番外編 異世界転移事件の当事者①
その日、一年C組のクラスにはそわそわと落ち着かない気配が漂っていた。
一年C組だけじゃない。学校中に浮かれた空気が蔓延している。
その原因は今日がクリスマスにして、冬期休暇前最後の登校日だからだろう。
明日から冬期休暇に入るという現実が学生のみならず教師すらも高揚させる。
もちろん、
枝に引っかかった風船のように、ひとつ風が吹けば遥かな空に浮かび上がる気持ちで悠誠は午前中最後の授業を受けていた。
──長針があと九十度進めば昼休みに入る。
悠誠はそんなことを考えながら時計を眺めていた。
ふと、悠誠が違和感に気が付く。
数秒前から秒針がぴたりと止まっているのだ。
時計の故障だろうか、と首を捻る。
すると、故障ではないと主張するように秒針が動いた。──ただし、反対方向に。
秒針に続いて長針、短針も反時計回りに回転を始める。
回転速度は徐々に増していき、時計にあるまじき挙動を始める。
「なにが──!?」
さすがにおかしいと感じた悠誠が勢いよく椅子を立つ。
すると、不意に視界が変化して、冷たい空気が肌を撫でた。
「キャア!」
「うわあ!?」
周りからクラスメイトの悲鳴が響く。
見ると、彼らは全員が石造りの床に尻もちをついていた。
どうやら椅子や机が突然消滅し、そうなったようだ。
悠誠も偶然立ち上がっていなければ同じようになっていただろう。
彼は倒れている生徒たちがクラスメイトだと分かると、その中からひとりの少女を探した。
「
「ゆうくん……!」
悠誠はクラスメイトの中から幼馴染である
雨花に手を差し伸べて助け起こす。
雨花が不安そうな顔であたりを見回した。
「ここは……どこ?」
「さあ? 分からない」
雨花に倣って悠誠も辺りを見回した。
見たところ、ここはどこか石造りの建物の中のようだ。
コロッセオのように円形で、中心が窪んだ形をしている。
ただし、客席にあたる部分は一階分しかなく、幅も立ち見するくらいしかない。
そこに黒いローブを被った集団が等間隔で立っている。
客席は三百六十度続いているかに思われるが、実際は三百二十度程度で、残り四十度には小さな塔のようなものが建っている。
顔を上げれば塔の天辺が見える程度の高さである。
塔の天辺はバルコニーのようになっており、落ちないように手すりがついてある。
その手すりの向こう側に煌びやかなドレスを着た五十代くらいの女性が立っていた。
女性は悠誠と目が合うと、にこりと優しく微笑んだ。
「ここがどこかは分からないけど、多分あの人がすぐに話してくれるはずだよ」
悠誠は女性の笑みを見てそう確信すると、雨花に塔の上を見るように促した。
雨花が塔の上を見上げると、丁度女性が一歩前に踏み出したところだった。
女性のよく通る声が建物中に響き渡る。
「異世界の召喚者の皆様、ごきげんよう。私はエルアエル・アルメリア。アルメリア皇国の女王です」
手すりの前に立った女性は自らを端的に紹介した。
短い自己紹介であるが、そのインパクトは絶大だ。
なにせ、異世界やら女王やらと気になる情報がパンパンに詰め込まれていたからだ。
あまりに大きな衝撃を受けて固まる悠誠たちを置き去りに、女王は話を続ける。
「まずは皆様に謝罪を申し上げます。我々の力が未熟なためにこの世界の事情とは無関係な皆様をこうして呼び出してしまったこと、誠に申し訳ない」
女王はそういうと、深々と頭を下げた。
アリーナを囲む一階席にいた黒服の集団が喧騒を立てる。
どうやら女王が軽々に頭を下げたことに狼狽している様子だった。
時間にして五秒。
女王がようやく頭を上げる。
「あの……」
女王が頭を上げたタイミングでひとりの女性が悠誠たちの集団の中から前へ歩み出た。
彼女は新任で社会科の授業を担当している山口先生だ。
数分前まで毅然とした態度で教壇に立っていた彼女が、今は困惑半分、恐怖半分といった様子で生徒たちの前に立つ。
