GOLD SPICE!!

うやまゆう

第1章:フリックした男

プロローグ- フリックした男

Ⅰ:シロー

 あるいは。

 というよりも、可能性の面で言えば、まったくの皆無なのではあるが。

 それにしても、いや、あるいは。

 に起こった何もかもが、伝説の薄暮星はくぼせいに魅入られた者が見るという、狂気に満ちた白昼夢に過ぎなければ。

 ももに触れるススキの穂のくすぐったさや、山から吹き降ろす頼もしい追い風が。稜線へ暮れかかった赤銅の盾と、おれのいくぶん先を走る少女のおぼろげな横顔こそが、まぎれもない現在いまであることに、なんの偽りも無いだろう。棒っ切れのように細い脚を動かして、小さな心臓を弾ませながら、暮れなずむ喜びの色が永遠を与えてくれると疑いもせず、あの模型が木べらのような翼で空を乗りこなし、落ちていくその先へ、いつまでも駆けつづけ――。

 不意に、振り返る。ログハウスの四角い煙突からはうっすらと炊煙が立ち上って、濃紺に染まりつつある空の中、小さな一等星へと吸い込まれてゆく。

 どろどろと地面が揺れ出す。いや、世界が揺れて、逆さまになるのだ。

 宇宙に穴が開くのだ。そしてこの星で二度と闇は啓かない。

 巨大なビル群にも似た光の群れが、山の向こうから夜を連れてやって来る。雷雲が、嵐が、力が彼らに服従し、痛苦に猛り悶えている。

 誰かが呼んでいる。誰の声だろう?

 おれは目を覚ました。

 大きく咳き込みながら慌てて息を吸い込み、肺に溜まった濃厚な二酸化炭素を咳き込みながら吐き出す。

 死ぬッ、死ぬッ、死ぬッ。このクソ狭ッ苦しいトンチキなヘルメット!

 これを脱ごうと暴れるが、どうしても開かない。だが、口元からシューッと優しい音が聞こえて来て、徐々に気分が安らいできた。走り回った犬のように荒かった呼吸が、くたびれた犬くらいには落ち着いてくると、だんだん意識も明晰になってきて――、脳の奥でばらばらになっていた人格の欠片が、もう二度と届かなくなる寸前で拾い上げられて再統合されていくのを、まるで関係のない第三者のような感覚で見守っている自分に気づいた。そして、おぼろげながら、ある数字が見えてきた。

 〇・〇六。

 ああ、ヘルメットを手動で開けないようにしたのは自分だ。

 一分につき〇・〇六リットル。それがさきほどまでのおれに許されていた酸素量。それはだいたい、脳の必要最低限の酸素量をわずかに上回る程度で――つまりぜんぜん足りていない……肉体は脳以外でも構成されているからだ。今も頭痛は止まらないし、全身がピリピリするし、胸の奥が痛みで疼いている。

 だが、仮死プログラムを実行していなければ、とっくに死んでいたはずだ。おれの呼吸色素は普通のヘモグロビンだ。酸素分圧が低い状況下では酸素親和性が低下し、酸素を吸収するよりも放出する方に能力が働く――普段は血中で組織に向けて起こるそれが肺の中で起こるということは、まともに酸素を吸収できず、むしろ吐き出してしまうということだ。しかし、麻酔と2,3-ジホスホグリセリン酸、および勤勉なナノマシン・システムがおれを保守してくれていた。

 主機が撃ち抜かれた小型船で宇宙を漂流するというのは、こういうことだ。いつ来るかもわからない助けを、目減りしていく資源を限界までやりくりしながら、ただ待ち続ける。それ以外にできることは何もない。

 漂流。

 また一つ、いやなことを思い出した。おれは漂流している。周辺に一切何も無い、虚無空間を。

 不快感で汗が噴き出す。ため息とともに、妙に滲んでくる唾を呑み込む。眩暈と吐き気がおさまらない。だが、吞み込む。よし、ゲロらなかった。すごいぞ。

 ちらりと部屋の隅に眼を遣った。普段はおれのサポートをしてくれている、小型作業ロボットの『でんたく』が、物静かに座っているのが見える。その蜘蛛足を丸めて、バケツのような胴にあるカメラ眼は虚ろに見開いている。背中のカバーは取り外されていて、内部バッテリーがあるべき場所は空だった。おれはぞっとして、自分の胸元の収容ボックスに触れる。ケースハンドルを回して中身を開け、そこに親指ほどの大きさをした鞘があるのを確認した。大丈夫、でんたくはまだ生きている。おれが生きている限り、こいつもまだ生き返る可能性があるのだ。お互い、半分死んでいるようなものだが。

