第四話「歪む世界のフィーネ」




 部屋の中は深夜の静けさに包まれていた。フィーネは布団に入りながらも、眠気を感じていないため目を閉じることができなかった。隣のアイリは既に寝息を立てている。


 元よりホムンクルスであることは隠そうと決めていた。その場合、こうして寝た振りをするしかなかった。

 泊まりでなく帰ればいいとも思ったが、真夜中の街の道を完璧に思い出し老人の家にたどり着くのは無謀だと悟った。


 アイリが静かに眠っているのを確認し、フィーネは布団をそっと抜け出す。


 机の上には広げたままのノートと練習用の紙が置かれている。書きかけの文字を指でなぞりながら、フィーネは深い息をついた。


 ――もっと、書けるようにならないと……


 ペンを握り直し、フィーネは机に向かった。文字を覚えること、それは老人のためではない。フィーネにとっても必要最低限の能力だった。この孤独な世界で適応し、例え人間でなくとも普通の人間のように暮らしたい――その想いも含め、フィーネをこれだけやる気に満ちさせていた。


 静かに、音を立てないように模写を続ける。夜が更ける中、何度も繰り返し文字を書いた。


 どれほど時間が経ったのか、フィーネにはわからなかった。ただ、手を動かし続けた。目の前の文字を繰り返し、繰り返し書き写す。


 けれど、ふと違和感を覚える。体の内部で、何かが不規則に動いているような感覚だ。


 ――気のせい?


 フィーネは首を振り、ペンを握り直した。しかし、その感覚は次第に大きくなっていく。体の奥から響く鈍い振動と、微かに軋むような音。


 冷たい汗が背中を伝う錯覚を覚えながらも、フィーネは書く手を止めなかった。だが、突然――


 ガクン!


 視界が歪んだ。机の上に置かれたペンが転がり落ちる音がやけに遠くに聞こえる。フィーネの体が力を失い、その場に崩れ落ちた。


 「……あれ?」


 目の前が暗くなる。体のどこかで、「何か」が切れる音がした。






◇◇◇





 次にフィーネが目を覚ましたとき、耳元にはアイリの声が響いていた。


「フィーネ! どうしたの? ねえ、しっかりして!」


 フィーネの頬に触れる温かい感触。それと同時に、アイリの涙が頬にポタリと落ちた。


「……アイリ……?」


 朦朧とする意識の中で、フィーネはかすれた声を絞り出した。目を開けると、心配そうに顔を覗き込むアイリの姿が見える。


「良かった……気が付いてくれて。本当にびっくりしたんだから!」


 アイリは泣きながら、フィーネの手を握りしめた。その手の温かさに、フィーネは一瞬だけ安心感を覚える。


 だが、自分の体に異変が起きていることを、フィーネは痛感していた。腕を動かそうとしても力が入らないどころか、何かが壊れたような感触が残っている。


「ごめんね……私、大丈夫……だから……」


 フィーネは必死に笑顔を作り、そう言った。しかし、アイリの目は不安そうに揺れている。


「本当に? 何か、無理してない?」


 問いかけるアイリに、フィーネは静かに首を振った。


「大丈夫。ちょっと疲れただけ……少し休めば平気ですよ」


 嘘をつくことに罪悪感を覚えながらも、フィーネはそう言わざるを得なかった。


 体をそっと動かし、腕の状態を確かめる。袖をめくると、皮膚の一部が黒く焼け焦げ、所々が裂けたように溶けているのが見えた。


「――っ!」


 動揺して立ち上がろうとしたその瞬間、胴体にも異変が広がっていることに気づく。


 身体を支えようと壁に手をつこうとするが、腹部から気持ち悪い感覚が走った。フィーネは服を捲って確認したい気持ちで一杯だったが、それをすれば目の前のアイリに見られてしまう。それだけは避けなければならない。


「やっぱりおかしいよ! 何か病気とか……」

「う、ううん、心配しなくて平気だから……。ちょ、ちょっとトイレ借りますね……」


 アイリの脇を通り過ぎ駆け足でトイレに入る。フィーネは服を捲ってその惨事を目にした。


 フィーネの腹部には謎の染みがあった。その部分だけ異常に皮膚がふやけており、触れるだけで破れそうな危うさがある。


「な、なんで……」


 呼吸が荒くなった――いや、呼吸の必要がないのにあたかも呼吸しているかのように体が震えた。恐怖、焦燥自己否定――全てが渦巻く。


「ふー……!ふー……っ!」


 冷静になるんだ、落ち着くんだ。頭の中でフィーネは何度も唱えた。この身体が人形だってことはよく理解していたはずだった。この程度で動揺することはない。


 額を扉に付け精神統一をする。そして、覚悟を決めもう一度腹部を見る。


 ――原因は、なんだ?


 フィーネはふやけた腹部の皮膚にそっと触れる。傷口が拡がりそうな感触に、手を引っ込めたくなる衝動を抑えながら、冷静に観察を続けた。そのとき、ふと先ほどまでの出来事が頭をよぎった。


 ――まさか……あのお茶?


