第三話「見知らぬ救いの手」
自分が居座り続けている理由を何度も心の中で確認する。このままでは老人の言うように一週間で文字を覚えるなんて到底無理だ。自分の現状に苛立ちながらも、どうすることもできない。
周囲の人々の視線は気になるが、ここで動くのも億劫だった。しばらくして、ようやく屋台が賑わい始める。しかし、それがフィーネの状況を好転させることはない。結局、文字の読み方を知る術は見つからないままだ。
そんな時、ふと近くから声がかかった。
「ねぇ、君。こんなところで何してるの?」
フィーネは顔を上げた。声の主は二十代後半くらいの男で、身なりはそこそこ整っている。しかし、どこか目が据わっていて、軽薄な雰囲気を纏っていた。
「……特に何もしてませんけど」
フィーネはそっけなく返事をする。
「そっか。でも、こんなに長い間ここに座ってると目立つよ? 周りも気にしてるみたいだしさ」
男は微笑みながら話しかけてくるが、その態度はどこか馴れ馴れしすぎる。フィーネは無視することを選んだが、男は構わず話を続ける。
「それにしても、こんな早朝からずっとここにいるなんて、何か困ってることでもあるんじゃないの?」
「別に困ってません」
冷たく答えたつもりだったが、男は全く意に介さないようだった。
「へぇ、そう? でも君、さっきから屋台ばかり見てるよね。ひょっとして、ご飯が欲しかったり?」
その言葉にフィーネは少しぎくりとした。後半は違うが屋台を見ていたのは図星だった。男の観察力に驚きながらも、どう答えるべきか迷い曖昧に首を横に振る。
「大丈夫だって隠さなくても。だったらさ、俺が美味しいお店に連れてってあげようか?」
「……いえ、別に大丈夫です」
フィーネは警戒心を抱きながら断るが、男はしつこく食い下がる。
「そんなこと言わないでさ。俺、こう見えて親切なんだよ。ほら、近くにいい場所があるから、そこを教えてあげるよ」
男の笑みにはどこか不穏なものが含まれていたが、フィーネはそれに気づきながらも、どうするべきか迷っていた。確かに、このままでは何も進展しない。しかし、この男に付いて行くのも危険だという感覚があった。
不意に手首を掴まれる。
「え……!」
「ほらほら、こっちだよ」
無理矢理立ち上げさせられると強い力で引っ張られた。踏ん張って持ちこたえようとするがそれも間に合わない。
その時だった。
「ちょっと! 何してるの!?」
フィーネと男の間に、女性の声が割って入った。振り向くと、そこには少し大人びた雰囲気を纏った少女が立っていた。年齢は十六くらいに見える。ふわふわとした肩くらい長さの髪が特徴的で、露骨な威圧感こそないものの、その目にはしっかりとした芯が感じられる。
「君、大丈夫?」
少女はフィーネにそう問いかける。フィーネはどう答えるべきか迷いながらも、「……この人に引っ張られて、無理矢理」と小声で返す。
「無理矢理だって? ちょっと待てよ、俺はただ親切で――」
男が抗議しようとしたその瞬間、少女は鋭い視線を向けた。
「親切ね。本当にそうなら、どうしてこんな用意周到なの?」
そう言うと少女は周囲に目を向けた。視線の位置には散らばるように配置された男性の姿があった。
ようやく気づく。これは組織的な犯行だったのだと。
ゾッとした。人の身体でないはずなのに、呼吸が荒くなった。
一人の少女に全てを看破され、どうしようもなくなったのか、男は苦笑いを浮かべながら後ずさりし、「はぁ……クソっ」と言い残して立ち去っていった。
「大丈夫?」
少女はフィーネに向き直り、優しい表情を見せた。
「……助けてくれて、ありがとうございます。でも、なんでここに?」
「いや、君がずっと同じ場所に座ってるのを見て、気になっただけ。さっきの男も怪しい動きをしてたしね」
少女はさらりと言うと、フィーネの手を引いて立たせた。
「名前、聞いてもいい? 私はアイリ。この街でちょっとした用事をしてるの」
「フィーネ、です」