先生が女王を見上げ、震える声を発した。
「あの、私、春月高校一年C組の現代文を担当している山口といいます。あの、これはなにか……ドッキリのようなものでしょうか?」
「どっきり……とはなんでしょう?」
「え!? えっと……人を驚かすためにつく嘘のようなものです」
「そうかです。でしたら答えは否ですね。これは決して夢でも幻でもどっきりでもありません。紛れもない現実です。皆様は元の世界とは別の世界へ呼び出されたのです」
「現実とは別の……異世界……?」
山口先生は女王の話を聞いて余計に混乱した様子で首を傾げた。
それは他のクラスメイトも同様で、一部漫画などのオタク文化に明るい生徒だけが現状を正確に把握し目を輝かせた。
オタクのひとりが手を上げて女王に尋ねる。
「あの! 異世界ということは魔法があるんですか!?」
「ええ、もちろん」
オタクからの質問に優しい笑みを浮かべて頷く女王。
彼女は手を前に出すと、一瞬にして手すりを消滅させた。
続いて、手を横に払う。
すると、虹色の階段が建物を一周するように生み出される。
女王が虹色の階段を下り始める。
それを見たオタクたちは大興奮だ。
山口先生が興奮する生徒を宥め、女王を見やる。
「それが魔法ですか?」
「正確には少し違いますけど、まあ、魔法と言っていいでしょう。これでここが異世界だと信じていただけましたか?」
「え!? ああ、はい……」
自身の内心を見透かしたような女王の言動に山口先生はドキリとした。
先生は内心ではここがほんとうに異世界かどうかを疑っていた。
しかし、目の前で魔法を見せられては少なくともここが地球ではないことは明らかだ。
「……ここが異世界だという話は理解しました。では、今すぐに私たちを元の世界に帰してください!」
「残念ですが、それは出来ません。今はまだあなたたちを元の世界に帰すわけにはいかないのです」
「なぜですか!?」
「あなたたちを元の世界に帰してしまえば私たちの世界は魔神の手によって為すすべもなく滅亡させられてしまうからです」
先生の頼みを拒絶した女王は苦々しい顔でその理由を述べた。
しかし、理由を聞いた先生はさらに剣幕が鋭く変化する。
「まさか、生徒たちにその魔神とやらと戦えというんですか?」
「ええ、まさにその通りです」
「冗談じゃない! 生徒たちをそんな危険なことに巻き込むわけにはいきません!」
女王の狙いが生徒を危険に晒すものだと判断した先生が生徒を守るために声を荒げる。
女王はそれを真摯に受け止めると、虹色の階段を下り終えた。
塔の下に立ち、先生をじっと見つめる。
「お願いします。どうか皆様のお力をお貸しください」
「そんなこと……!」
「お願いします」
女王が鋭い眼差しで先生を見つめた。
女王の圧に押され、先生が一歩後退する。
先生の心がぐらりと揺らぐ。この世界のすべてを背負ったような女王の瞳がそうさせる。
「──ざけてんじゃねえぞ」
先生の生徒を守るという決意が揺るぎかけたそのとき、先生を押しのけてひとりの生徒が女王の前に立った。
灰色の短髪に赤い瞳。耳にピアスが大量に開いたガラの悪い男だ。
「おい、ババア。テメエは礼儀ってのを知らねえのか? テメエがどれだけ偉いのかは知らねえけどよお、頼みごとをするときに頭一つ下げねえのはおかしいだろうが。頼みごとをするときは頭を地べたに擦りつけろよ。なあ?」
「お願いします」
「……テメエ」
灰斗が女王に礼儀を諭すと、しかし女王は灰斗の言葉を無視するように直立不動で同じ言葉を繰り返した。
無下にされた灰斗は額に青筋を浮かべると、鋭い目で女王を睨みつけた。
直後、灰斗が女王に掴みかかろうとする。
「──グア!?」
灰斗が女王に掴みかかろうとしたそのとき、どこからか電撃のようなものが飛来して、灰斗の体に直撃した。
灰斗はうめき声を上げると、口から黒い煙を吐いて地面に倒れる。
「──止めなさい!」
