第3話 パーソナリティ障害と社会的な偏見
「パーソナリティ障害」という言葉を初めて聞いたとき、私はどこかで「それは自分とは関係ないものだ」と感じていました。障害と聞くと、何か特別な、あるいは極端な状態をイメージしてしまうからです。けれど、自分の心の中の「生きづらさ」や「違和感」を振り返るうちに、この障害が自分の現実と深く結びついていることに気づきました。
しかし、現実には「パーソナリティ障害」という言葉は誤解されやすく、偏見の対象にもなりがちです。
「性格が悪いだけじゃないの?」
「甘えているんじゃない?」
そんな言葉が、実際に投げかけられることも少なくありません。
こうした偏見は、障害の本質を理解する機会が少ないことから生まれているのだと思います。パーソナリティ障害は、「個性」が社会生活や人間関係に大きな困難をもたらすほどに極端化した状態のことです。決して単なる性格の問題ではなく、その背景には過去のトラウマや遺伝的な要因、環境的な影響が絡み合っています。
例えば、境界性パーソナリティ障害を抱える人の感情の揺れは、本人にとっても制御が難しいものです。しかし、それを「ただの気分屋」として片付けられることが多い。同じように、自己愛性パーソナリティ障害を抱える人は「自分勝手だ」と見られがちですが、その裏には深い孤独や自尊心の脆さが隠れていることが少なくありません。
社会の中で、これらの特徴が表れるたびに、偏見や誤解によってさらに苦しみが増幅される。これが、パーソナリティ障害を抱える人が感じる二重の生きづらさです。
では、どうすればこの偏見を解消できるのでしょうか?
その答えの一つは、正しい知識を広めることだと私は考えます。たとえ完全に理解することは難しくても、「そういう特徴を持つ人がいる」ということを知るだけで、社会の受け止め方は変わるはずです。知らないことは恐れに繋がり、恐れは排除の感情を生みます。逆に、知ることが偏見を取り除き、理解の入り口になるのです。
パーソナリティ障害という言葉には、確かに「障害」という重い響きがあります。でも、その言葉に隠された人々の苦しみや努力、そして可能性にも目を向けてほしい。それは、私たちが社会の中で孤独とどう向き合うかを問い直すきっかけになるはずです。
次回は、パーソナリティ障害と「孤独感」がどのように結びついているのか、私自身の体験を交えながら考えてみたいと思います。
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