 希望はある。

 何もかもがギリギリの中、今おれがタンクに貯めておいた混合ガスを肺いっぱいに吸い込めたのは、まさしく船が通信波をキャッチしたからに他ならなかった。その状況でだけ、麻酔作用のあるキセノンガスの再利用経路は遮断され、宇宙服EVAスーツの蘇生機能は一瞬だけ動作し、酸素供給量は段階的に120%までになるよう、設定した。たぶん。記憶違いでなければ。

 非常灯のオレンジ色だけがじんわりと手元の制御盤を照らしていた。物理キーを苛立ち紛れに叩いてやると、船の透明外殻部と操舵室を隔てている遮蔽帯が、のろのろと巻き上がっていく。センサ類を使わないのは、くだらない感傷が半分、もう半分は節電意識だ。救助艇が近づいてきているのだとすれば、無駄なことに電力を使う理由はなにもない。

 遮蔽帯が完全に巻き取られると、その世界の毒々しい光がうっすらと操縦室へ差し込んできた。覚える価値も無いほどだらだらと長い名称の星雲や銀河が、極彩色の塊や渦になって、あたかも完全に静止しているかのように浮かんでいる。

 おれはEVAスーツごしに二の腕をさすりながら、電波通信の受信回路をスピーカーに通し、立った襟元から流れて来るホワイトノイズに耳を傾けた。

 ザー……。

 ぎゅるると胃が鳴って、胃液のような熱いものを体内でじんわりと感じる。腹が減った。しばらくに滞在する予定だったから、糧食はほとんど積んでいなかった。こんなことになるとわかっていれば――。無駄な考えで頭がいっぱいになっていく。まあ、元気な証拠だ……。

 モニターに表示されているログによれば、アンテナは発信源を特定できなかったものの、その移動方向と存在領域を特定したということになっている。おれは不安に思いながらも、マニュアル操作でダイヤルを回して補正をかけていく。補正というか、単なる当てずっぽうというか、いわば神秘なる人間の勘というやつで。

 少なくとも目には見えない。それに、広域通信波も無い……。何か妙だ。普通、救難信号をキャッチしたなら、広域通信を送って安否確認を入れるのがルールのはず。

 もしかして……いや、考えたくはないが……、ただの天文現象を拾ったんじゃ……。

(――まずい。思ったより酸素が少ないぞ)

 EVAスーツの胸部、本来なら酸素パックが一個で七日分の生命を提供してくれるはずの窪みから二本のチューブが伸びて、モニターつきのガスタンクに繋がっているのだ。一方のチューブからはキセノンが、もう一方からは呼吸ガスが流れてくるようになっている。そしてタンクのモニターは、酸素残量が危機的レベルにあるからはやく補給した方が身のためですよ、馬鹿じゃないだろうからとっくにわかっているとは思いますけど、人間は酸素が無いと死にますよ、と親切に教えてくれていた。

 酸素、酸素、酸素。残念だが、もう余剰分は無い。

 気分を落ち着けるという、ただそれだけのために、おれは馬鹿げたほどたっぷりと深呼吸をした。機械が困ることをやってやろうとすると、大抵いつも困るのはおれの方だとわかっていても、つい反抗をやめられない。

 時計の針がゼロに向かってまた一段落ちたのを断固無視しながら、おれはぼんやりと宇宙を見つめる。かつてはおもちゃ箱のようにも見えたそれが、なぜここまで冷酷な暗幕に見えるのか。