 夕食のとき、アイリが淹れてくれたお茶のことを思い出す。飲んだ瞬間、少しだけ体が温かくなる感覚を覚えたが、それが特別悪いものだとは思わなかった。


 しかし、この異常な体の状態と時間的な一致を考えれば、あのお茶が原因である可能性は高い。


 おそらく飲み物を飲んだのは間違いだった。きっと飲食ができるようにこの身体は作られていなかったのだ。


 フィーネは唇を噛み締める。このような状態になってどんな影響があるのか、どれくらいの時間が持つのか。少なくとも異物の感覚があるだけで苦痛は感じていない。


 だが……腕に関しては力がほとんど入らなくなっていた。


 ――その時、扉の向こうからアイリの声が聞こえてくる。


「フィーネ、大丈夫? 本当に平気なの?」

「だ、大丈夫です! すぐ戻ります!」


 できるだけ明るく振る舞う声を出したが、自分の動揺を隠しきれていないのは明白だった。それでも、これ以上アイリを巻き込むわけにはいけない。早急に老人のもとへ戻りこの身体を治してもらう必要がある。


 トイレから出ると、アイリがすぐに心配そうな顔で駆け寄ってきた。


「本当に大丈夫? 顔色が悪いよ……」

「はい、本当に平気ですよ。……ごめんなさい、心配させてしまって」


 フィーネはわざと笑顔を作る。その動作がぎこちなくなるのを自覚しながら懸命に演じ続けた。


「……でも、無理しないでね。何かあったら、絶対に言うんだよ?」


 アイリは小さく手を握りしめながら、そう念を押した。その様子が愛おしくて同時に胸が痛くなる。


「ありがとうございます。ですが……その――」フィーネは言い淀みながらも言葉を続けた。


「どうしてもやらなくてはならないことができてしまって、急いで家に帰らないといけないんです」


 アイリの顔に困惑が浮かぶ。


「こんな夜中に帰るの? だめだよ、危ないに決まってる。せめて朝まで待とうよ」

「それができれば、そうしたいのですが……本当に急がなくてはならないんです」


 フィーネの声は少し震えていたが、決意が込められていた。その様子を見て、アイリはしばらく言葉を失っていた。だが、意を決したように首を横に振る。


「なら、私も一緒に行く。夜道を一人で行かせるなんて絶対にできないから」

「だめです! えっと……その、アイリさんを巻き込むわけにはいきません」


 フィーネの強い否定に、アイリの目が驚きに見開かれる。それでもアイリは譲らなかった。


「巻き込むとかじゃない。友達なんだから、放っておけるわけないでしょ!」


 その言葉にフィーネは一瞬動きを止めた。「友達」――それはフィーネがここに来てからあまり意識したことのない響きだった。


「アイリさん……でも、私は――」

「何か隠してるよね?」


 アイリがフィーネの言葉を遮った。その目は真剣で、フィーネを見逃さないという意志が宿っている。


「私がどうしても引き留められないなら、一つだけお願い。何があっても無理はしないで。それと、よかったらまた……ここに遊びに来てほしい」


 フィーネはその言葉にどう返すべきか迷った。隠し事をしているのは事実だし、それを伝えるつもりはない。だが、アイリの真摯な思いを無視することもできない。


「……約束します。必ずまた遊びに来ますから」


 それが精一杯だった。アイリは納得しきれない表情だったが、無理に引き留めることはしなかった。


「絶対にね……気を付けて」


 アイリの言葉に頷き、フィーネは部屋を後にした。


 外に出ると、夜の冷たい風が肌を撫でた。体の異変を感じながら、フィーネは街を進む。老人の家までの道を思い出しながら足を進めるが、異変は次第に体全体に広がっていく。


「間に合わないかも……」


 やはりアイリの言う通りだった。少し明るくなっているとはいえまだ夜。そのような視界が不明瞭な状態で一度しか通ったことのない道を正確に戻ることはできない。

 だからといって朝まで待つという選択肢もない。


 フィーネは歯を食いしばり、自分の身体を叱咤する。もう少し、あと少しだけ持ってくれ――そう願いながら一歩ずつ前に進んだ。


 だがその時、背後から足音が近づいてくるのが聞こえた。


「フィーネ!」


 振り向くと、そこには息を切らしたアイリの姿があった。


「アイリさん!? なんで……!?」


 驚きのあまりフィーネは言葉を失った。アイリは息を整えながら、少し怒ったような表情でフィーネを見つめている。


「出ていってから少し歩いてる姿を見てたけど、歩く速度がどんどん遅くなってるし体調も目に見えて悪化してる、そんなのじゃ絶対に倒れるよ! やっぱり放っておけるわけない! 何があったのか、ちゃんと話して!」