「フィーネか。よかったら、私が案内してあげようか? あの男に任せるよりは、少しは信頼できると思うけど」
「それは助かりますが、私は観光をしたいわけではなく……」
「え? じゃあそこに座って何してたの?」
「それは……」フィーネは言い淀んだ。文字を読めないと伝えるのはこの世界ではどうなのだろう。識字率が低いとか昔の時代ならありえるが、屋台や他のお店でも文字がたくさんあるところを見るにそんなことは無いかもしれない。
きっと可哀想な娘だと思われるだろう。
「文字が読めなくて勉強しようとしてたんです」
アイリは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「……そうなんだ。大丈夫、気にしなくていいよ! むしろ、それを克服しようとしてるなんてすごいと思う」
その言葉にフィーネは少し救われた気がしたが、それでも不安は残っていた。
「でも……気持ちだけじゃどうにもならないことに気づいたんです。私、頼れる人がいなくて、自分で何かをするしかなくて……」
フィーネの声は震えていた。これまでに溜め込んできた焦りや孤独が、少しずつ表に出てくる。
アイリは少し考える素振りを見せると、真剣な目でフィーネを見つめた。
「ねぇ、フィーネ。私、君がどんな状況なのか全部はわからないけど、ひとつだけ言えることがあるの」
「……なんですか?」
「誰だって最初は何も知らないのよ。文字だって、勉強だって、経験だって、みんな最初はゼロから始めるんだから」
その言葉は、フィーネの心の奥に染み渡るようだった。
「それに、これからは一人じゃない。もしよかったら私が文字を教えてあげるよ!」
アイリの言葉に力が込められる。フィーネはそれを聞いて顔を上げた。
「ほ、本当ですか?お礼も何もできませんが……」
「もちろん、本当だよ! お礼なんていらない。困ってる人を助けるのは当たり前でしょ?」
アイリは軽く肩をすくめて微笑んだ。その笑顔はとても自然で、フィーネの心にほんのりと暖かさをもたらした。フィーネはその言葉に甘えるべきかどうか迷ったが、どうしようもない状況に追い込まれていた今、この提案に乗る以外の選択肢はなかった。
「ありがとうございます……。すごく助かります」
「いいってば。それじゃあ、ここで勉強するより、私の部屋に来ない? もう少し落ち着いて教えられると思うの」
フィーネが驚いた顔でアイリを見つめると、彼女は気まずそうに肩をすくめた。
「ほら、ここだと人も多いし、さっきみたいにまた変な人に絡まれるかもしれないからさ。それに、部屋ならもっといろいろ教えられる道具もあるし、ね?」
「……でも、そんな急にお邪魔して迷惑じゃないですか?」
「全然迷惑じゃないよ! むしろ、私もちょうど退屈してたし。これも何かの縁ってやつだよ」
アイリはフィーネの手を軽く引きながら、にこりと笑ってみせた。その笑顔に押される形で、フィーネは断る言葉を失った。
「……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
「もちろん! さ、行こう!」
アイリの部屋は広場から少し離れた静かな通りにある、レンガ造りの建物の一室だった。中に入ると、シンプルながらも暖かみのあるインテリアが目に飛び込んでくる。木製のテーブルや椅子、そして窓辺には花が飾られていて、どこか居心地の良さを感じさせる空間だった。
「ちょっと散らかってるけど、座っててね。飲み物でも出すよ」
そう言うと、アイリはキッチンに向かい、手際よくお茶を淹れ始めた。フィーネは勧められるままに椅子に腰を下ろし、部屋の中をきょろきょろと見回した。
「綺麗な部屋ですね……。一人暮らしなんですか?」
「うん、この街に来てまだそんなに経ってないからね。だから、家具とかもまだ揃いきってないんだけど」
アイリはトレーにカップを乗せて運びながら、少し照れたように言った。
「この街に来たばかり……なんですね」
