1-4

 鉄扉の先には小さくも立派な部屋が広がっていた。

 薄暗いその部屋には、かすかな照明だけが柔らかく広がっていた。

 

 古びた家具が置かれたその空間は、時の流れを感じさせる落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 部屋の片隅に設置された太古に存在したと言うレコードプレーヤーから、ゆったりとしたメロディーが流れていた。

 

 レコードの針が盤面をなぞる微かな音が、静寂の中に心地よいリズムを刻んでいる。

 そんな部屋の中央に一人の男が、古びた一人掛けのソファーに座って静かに本を読んでいた。

 カイたちがその男の前に立つ頃には読んでいた本を閉じて男はカイたちを見上げ口を開く。

 

「おやおや、これはカイ君。カイ・アサミ君じゃない。ああ……売女ビッチも一緒なのね」

「お久しぶりです、ヴィクセン」

「ちょっと! 売女ビッチって誰のこと言ってますの!?」 

「ふふ、貴方がホテルを利用してくれるなんて珍しいわあ」

 

 フローラを完全無視するこの男の名はヴィクセン。

 苗字は不明、年齢不詳の初老の男性だ。


 このユニバーサルホテルのオーナーでもあり、カイが所属する非合法組織ヘリオスの顔役でもある。

 ヴィクセンは、風格と品格を兼ね備えた男だった。

 

 中背ながらも、その立ち居振る舞いからは圧倒的な存在感が漂っていた。

 彼の顔立ちは洗練されており、年齢を重ねたことによる深い皺が、その人生の豊かな経験を物語っていた。

 

 短く整えられたシルバーグレーの髪は、常に完璧にセットされており、どんな状況でも乱れることはなかった。

 

 濃い眉の下に位置する目は鋭く、その瞳には冷静な知性と揺るぎない決断力が宿っていた。

 しかし、そのすべてをお姉口調が台無しにしていた。

 

「実は割のいい仕事を探してまして、何かアドバイスでも貰えればと」

 

 カイはわざとらしく揉み手をしてヴィクセンにそう尋ねる。

 小者であれば強者に媚び諂うのに抵抗など無く、それこそが小者である証明でもあった。

 カイは小者なのだ。

 

「相変わらずダメ男よね貴方。戦闘をさせれば自分の足に躓くタイプ、船の操縦に関しても中の下で扱えるってレベル。さらに簡単に頭を下げる安いプライド」

 

 ヴィクセンに笑われながら指摘される度、カイは顔を背けて小さく「うっ」と声を漏らしていく。

 それは全てが事実でありカイ自身も十分に自覚しているところだった。

 事実である以上は何も反論することは出来ない。

 

「けど、一つだけ。誰にも持っていない物があるのよね」

 

 そう言ってヴィクセンは指を弾くと小気味よい音を部屋に響かせた。

 音に釣られてカイがヴィクセンの方へ顔を向けると、インターセプターを通して通知が届いたことに気が付く。

 その通知の内容を見てカイは驚く。

 

「カイ君。貴方は実に幸運の持主よ。

連邦陸軍を抜けたタイミングや、一般歩兵に過ぎない貴方が少しだけ特別な小汚いセクサロイドを手に入れられた事。大したお金も無く、何の後ろ盾もない癖に船を所有出来た事は全て貴方の運が成せた結果。

そして、今このイトー軌道ステーションに来て、わたしと会った事が新たに加わるのよ」 

「ちょっと! わたくし、セクサロイドなんかじゃありませんわよ!!」

 

 ヴィクセンから送られてきた通知には、このサブリングの安全等級が何故上げられたか。その理由が記されていた。


 ほんの数日前に発生した、とある科学研究所が襲撃された事件が原因だ。

 その科学研究所が取り扱っていた研究は、脳転写技術と呼ばれる代物で、実用化の目途がまだ立っていない最先端医療技術だ。


 その名の通り、脳の内容をそっくりそのまま別の脳に移し替える技術だ。

 植物状態の人間は勿論のこと脳死に近い状況であっても、蘇生が叶うと言う革新的な技術だった。


 同時にそれは人類が夢にまで見た永遠の寿命の実現を示唆していた。

 そして、ついに脳転写技術の実証として動物実験を行い、これを成功させたのだと言う。


 その事を知った大セレスティアル帝国が秘密裏に奪取しようとして起こした騒ぎというのが、先の襲撃事件の真実だった。


 結局、奪取計画を事前に察知した連邦海軍の秘密実働隊により科学研究所は機密保持の為、職員諸共爆破されたので帝国は何も手に入れられなかったようだが。

 

「そこで、カイ君には一つ護送依頼をしたいのよ。そこに動物実験したって書いてあるでしょう?」 

「え、あ……まさか?」

「そのまさかでーす! これがその実験犬のアインよ」

 

