第2話 - 脱出作戦
㊤:シェシュナディア
目を開くと鼻の奥でツンと嫌なにおいがした。焦げ臭いような、甘ったるいような。喉の裏側に奇妙な味も感じた。全身がむず痒く、痛みを発しない棘が無数に刺さっているかのような感じだった。
懐かしい感じがした。外骨格労働で何度か腕や指をやったが、その度に損傷部位を培養して接合した。赤色矮星の周回軌道でスクラップ回収をしていた際、頭部シールドに超高速のデブリが衝突して――ああ! 思い出すだけでぞくっとする。あのときが一番大変だった。頭蓋骨の複雑骨折に、放射線白内障と網膜症、それから癌にもなった。サヴリタールΣの医療環境は最低だった。癌治療と、脳細胞再建術用のナノマシンを一パック施したというだけで法外な医療費を請求され、しかも保険会社は補償外星域だからと助けてくれなかった。なんとか家財をなげうって払いきった後、レストアーテ
そのとき、不意にイメージが合致した。この香りは医療気体のそれで、喉の裏側を通る味は、脳細胞再建ナノマシンが役目を終えて、死滅したその味だった。
「ああ、よかった」
おれが覚醒を自覚したのと同時に、落ち着いた声がした。
その声が何を望んでいるのかはわかっていた。おれがパチッと目を開けて、「ここは?」と唸り気味に訊くのだ。声は言う、「ここは病院です。あなたは××日眠っていたんです」おれは経過した日数に驚きながら、しかし生き残っていることにじんわりと喜びを覚え始めて……。
「ご自分のことがわかりますか?」
はっと目を開ける。自分で考えた夢の世界に吞まれかけていたのだ。
声と共に、医療ポッドの蓋がその側面に巻き取られていった。同時に軽い陰圧が解けて、皮膚の表面に熱い血潮を感じた。おれは立ち上がろうとして、この懐かしい重力環境からどれだけの間離れていたのか思い知らされた。筋栄養剤や骨強化剤まで投与されたのかはわからなかったので、おれは慎重に上体を起こした。全身の皮膚がぴりぴりと痺れていてくすぐったい。
「ご自分の名前を言えますか?」声は言った。
「シロー・サリバ・スローク」おれは答えた。「たぶんまだ、半分は」
そこは一般的な
いや――そうか、おれは助かったのか。
やっとその事実が胸に滲みこんできて、なんとも言えない感情が湧いた。奇跡というほかない。
「動けますか?」
おれは頷いた。ポッドから脚を出して、冷たい床に裸足をつける。裸かと思ったが、灰色のライフスーツに覆われていた。ライフスーツ――。そのとき、おれは得体のしれない不安感に襲われる。胸のあたりを掻いて、おれはその喪失感に触れた。がつんと頭が殴られたような感じがした。
「あなたのご友人でしたら、ここに」
少女は白い六角柱の不揮発性メモリを、その両掌でうやうやしく掲げていた。
そのときようやく――彼女と視線を交わした。
ポッドの傍に座っていたのは、霞のように薄く白い肌をした少女だった。癖のない銀色の髪は『宇宙長髪』式にまとめられていて、無重力環境下で悪戯をしないよう、いくつかの髪留めで徹底的に押さえつけられている。顔の向かって左半分は毛髪のベールに覆い隠されていて、右側もほんの少しだけしか覗いていない。なかなか見かけることのできない、ほとんど透明にも思えるグリーンの瞳は、多面体のような反射を見せていた。それが技巧的なものでないという保証は一切ないにも関わらず、おれは彼女のやまぶき色の眼光が生来の代物であることをなんとなく直感した。
おれは軽く立ち上がると、おそるおそる指を伸ばし、なんの要求も条件も言われないうちにさっと取り去った。そしてライフスーツ唯一のポケットである胸元のジッパーに隠す。
「それで……」おれは絞り出すように言った。まだ喉が万全じゃない。「誰にカネを払えばいい? それとも奉仕労働か? 外骨格なら、一通り動かせるが」
彼女は一瞬、何かを言いかかったが――首を縦に振って打ち消したようだった。「お気遣いありがとうございます。でも、それは不要ですわ。もしも返礼の気持ちがあるのでしたら、それはわたくしではなく、星々の巡り合わせへと向けていただければ幸いです」
「星々の……」
おれはまごついた。
それがどんな表情だったのかわからないが、彼女ははにかみながら慈悲を垂れてくれた。
「この広い世界でわたくしとあなたが出会い、言葉を交わし合った。とても素敵なことだとは思いませんか?」
「たしかに」
待て、本当にそうか? うーん、若干意識が朦朧としてて。
