えて話しを続ける。


「フォルティは俺様のおふくろが育ててた」

「ああ、ご正妻様ね」

 ルフトクスがカップに注いだ紅茶をヘルフィの前に置いた。

「…………で、ティーは?」


 ルフトクスは紅茶に大量の砂糖を入れるヘルフィを見て、顔を顰めた。

「いつもながら思うけど、病気になりそうだよねぇ」


「アイツは」

 俺様も小さかったからうろ覚えだが、と前置きした上でヘルフィは喋り出した。

 ルフトクスがストレートの紅茶を一口啜る。


「突然親父が連れてきたんだ。やー、また生まれちゃったよ、なんて軽快に言って泣いてる赤ん坊を抱いてたのを覚えてる」


 ヘルフィは思い出す。

 ──お前たちの妹だよ、と言った父親の声を。

 ──泣く赤子の声に締め付けられた胸を。


「気がつきゃ同じ家の中でお正妻様に育てられてたしよくわかんねぇな」

「そういう人だよねぇ、兄さんの母さんって」


 会話を辿れば確かに、ヘルフィとルフトクスが違う母親をルーツに育てられたのだとはわかった。

 けれど血の繋がりまでは、確かなことがわからない。母親たちはまだ兄弟が子供だった頃に出て行ってしまったのか、消息さえわからない。


「……結局親父に聞かねぇとなんもわかんねぇよな」

「そうだねぇー。とりあえず魔術の三大元素を揃えたいから引き取ったおれたちを実の子として育ててただけかもしれないし、あらゆるところに種を蒔いてちゃんと引き取って集めたのかもしれないし」


 澱みなく流れたルフトクスの言葉を聞いて、ヘルフィが紅茶を飲み終わる。ルフトクスのカップはほとんど減っていなかった。

「……それにしても、兄さん」

「なんだ」

 話題が変わった。蝋燭の火が風もないのに揺れた。

 ルフトクスが金色の目を細めて、にやりと笑う。

「嫉妬なんて見苦しいよぉ? それなら言えばいいのにー」

「おい。俺様が何に嫉妬したって言うんだよ」

「誰に、って言わない時点で自覚してるじゃん。ああやだやだー」

「クソッ」

 ルフトクスの態度に、ヘルフィが舌打ちをする。

 言われずともわかってる。夕食の時のことだ。

 ──ロタを賞賛したテイワズの顔を思い出す。

 ルフトクスは飄々と続ける。


「ま、おれはその間にもしっかり責めますよ。……愚直な努力しか知らないんで」

 ルフトクスが紅茶を飲み終わる。

「明日はティーとどうやって過ごそうかなー。ふっふふーん」

 ヘルフィは飲み終わったカップを見る。

 溶け切ってない砂糖があることに気がついて、それを一口に煽った。

「……そうかよ、早く寝ろよ」

「はいはーい」

 返事をした弟の姿に、今日もいつまでも部屋の明かりは消えないんだろうと予想した。

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