 少なくとも苦しむことはない。眠ってさえいれば。

 今さらのように、頭の中をさまざまな思考が駆け巡っていた。怒り、悲しみ、楽観、絶望のスープが煮え立っている。だが、不思議なほど体には出ない。息も上がらず、涙も出ない。自分が何を感じているのかわからないほどだった。だが、頭の中に映像として想起されるのは、どうしようもなく未練がましいことばかりだった。馬鹿野郎、だったらなぜやっておかなかった? ――なんという後知恵。

 今までの人生で知り合ってきた友人たちが、今も生きて、どこかで何かをしているのだという事実。何度となく乗り越えてきた危険と、その度にでんたくと分かち合った喜び――今回も乗り越えられるのではないかという望み。それに、訓練学校で聞いた、"ゴールドスパイス"の伝説。あらゆる船に無限の活力を与え、そして宇宙の秘密へと至らしめるという、あの浪漫溢れる秘宝の逸話が、なぜだかやり残したことのようにも感じてしまう。偉大なことは何も為していない。まだなにも始まっていない。

 発作的に胸を貫き、瞬く間に限界まで上昇した後悔は、それ以上先へは進めずに落下し出した。始まった地点を通り過ぎて今度は背中を破り、本当は考えたくもないような卑猥なことや暴力的なことで頭の中はいっぱいになってくる。なんだか疲れてきた。

 ボタンの上に指を置く。ほんの一グラムも力をかけずに、陶酔の中へ帰ることができる。夢や希望もその中には山ほどあるのだ。なんの未練も感じずにいられるのなら。

 ほんの一グラムで……。

〔――しろ……――……このまま――……〕

「こちらデカン号」おれは目をかっぴらいて集音器に大口を開けた。放り出されたタンクは無重力を漂う。「こちらデカン号、船長のシロー・サリバ・スローク。応答せよ。こちらデカン号、船長の……」

〔――〈ザザ――〉……罠を……――〕

 おれは口を閉ざした。チューブがぴんと張り詰める前に、タンクを手繰り寄せる。

〔殺す――〈ザザ――〉……〕

 デカン号へ向けられた通信ではない。

 付近を通っている船舶同士の通信を、偶然に傍受しているようだった。暗号化されていない光通信。傍受不可能な通信形態でないということは、彼らは今しがた航路生成器スターライナーの作った超空間の窓から飛び出してきたところなのだろう。

 こんな辺境に、救助目的でもなく現れた二隻の船。

 その上、『罠』も『殺す』も、こういうときに聞こえてきて嬉しい言葉ではなかった。

〔〈ザザ……〉〕

〔グラフ……時代に……〈ザザー〉……建設した記録が……〕

〔〈ザザザ……〉〕

〔いまさら……〈ザザ――〉それより、古代航路エルデンラインの……〈ザザ……〉〕

〔〈ザ――〉〕

 おれは思考を巡らせる。聞こえてきた単語から、筋の通った一つのストーリーを作り出すのは難しいことではない。想像力豊かな旅人はみな、パブで隣の席から漏れ聞こえてきたひそひそ話を頼りに、数キロメートル先の自販機の下に落ちている小銭を拾うことができなくてはならないのだ。そうでなくては、誰が彼のために一杯のジムピラミスを奢ってくれるというのか。

 どうもこのあたりには、大昔に造られた規格外の航路、古代航路エルデンラインが通っている。確かに、ありえなくもないロケーションだった。

 古代航路に用がある人間は少ない。考古学者でもなければ、たとえば密輸、不法侵入、公的機関による認証の回避、逃亡、エトセトラ……。

 要するに、犯罪者。

 訪れたのは、考え得る中でも一番通りがかってほしくなかったやつらだ。

 だがもう、こちらとしても猶予はない。酸素は後三分も保たないだろう。犯罪者だろうが罠使いの殺人鬼だろうが、今は救いの神だ。おれは改めて救難信号を送信した。

「…………」

 ビープ音は虚しく響いた。

 無視されている。

 まあ!

 当然っちゃ当然か‼ 犯罪者だもんな!