灰斗が地面に倒れると、女王が客席のある一点を睨みつけ、鋭い声を発した。
悠誠が女王の見ているほうに目を向けると、そこには手を前に伸ばした黒いローブの男がいた。
どうやら灰斗に電撃を浴びせたのは彼のようだ。
彼は灰斗を憎々し気に睨みつけると、舌打ちをして手を下ろした。
「鮫島!」「灰斗!」「灰くん!」
灰斗と仲の良い生徒が数名倒れた彼の元へ駆け寄る。
彼らは灰斗の息があることを確認すると、安堵したように息を吐いた。
それから女王を警戒するように目を向けた。
「おいおい、マジかよ……」
「いきなり攻撃して来たよ」
「私たちも鮫島みたいにされるってこと?」
「素直に従わないとそうなるってことだろ?」
「それって脅しじゃん!」
灰斗が倒れたことで女王側に不信感を抱いたのは灰斗と仲の良い生徒たちだけではなかった。
クラスの大半が女王や周りを囲む黒ローブの集団を敵だと認識を改める。
生徒たちが敵意を向けると、当然相手も敵意を返してくる。
不穏な空気がコロッセオの中に充満する。
「ゆうくん、どうしよう……」
雨花も不穏な気配を察知したのか、不安げな顔で悠誠を見た。
悠誠はひとまず雨花を安心させるために笑みを浮かべると、その裏で思案した。
このままでは一年C組と異世界人とで争いが起こる。
そうなれば魔法という絶対的な力を持つ異世界人側が圧倒的に有利である。
今はまだ悠誠たちを異世界の事情に巻き込んでしまったという罪悪感がブレーキになっているが、敵意が罪悪感を上回るほどにまで膨れ上がった場合は、彼らの事情のために悠誠たちの人権は容易に踏みにじられることだろう。
今必要なのは悠誠たちが異世界人に協力する姿勢を見せ、彼らに悠誠たちが敵ではないと認識してもらうことだ。
そうすれば少なくとも悠誠たちの人権は担保されることだろう。
しかし、異世界人にそれを示すのは容易なことではない。
感情コントロールが未熟な高校生に、灰斗の件があった後で「異世界人と仲良く手を取り合おう」と言ったところでそれがたとえ自分たちの保身のためだと分かっていても敵意を完全に消し去ることは出来ないだろう。
ましてそれが自分で決めたのではなく、他人に諭された意見なのだとしたらなおさらだ。
「くそ……どうしたら……」
思考が行き詰った悠誠は苦虫を噛み殺したような顔で舌を打った。
彼の視界では今まさにクラスメイトと異世界人の溝が大きく広がっていく。
このままでは小さな架け橋が溝の底へと落ちていき、和解は不可能になってしまう。
──時間がない。
そう考えながら悠誠は頭の隅である男のことを考えていた。
「こんなとき、アイツならどうするだろうか……。一鷗ならこんなとき、どうやって切り抜けるだろか──」
頭の中にもうひとりの幼馴染の顔を思い浮かべたそのとき、悠誠はこの場を収めるただひとつの可能性を見つけた。
しかし──それは悠誠自身が大きな代償を支払う決断だ。悠誠に大きな責任がのしかかる決断だ。
もしこの決断をすれば悠誠はもう引き返せない。
それでも悠誠は迷わなかった。
もし、この場に彼がいたら同じ決断をしただろうと考え、悠誠は即座に決意を固めた。
「ゆうくん……?」
「雨花、ここで見ていてくれ」
心配そうに悠誠の顔を見上げる雨花。
そんな彼女に優しく頷くと、悠誠はクラスメイトたちをかき分けて、集団の先頭に立った。
黒いローブの集団に意識を向けながら女王の前に歩み出る。
「アルメリア女王陛下。ひとつ聞いていいですか?」
「なんでしょう?」
「陛下はさきほど俺たちを今はまだもとの世界に帰すことは出来ないと言いました。今はまだということはいつかは帰れるということですか?」
「ええ。この世界がそのときまで存在していればですけれど」
「それはいつですか?」
悠誠が間髪入れずに尋ねる。
女王が少し驚いた顔をするが、彼女はすぐに毅然とした態度を取り戻す。
「皆様が魔神を倒した後です。この世界から魔神がいなくなれば皆様を元の世界に帰すことが出来ます」