「……それは……」


 フィーネは視線をそらし、言葉を濁した。どう説明すればいいのか、いや、そもそも説明すべきなのか――頭の中が混乱する。


「答えないなら、ついていくからね! こんな夜中に一人でふらふら歩くなんて危ないし、私はあなたを一人にしない!」


 アイリの言葉には強い決意が込められていた。フィーネはそのまっすぐな目を見て、断りきれなくなる。


「……わかりました。でも、あまり深く聞かないでください」

「……約束する。でも危険なことがあったら、必ず教えてね」


 フィーネは小さく頷き、歩き出した。アイリはその後ろにぴったりとついてくる。


 街灯の明かりが時折照らす中、フィーネは自分の異変がさらに悪化していることを感じていた。体は重くなり、腕や足は動きが鈍い。歩くたびに内部から不快な音が響いてくる。


「フィーネ、本当に大丈夫なの?」


 アイリの心配そうな声が耳に届く。だがフィーネは答えず、ただ前を見据えた。老人の家まで、あと少し――そう思いながら必死に歩みを進める。


 しかし、ふと足元がふらつき、フィーネはバランスを崩して倒れそうになった。


「フィーネ!」


 アイリがとっさに駆け寄り、その体を支えた。


「やっぱり無理してるじゃない! もうこれ以上歩くのは無理だよ! とりあえず休もう!」

「だめです……休んでる時間なんて、ないんです……!」


 フィーネは弱々しい声でそう答えたが、アイリは首を振った。


「じゃあ、教えて。何があったの? どうしてこんなに無理してるの? 全部、何もかもが話せないことなの?」


 フィーネは歯を食いしばり、答えようか迷った。けれど、体の限界が近いことを理解していた。何より、ここで倒れてしまえばアイリを巻き込む結果になってしまう。


 フィーネが言葉を発しようとした瞬間、突然背後から静かな声が響いた。


「その子を、私に任せてもらえないかの?」


 振り返ると、街灯の薄暗い明かりの中に老人の姿が現れていた。深いしわの刻まれた顔、ボサボサの白髪が夜の影に紛れるように漂っている。目にはゴーグルを、手には古びた本を携え、その表紙が微かに光を放っていた。


「誰……ですか?」


 アイリが眉をひそめながら問いかける。老人は軽く頭を下げてからゆっくりと近づいてきた。


「私はただの老人じゃよ。この子……フィーネの世話をしている者じゃ」

「あなたが……?」


 アイリの視線が鋭くなる。


 フィーネは目を伏せ、老人の登場に安堵した様子を見せつつも、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。


「フィーネはこんな状態なのに、どうして一人で外に出したんですか? 朝からこの子はずっと一人で……!」


 アイリの声には怒りが滲んでいる。


「そう責めないでほしいのう。事情があってな……」


 老人は口元を僅かに歪めると、フィーネに近づき、その肩に手を置いた。本の光が強まり、フィーネの体が一瞬だけ緩むのが見えた。


「だが、それ以上に、お主に会えたのは運命じゃろう。……お主の名前は?」


 老人はアイリに目を向けて尋ねた。


「……アイリス・ヴェロニカです。それが、何か?」


 その名前を聞いた瞬間、老人の目が一瞬だけ驚きに見開かれる。しかし、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「ヴェロニカ、か……懐かしい名前だ」

「どうして……その名前を知っているんですか?」


 アイリの声は緊張を帯びている。老人は静かに本を開きながら答えた。


「お主の父、アレクシス・ヴェロニカはかつての友人じゃ。いや……戦友と言ったほうが正確かもしれないの」

「お父様の……戦友?」


 アイリの目が驚きで大きく開かれる。


「そうだとも。共に戦い、多くの血と汗を分かち合った仲じゃ」


 老人は穏やかに語るが、その声にはどこか懐かしさと悲しみが混じっていた。


「なら、なおさら聞きたいです。どうしてこんな状態のフィーネを一人で放り出したんですか? しかも、文字すらちゃんと教えていないなんて!」


 アイリの非難に、老人は苦笑を浮かべる。


「少し違うな。私はあえてそうしたのじゃよ。フィーネには、自分で乗り越えなければならないことがある。甘やかしては、成長を阻んでしまうからな」

「そんなの言い訳です! 本当に大事なら、もっと支えてあげるべきじゃないですか?」


 アイリの声は怒りで震えている。


「そうじゃな……お主の言うことにも一理ある。じゃが、これは私のやり方じゃ。どうしても納得がいかないなら、アレクシスにでも文句を言うといい」


 老人はそう言って微かに笑みを浮かべたが、次の瞬間、本を軽くかざした。


「さて、話はここまでじゃ。フィーネ、帰るぞ」

「えっ……?」


 フィーネが戸惑う間もなく、老人は本の中から光を放ち、二人を包み込んだ。


「待って! 話はまだ――」


 アイリが手を伸ばそうとした瞬間、フィーネと老人の姿がかき消されるように消えた。風だけがその場に残り、夜の静けさが再び訪れる。


 アイリはしばらくその場に立ち尽くし、拳を強く握りしめた。悔しさと疑問が胸に渦巻いていた。


「……お父様に……詳しく聞かないと」


 小さく呟いたその声は、夜風に消えていった。


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