 その後も手を変え品を変え、「美味しい話があるんだ」「よかったら手を組まないか」「分け前は折半でいい」「わかった、八割くれてやる!」「お前の船は緑色の糞を垂れ流してるぞ」「頼む、頼むから!」と連打してみるも、なんの反応も無い。通常回線でも音沙汰なしだ。

 二隻はデカン号に気づいた素振りすら見せず、悠々とこの宙域を去りつつあった。モニターに映る白い点が物凄い勢いで画面外に出ていこうとするのを見つめながら、おれはなんとかアイデアをひねり出す。

 アイデアを……。

 ひねり……。

 パネルを操作する。テキストだけの簡素な表示の中から、おれは「火器管制」を起動状態にした。ずん、と船が揺れたような感覚と共に、モニタ上に照準が現れる。使用可能な射出体が、船のイメージ図上で黄色く光って表示されている。

 〈破砕槌〉は――、絶対に届かないし、仮に当たったとしても腹癒せにすらならない。やはり、方法はしかない。おれは、航路生成器スターライナー――すなわち、超空間生成装置の射線を、離れていく二隻へ合わせた。このままやつらの所まで跳躍し、ヒッチハイクするのだ。船のメイン推進器スラスターは五%ほどの出力しか維持できないが、ハッチアウト地点を上手く選べば、何秒間かは安全な相対速度を維持できるだろう。

 続いてドップラーレーダーを起動。移動する物体を正確に補足するその装置が、ミリメートル単位でデータを入力していくのを見守る。そこから相手方の進路を予測し、邪魔しない程度の位置につける算段を立てれば――

「うっ……」

 思わず声が出てしまう。

 中途半端な所でシステムが固まってしまった。いつもこうだ。眉間からレーザーが出るくらい集中してると、システムは固まってしまう。たぶん、人間は妨害電波を出せるんだ。

 調べてみると、どうも電力供給があまりにも不安定なせいで、モジュール同士の連係に、ソフトウェアでは修正しきれないズレが発生しているらしい。規格に合わないケーブルをいくつも連結させて電圧を変えていたことが何か悪さをしているようだ。ああ、もうだめだ。緑色の数字が音も残像も無く消え去った。

 まずい。非常に。

 どうしたらいいんだろう。

 今からバッテリーアレイの配線を組み替える時間は無い。これで船も動かせなくなってしまったわけだ。

 だが、うだうだ考えていてもしょうがない。椅子に座ったまま死ぬくらいなら、もっと危険なことでもやってやろうじゃないか。

 おれはEVAスーツのガスパックに残りの呼吸ガスを詰め込むと、タンクとの連結を解除し、勢いをつけて立ち上がる。そのまま椅子の背を蹴って飛び、ふわりと空中を直進して、壁際で姿勢を直した。オレンジの警告灯が照らす暗闇で、宇宙そとへ続く十字ハンドルが物言わずに見つめ返してくる。息を軽く吐き、おれはハンドルを握った。

 全長五メートルもない小型船についている緊急脱出用ハッチであるため、当然気閘エアロックなんて気の利いたものはついていない。ある程度ハンドルを回すと、船内を満たしていたヘリウムに押されて扉が勢いよく開き、とてつもない風を生み出した。おれは吹き飛ばされそうになりながらハッチの戸枠を掴み――背後で何か動いた気がする――逆上がりの要領で船の上部に回りこむ。

 部屋の隅に浮かんでいた『でんたく』の小さな体が、すごい勢いで宇宙空間に吐き出されていった。危なかった――背骨が折れるところだ。見ているうちに、それはみるみる遠くなってゆく。おれは再び、胸の収納ボックスに手を当てた。大丈夫、あれはただの端末に過ぎない。

 その間にも、頭部シールドの内面には、久しく見ていなかった色とりどりのデータフローが来ては去っていた。一番重要なのは、右下にある真っ赤な時刻表示である。00:58。一秒につき一ずつ減っていくその数字こそ、おれが問題なく呼吸を続けられる最低ラインだ。ちょっと見ない間に、すでに一分を切っている。今以上に焦りたくはなかったが、緊急表示は消したいからといってすぐに消せるようなものじゃない。はっきり言ってありがた迷惑だけど。

 船の背を上る。巨大な豆電球のようなものが、船体に空いた穴から飛び出していた。やや楕円形である航路生成器スターライナーと、それを爪で掴む支持台である。

 おれはスーツの推進器スラスターを駆使して支持台を掴むと、根元付近の制御パネルを開いた。黒い蓋の中からマニュアルボードがぷらんと宇宙空間に漂い、ずらりと並んだ白い入力キーが露わになる。