 そう言ってヴィクセンの座っているソファーの後ろから一匹のドーベルマンが現れる。

 一体いつからソファーの後ろで待っていたのか。そんなどうでもいい事がカイの脳裏を一瞬過る。


 カイはアインと呼ばれたドーベルマンを見ると、何処となく申し訳なさそうな佇まいをしていた。

 その姿から妙な人間らしさを感じられる辺り、不思議と元人間と言うのを納得したのだった。

 

「襲撃を感知したのは連邦だけじゃないわ。幸い、何とかこの哀れな実験犬だけは組織が確保する事が出来たのよ。で、この不幸な事故に巻き込まれたアインの来歴だけれどね」 

「あ、それはいいです。聞くと何かヤバそうなので」

 

 放っておくとヴィクセンの口から爆弾発言が飛び出しかねない。そう確信したカイはすかさず待ったを掛けた。


 ただでさえ、このアインという元人間の犬は、帝国が付け狙うには十分すぎる経歴を持っているのだ。

 更に詳しい情報を得てしまったのなら、自身も帝国から狙われかねない。そうカイは判断した。

 

「あら釣れない。まぁいいわ。目的地はここから3000LYほど離れたHIP96455星系。そこの小惑星基地レミーロックよ」

「げ、3000LYも!?」

「当たり前じゃない。帝国は勿論、連邦支配下もダメ。同盟は……まあバレて売られるわね。

残る安全圏はロクな産業の無い田舎。つまり無政府星系しかないわ」

 

 カイが驚くのも無理はない。

 3000LY、これは3000光年を意味しており、この世界の常識ではかなり遠方と言えた。


 高性能な民間用ハイパードライブでも1000LYの移動に掛かる日数はおよそ4日間。


 遥かに短時間かつ広大な範囲をカバーできる軍用ハイパードライブと言えど、3000光年先までの星系を全て探し回るのは帝国が保有する恒星間航行船ほぼ全てを動員すれば一日程で済むかもしれないが現実的ではない。


 故にそこまで逃げ切る事が出来れば、素性が何処からか漏れない限りは見つかる事はないと言えた。

 しかし、カイを悩ませる問題は3000LYと言う距離だ。


 カイが保有する宇宙船『白鯨号』は、元々は民間用の漁船だった。

 豊富な海洋資源に恵まれた惑星から魚介類を獲り、そのまま船単独で大気圏を離脱して近場の宇宙ステーションや地上セトルメントへ配達すると言った使い方をされていた。


 時には遠方のステーションまで配達することもあって、多少のジャンプ距離があるが、それでも一度に飛べる距離は精々130LYと言うのが精いっぱいだ。


 その最大距離で飛んだ場合でも、今度はハイパースペースの移動時間も掛かるわけで、130LYの移動に掛かる時間は約1日だった。


 3000LYの距離を行こう物なら、途中の補給も含めて約25日間ほどは掛かってしまう。

 いつ何処からか情報が洩れ追手が掛かるとも分からない状況で、25日間逃げるのは中々の重圧だろう。

 そして、その工程を飲み込んだとしても、カイを悩ませる最大の問題があった。

 

「あ、あのですね。それだけの長期間になると、色々先立つものが必要でして……報酬は前払い……」

「当たり前に後払いよ。カイ君の事だから前払いでも途中で放棄するなんて事は無いでしょうけれど、こればっかりは組織のルールなの」 

「ですよねー。はあー」

「うふふ、相変わらずケチ臭い。バーンと出しなさいな」

 

 カイは溜息を突いて、この難題をどう解決するか小さな脳をフル回転させて考えていた。

 一方のフローラは隙あらばヴィクセンに口撃したいとばかりに息巻いていた。

 そんなカイたちを見て、ヴィクセンは満足したように笑みを浮かべ口を開く。

 

「報酬の先払いは出来ないわ。けど、物資なら話は別よ。

まずカイ君の船のハイパードライブを軍用規格に乗せ換えるわ。同盟標準の小型多用途艦の物だけどね。

ああ、勝手に作業は始めてるから、船に戻る頃には終わってるわよ」 

「ふぁ!?」

「勿論、換装費は全てこちらが負担するわ。これで一度のジャンプで200LYは飛べるようになるし、掛かる時間はたった5時間よ。

心配しなくても依頼が終わったら返せなんて言わないわ。そのままハイパードライブはプレゼントしちゃう」

 

 それはカイに取ってとんでもなく有難い申し出だった。

 たった15回のジャンプで目的地に着き、さらにその工程に掛かる時間は僅か3日と少々で済むのだから。


 それであれば従来通りの物資を補給するだけで十分に済む、実にお財布に優しい。

 さらに依頼が終わってもハイパードライブを返却しなくても良いのだから、圧倒的アドと言うものだ。

 こうしてカイはヴィンセントの餞別を有難く頂戴し、依頼を受けることを決めたのだった。

 