でも、彼女がおれに対して欺瞞を働くなんてことは、鳩が豆鉄砲を実際に食らうよりもありえないと、おれは素直に思えた。ただ致命的に……クサい。でもまあ、彼女くらいの年齢なら、仕方のないことだ。
少女はおれに向かって手を差し出した。一瞬、意味がわからなかったが、立ち上がらせてほしいという意思表示だと気づき、なんでおれがと思わなくもなかったが、まあ、外骨格で汗水流して働くよりかはずっと簡単なお返しだと思って、彼女を椅子から立ち上がらせた。彼女のスカートの中で、キンと金属の擦れるような音がした。
「シェシュナディヤと申します」彼女は言った。「舌がもつれそうでしたら、お好きなふうに呼んでください」
「シュシュ、ス、チュ、なるほど。そうさせてもらう」断じて滑舌が悪いのではなく、寝起きで舌が回らないだけだ。おれは思考を巡らせた。「シュナと呼ばせてもらうよ」
「この出会いが互いの祝福となりますように。シローさん」
彼女は目を細めて微笑んだ。というよりも、彼女の眼は常に微笑むように細められているのだが、今では薄桃色頬が下の目蓋を押し上げて、彼女の微笑みに快の感情を付け加えていたのだ。それは非常にわかりやすい無邪気さの表れに思えた。
シュナはおれの手を取ったまま、ゆっくりと歩きはじめた。背後から見ると、彼女は長い後ろ髪を二つに分けているのがわかった。そして、それぞれを三つ編みにして、さらに中ほどで一本の編み髪にしているのだ。相当の手間がかかるヘアセットである。スタイリストを雇っているのは間違いない――ということはカネ持ちだ。もしかすると、この船自体が彼女の持ち物かもしれない。
そりゃあいい。いや、実際すばらしくいい。
「ところで、この貿易船はどこへ向かう途中なんだ?」おれはかまをかけてみた。
彼女はドアの前で軽く振り返り、
「いえ――ここは貿易船ではありません」
おれがさらなる言葉を継ぐ前に、シュウッと音が鳴ってドアが左右に開く。
「ここは海賊船です」
ドアの向こうには、二メートル近い屈強な男が待ち構えていた。
「くそ」おれは呟いた。
男はじろりとおれの姿を見つめ、それから「お姫様よオ、これでこっちの約束は守ったわけだ」戸枠に腕をついて身を乗り出してきた。その頭部は半機械化されていて、赤く光るスコープ型の眼がしきりにピントを変えていた。「今度はそっちが約束を守る番だな」
おれは一歩前に出て、シュナと男の間に入った。「すまないが、すこし――」
「出しゃばるな、気狂い」男はそう言っておれの肩を横へ叩いた。
轢かれたような感じで、一瞬意識が飛んだ。壁にぶつかって我に返り、肩甲骨が背骨にめり込んだような痛みが神経を駆けのぼってきた。
おれは涙をこらえながら、二人のもとによろよろと踏み込む。あまりにも無礼な態度だが許してやろう。海賊だろうが、助けてくれたのは間違いない。
おれの姿を認めて海賊の男は再び腕を振りかぶったが、ふとシュナの方へ顔を向け、ちっと舌を鳴らした。「態度には気を付けろよ。おまえが生きてられるのは、この小っこいお姫様のおかげなんだからな。そうでなかったら今ごろめった刺しにして
「ふたりの慈悲には感謝してるよ」おれは身体の震えを抑えながら言った。「でも、聞き捨てならないことはある。おれに関して何か約束があったなら、おれには聞く権利が……」
「おまえの命と引き換えに、宝物の場所を教えてもらうのさ。これで満足か? 満足だったら、とっとと失せやがれ」
男はおれの首根っこを掴むと、そのまま廊下側に放り投げた。「ううっ⁉」壁に強く打ち付けて、今度こそうずくまる。そこにはすでに、服も装備も種族さえもばらばらな船員が待機していた。「――やめろ、離しやがれ!」
おれの抵抗は、やりながら自分でも笑ってしまいそうなくらい弱弱しかった。笑わないでいられたのは殴られたり蹴られたりしていたからだ。気力を失ったおれが抵抗を諦めると、海賊たちはしっかりとおれの分まで笑った。
医務室から出てきたシュナが、髪に隠れている方の顔でおれを見た。ほんの僅かな隙間から緑色の光が反射したが、その表情をうかがい知ることまではできない。
大男はシュナの背に手を回し、廊下の反対側へと歩き去っていった。どんどん、遠ざかっていく。
おれは叫びそうになったが、実はそんな気力も無かった。
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