 残り45秒。あ、興奮したら42秒になっちゃった。

 40秒。ちょっと待て、落ち着け。

 ふーっ……。

 肺の中に入っている分を吐きだせば再計算が入るはずだ。本当に落ち着け。

「やってやれないことはない」おれは呟きながら、手動でぽちぽちデータを入力していく。距離は約六百万クリック。角度は……たしか……最後に見えた数字はこんな感じだったはず……たぶん。気を揉んでも仕方がない。一度違うだけで一万クリックずれるなんてこと考えるな。

 まずは彼らの近くに出ることだ。民生用の航路生成器スターライナーが近くに現れたら、流石に無視できないはず。そこで何か、スルーしづらいような通信でも送ればいい。まだ何も思いついていないが、そこはアドリブだ。

 宇宙はあまりにも静かで、おれの焦燥や不安は、厚さ一センチもない樹脂フィルムの内側に閉じ込められていた。

 呼吸を意識して小さくしながら、パネルの決定キーを叩く。航路生成器スターライナーの後部推進器に火が入り、青く光りはじめ、支持台の爪が、本体を押し出すようにしながらゆっくりと剥がれていく。長軸一メートル、やや楕円形をした航路生成器スターライナーの運搬用の大きな窪みに滑り込む。重機が掴むための把手に腰ベルトの命綱を巻きつけて、両腕できつく抱きしめた。

 その時、全身の骨が軋むような加速度が襲った。頭部シールドは『危険‼ 62キログラムの軽減不可加重』と表示して不安を煽る。緊張するが、久しぶりに増えていく数字が見れてなんだか安心した――これこそ生きてるって感じじゃないか。

 しばらくして質性修正機インハビターが起動し、軽減不可加重は123キログラムを頂点にして、一気に10キロ台にまで落ちていった。空間の粘性がゆるみ、機体はその質量の制約から解き放たれ、とてつもない加速力で推進する。

 星の海は凪いで動きもしないが、デカン号はどんどん遠ざかっていく。その鏃型が暗闇に溶けて――消える。

 残り30秒。

 航路生成器スターライナーが超空間ゲートを展開した。人間の目には、それは光の幕に見える。とっくにしておけという話だが、今さら心の準備をさせてくれるわけもなく、航路生成器スターライナーは問答無用で幕に突っ込んでいった。

「うううっ……‼」

 身体がいくつかの影にずれるような違和感。

 おれは本能的に、空気をできるだけ肺に留めようとしながらも、その不快さに動揺せざるを得なかった。フリック空間――まだ航路化されていない超空間はなんとも言い難い不快な感覚を催す。宇宙の色はすでに消え去っていた。極彩色の渦巻きで満たされた管を、航路生成器スターライナーは音も無く滑るようにすっ飛んで行く。

 超空間の壁が塊になって滲み出し、触手のような構造物が生えはじめた。まるで生き物がにおいで餌を探すかのごとく、ふらふらと先端を揺らしながらも、超空間を掘り進める航路生成器スターライナーを猛スピードで追ってくる。

 あわやその触手に掴まれそうになったその時、航路生成器スターライナーは超空間を脱出した。

 ほんの数秒で、航行単位を跳躍したのだ。人間の脚では一生をかけても、その一歩目を踏むことすらできないような単位を。

 黒い海に星の散りばめられた見慣れた世界。おれはぐるぐると首を動かして船影を探す。どこにも船は無い。ちくしょう、てんで的外れじゃないか。どこだ、どこだ――。

 どこにも見えない。星と区別できない。

 後20秒。

 自分の荒くなった息だけが聞こえている。

 頭の中で計算が始まる。まだだ。まだ諦める必要はない。デカン号から海賊船までのは正確なのだ。それに、はっきり言っておれはちゃんと数字を入力した。ヘリウム放出での回転を考えても、100単位以上ずれているとはどうしても思えない。