「そうそう。だから実はね……」アイリはカップをテーブルに置くと、椅子に腰かけて小さく息をついた。
「私もフィーネと同じ。まだこの街のこととか、全然知らないんだ」
その言葉にフィーネは驚いた表情を浮かべた。しっかり者に見えるアイリが、どこか自分と似た立場にあることが意外だったのだ。
「でも、なんでそんな私に親切にしてくれるんですか? 普通なら、もっと自分のことで手一杯になりそうなのに……」
フィーネの問いに、アイリは少しばつが悪そうに目を逸らした。そして、しばらく沈黙した後、小さく笑いながら口を開いた。
「実は……ただの善意ってわけじゃないんだよ。私、ここに来てから誰とも話す機会がなくてさ。ずっと一人だったの。だから、フィーネを見た時に仲良くできたらなって思ったの。ほら、私達って年齢も近そうじゃない?」
「……そう、だったんですか」
アイリの告白に、フィーネは少し胸が締め付けられるような思いを抱いた。彼女もまた、どこか孤独と戦っていたのだ。だからこそ、フィーネの存在がアイリにとって救いになっていたのかもしれない。
「ごめんね、なんか変な理由で。でも、だからと言って助けたのが嘘ってわけじゃないから」
アイリは慌てたように付け加えた。それを聞いたフィーネは、ふっと小さく笑った。
「いいえ、全然変じゃないです。むしろ、そう言ってくれて嬉しいです。私も……ちょっと似た気持ちだったから」
「そっか……よかった」
アイリもまた、安心したように笑った。そして二人はお互いの心の内を少しだけ共有し、何とも言えない温かい空気が部屋に流れた。
「さて! それじゃ、文字の勉強を始めようか。ほら、こっちに座って」
アイリはテーブルの上に紙や筆記用具を広げ、フィーネを隣に呼び寄せた。部屋の中で二人きり、外とは違う静かな空間で始まる学びの時間。フィーネはアイリの隣に座り、少し緊張しながらも新たな一歩を踏み出そうとしていた。
「まずは基本の文字からね。さっきも言ったけど、難しく考えなくていいから、気楽にやろう」
「はい……よろしくお願いします」
こうして二人は、初めての共同作業を始めることになった。
その作業は単純で、アイリに発音を教えてもらい、それをフィーネが模写をする。その繰り返しだった。最初はよく日常で使う単語からと頭に刻み込んでいく。
後半はフィーネからの申告で数字の読み方の勉強になった。
アイリに迷惑をかけているのが申し訳ない。だがそれ以上に初めて友達ができたという喜びがある。少しばかり距離が近いのはフィーネにとって恥ずかしかったがそれも仕方ない。アイリはフィーネのことを女性だと思っているのだ。
「ふぅ、ちょっと疲れますね」
丁度区切りのいい場所になって一息つく。フィーネは自然な流れでカップに手を添えた。そのまま口に運ぼうとして止まる。
――あれ、飲み物って飲めるんだっけ?
つい人間だったときの癖で飲もうしたが思い留まった。確か記憶の範囲だと……食べ物はいらない、と老人が言っていた気がする。けれど飲み物に関しては何も聞いていない。
「どうしたの?」
「えっ? いや……」
アイリが心配そうにこちらを覗き見ている。フィーネは口をキュッと結んだ。
これ以上、アイリに心配をかけるわけにはいかない。ここでもしフィーネが『私は人間じゃない』といいだしたら、それこそ負担になってしまう。
かといって一度も飲み物に手を付けないのも不自然だ。
暫しの間悩む。
結果――フィーネは短く嘆息すると一息にお茶を飲み干した。
食べ物がいらないということは、食べられないということではきっとないだろう。なら飲み物だって同じはずだ。
「なんでもないですよ! さあ、続きの勉強をしましょう」
平静を装う。あの老人が何も口にできないバカな肉体を作るわけがない。そう、きっとそうに決まっている。
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