「じゃあ、アインをよろしくね。レミーロックのユニバーサルホテルへ届ければ依頼は完了よ」

「分かりました! 確実に届けます」

「ふふ、良いお返事よ。さて、最後に何か質問はあるかしら」

 

 一通り聞きたい事は聞けたカイは首を横に振り、直ぐにも船へ戻って出発したいと考えていた。

 そんなカイの思いとは裏腹に元気よくフローラが挙手をした。

 

「はい、そこのビッチ」

「大事な確認なのですが、アインは雄でいらっしゃいますの?」

 

 鼻息荒く曇りなき眼でフローラはヴィクセンにそう問うのだった。

 ヴィクセンがフローラの問いに答えたかは言うまでもない。

 

 ◇◇◇

 

 カイが自分の船へと戻ると、ヴィクセンが言っていた通り既に換装作業は完了していた。

 見た目こそ全く変わらないが、カイは心なしか白鯨号が輝いて見えた。

 完了報告を作業用ボットから受け取ると、早速カイたちは白鯨号へと乗り込む。


 水や食料と言った生活用品も、ここへ来る道中で注文していたので換装作業と同時に積み込み作業も終わり、もうすぐにでも出発出来る状況となっていた。

 

「フローラ、その犬……あーいや、アインさんをキャビンに案内してくれ」 

「えぇ、分かりましたわ。それでは、付いて来て下さいましアイン殿」

 

 思わずカイは実験犬アインを何と呼べばいいのか迷うも、無難な「さん」付けで行くことを決めた。


 元は紛れもない人間で、何の因果で犬に脳転写なぞするハメになったか分からないが、人権は尊重しよう。


 そうカイは心の中で決めた。

 手慣れた手付きでカイは出港準備を進めていく途中、視界に通知が舞い込んでくる。

 手を動かしながらその通知を読んだ瞬間。カイの両手は動きを止めてしまう。

 

『カイ君へ。

そろそろ出港準備が整うと思うので、この通知の5分後に一時的にステーション近辺の全ての艦船を停止させるわ。

その間に事前に渡した航路通り、次の星系へジャンプアウトしてね。

間に合わなかったら連邦と帝国の怖い軍人さん達が後を追ってきちゃうかも。

貴方の安全な航海を心より祈っています。 ヴィクセンより』

 

「うおおおお!! 出航ーーーッ!!」

 

 カイはすぐさま白鯨号を上昇させ、ステーションの出入り口へと船を進ませた。

 気付けば既に通知から3分も時間が経過していた。


 ステーション内の制限速度ギリギリまで船を加速させて、滑り込むようにしてステーションから離脱する事が出来た。

 その瞬間、周りで忙しなく動き回っている艦船がピタリと時間が止まったかのように静止した。

 

「一体どんな手を使ったらこんな芸当が出来るんだ」

 

 そうカイはボヤキつつも、ハイパードライブのチャージを開始させ200光年離れた別星系に向けジャンプするのだった。

 カイの白鯨号がジャンプアウトして直ぐ、再び艦船は皆一斉に動き始めた。

 



 ◇◇◇



 

「無事にジャンプ出来たみたいね。1分以上経過すれば軍のウェイクスキャナーでも航跡残滓を辿る事は不可能。

まあ、あとは無事に目的地まで辿り着く事を祈りましょうか。ご協力どうも、イトーちゃん」

 

 ヴィクセンが一人でにそう呟くと、何もない空間に突如通信ウィンドウが現れる。

 

『当コロニーからの離脱を確認。サブリングの危険等級をレベル5に上方修正』

 

 そう応えたのはカイが見た管制AIと全く同じ姿をした女性だった。

 勿論、同じ管制AIではない。所詮は同じアバターを使いまわしているだけに過ぎない。


 ヴィクセンと話すこのAIの正体。


 それはイトー軌道ステーションの中枢を担う制御AIであり、ヴィクセンに実験犬アインを確保させコロニー外へ運び出すように依頼した存在だった。


 彼女は自らが管理、統治するイトー軌道ステーションで発生した科学研究所襲撃事件について深い懸念があった。


 勝手に人間が死んでいくのはいつもの事だったが、今回の襲撃事件は対応を見誤ればエスカレートする危険性が非常に高いと予測していた。


 その予測はレベル3のサブリングの完全隔離に留まらず、レベル2の超低周波水爆によるリング内全生物の排除まで行う可能性もあった。

 

「しかし、イトーちゃんも過激よね。たかだか軍の衝突を懸念してレベル2発令まで考えるんだから。

人間ってすぐには成長しないのよ。 たっぷり時間と労力と愛を注ぐ必要があるんだから」

 

『当方の行動理念はステーションの運行が最優先される。その為に必要な措置は何らいとわない』

 

 そう告げると通信は一方的に閉ざされ、ヴィクセンは軽く溜息をついた。

 

「若いわねえ。まあ、たかだか100年程度のAIならこんなものよね」

 

 ヴィクセンは再び手元の本を開いて静かに読みふけるのだった。

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