 そのとき、ピンときた。犯罪者の光通信は二者間の対話だったが、常に片方の通信内容だけ異常に聞き取りにくかった。すなわち、その指向性の送信機がデカン号の反対側を向いていたんじゃないのか。二隻は併行して進んでいた――だとすれば、その移動方向はデカン号に対して垂直になっている。

 航路生成器スターライナーが記録しているデカン号の位置を確認する。自分が頂角30度以内のどこかにいると仮定すると、やや顎を下げたあたりの水平線上に、確実に船が存在しているはずだ。おれは改めて気持ちを落ち着け、必ずそこに見つけられるはずだという意思を持って星海を見回した。何度も、何度も。必ずそこにあるのだ。

 そして、航路生成器スターライナーの体を乗り越えかかったとき、視界の遥か彼方で、星輪機関の放つ青いエンジンの瞬きが見えた。

 気がした。

 今見えた、と思う大きさは、たぶん針先よりも小さい。だが、見えた、としよう。つまるところ遠ざかっているのだ。光源は二メートルそこそこだろうが、反射素材の船体が二十メートル級と見積もると、偏差は20万クリックってところか⁉ だが、小型船だとすればもっと距離は――。

 残り――9秒。8。

 おれはパネルをぶっ叩きそうになって、もう一度思案する。ここで自棄やけになったらだめだ。ここからが我慢のしどころだ! 20万クリックの偏差は一旦事実としよう。しかしやつらは急いで移動している犯罪者だ、安全速度を守っているはずがない。となると12万クリック毎時に近い速度をすでに出してるかもしれない。航路生成器スターライナーの推進力はその半分以下だから通常空間でチェイスになれば追いつくまでに長い時間がかかる。偏差を帳消しにするだけではだめなのだ。

 やつらを追い越して――、進行方向を遡上してアプローチする!

 新しい軌道を読み込んだ航路生成器スターライナーはただちに向きを変え、人の気持ちなど知らず無機質に発進した。加速度に耐え、無意識に息を止める。光の幕を通過し、再び不安定な超空間に突入した。

 ほんの三秒後――ハッチアウト。吐き気に耐えながら、制御パネルの決定キーを叩く。バーニヤが噴いて、機体は前後を入れ替えようとする。

「――ぐっ……⁉」

 通常空間で反転すると同時に、超高速の塊がどんどん大きくなってくるのが見えた。

 くそ、当たりがた!

 航路生成器スターライナーの緊急回避は間に合わず、秒速30クリック近い速さで擦りあげる。だが、向こうの慣性打消インハビターの性能がすこぶる良かったので、衝突の衝撃は破滅的な事態を引き起こしはしなかった。少なくとも機体同士には。航路生成器スターライナーはその場でスピンし、命綱で結びついたおれは肺の中身を無理やり吐かされてしまう。フェイスシールドの内側に真っ赤なアラートが浮かび上がる。

 もうわけがわからなくなり、事前に考えていた動作を、おれの肉体は自動的に実行し始めた。ゆるませていた最後の固定ボルトを抜いて命綱をスーツから取り外し、腕部の船外作業用ワイヤを射出する。肩の支持機構を介してしっかりと加重を感じてから、反対の手でなんとか巻き取りボタンを押す。

 全身が引き裂かれるような感覚。

「――‼」

 一瞬激しい振動を感じたが、体が粉々になる前に、慣性打消インハビターの保護領域に入ることができた。胸中に歓喜が沸きあがる。おれは船体に張り付き、そして――

 そして――。

 おれは首を振り回したが、磨き上げられた船の外壁のほかには何も見つからなかった。ハンガーの入り口も、船倉のシャッターも見当たらない。乗ってきた航路生成器スターライナーが豆粒のように小さくなり、暗闇に消えていく。

 考えろ。

 考えるんだ‼

 どこかが裂けたのか、血の味が口いっぱいに広がる。意に反して横隔膜が痙攣する。喉が締めつけられ目の奥が痛む。とてつもない光の雨が視界を埋め尽くし、聞いたこともないような激しい金属音がして、思考が消えていく。まだだ。まだだめなんだ――。強烈な快感にも似たものが胃の奥で爆ぜて溶ける。溶けていく。

 まだだ。まだだめなんだ。まだ……。

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