女王がはっきりとそう告げる。
すると、話を聞いていたクラスメイト達から非難の嵐が飛び交った。
悠誠が手を伸ばし、クラスメイトを静かにさせる。
それから真っ直ぐに女王を見つめた。
「俺たちが魔神を倒せばというのは少し違うでしょう? 魔神が倒れれば、それを為したのが俺たちじゃなくたっていい。でしょ?」
「……ええ。ですが、この世界にはもはや魔神に対抗できる人間は存在していません。だからこそ我々は異世界人である皆様に協力をお願いしているのです」
「分かっています。俺はこの世界の人が戦うこともクラスメイトが戦うことも望まない」
「ではどうするつもりです?」
悠誠の言葉を聞き、胡乱な目をした女王が尋ねる。
悠誠はそれに対して笑みを浮かべると、手を胸に当てた。
「俺が戦います。俺がひとりで魔神を倒します」
自信満々といった様子を演じながら、悠誠は声高々にそう宣言した。
目の前で啖呵を切った少年を見つめ、女王が眉を顰める。
「ほんとうにひとりで魔神を倒せると思いますか? 私にはとても──」
「──出来ます!」
女王が悠誠の言葉を否定しようとしたそのとき。
雨花が悠誠の隣に立った。
驚く悠誠と女王を無視して、雨花が吠える。
「私も戦います! ひとりじゃないです! だから──勝てます!」
「雨花……」
棘の道をひとりで進む覚悟をしていた悠誠は、隣に立った雨花を見てじんわりと胸が熱くなる思いがした。
すると、雨花の隣にまたひとり少女が立つ。
「雨花っちがやるなら私もやる!」
「私も!」
「うちも!」
雨花が悠誠の隣に立ったのを皮切りに女子たちが次々と雨花の隣に並んでいく。
悠誠がそれに驚いていると、不意に雨花とは反対のほうから肩を組まれた。
「おいおい、悠誠水臭いぜ! 俺も混ぜろよ」
「そうだそうだ!」
「ハーレムは許さん!!」
今度はノリのいい男たちが悠誠の隣に並び始めた。
そして、最終的にはクラスのほとんどが女王の前で横一列に並ぶ。
悠誠と雨花は顔を見合わせると、女王に目を向けた。
「俺たちが魔神を倒します。だからそれが叶ったら俺たちを元の世界に帰してください」
「──ええ。世界神様に誓って魔神が討ち滅ぼされた暁には皆様を無事元の世界へと返すと約束しましょう」
女王の口から元の世界に帰すという言質を獲得したクラスメイト達が一気に盛り上がる。
悠誠も雨花とハイタッチしてひとまず難を凌いだことを喜んだ。
すると、賑やかな中で誰かがぽつりと呟いた。
「──でも、俺たちなんの能力もないただの学生だぜ? ほんとうに魔神なんか倒せるのかな?」
そのあまりに現実的な発言に盛り上がりかけた空気は一気に地に落ちた。
言い出しっぺの悠誠が少し気まずそうにする。
すると、女王が皆を安心させる優しい声音で告げた。
「それについては心配ありません。皆様はこの世界に召喚された時点で世界神様より強力な力を授かっているはずです。『ステータスオープン』と唱えて、自身の力を確認してみてください」
女王の言葉を聞いたクラスメイト達はどこか半信半疑という様子だった。
『ステータスオープン』なんてまるでゲームみたいなことを言い出したのだから仕方ない。
いったいどんな不思議なことが起こるのかと皆警戒しているのだ。
とはいえ、魔法があるのだからそれ以上に不思議なことなどそうそうあるはずもない。
悠誠はそう考えると、魔神討伐の言い出しっぺとして一番最初に女王の言葉を復唱した。
「『ステータスオープン』──うわあ!?」
言葉を唱えると、目の前に突然半透明なボードが現れた。
パソコンのウィンドウみたいな長方形な板である。
どうやらこの板は他の人には見えていないようで、彼らは突然大きな声を出した悠誠を驚いた顔で見つめていた。
彼らから視線を外した悠誠は改めて半透明な板を見る。
色々と気になることがあるが、悠誠はその中であるひとつの場所に目が止まった。
「【勇者】……?」
ステータスウィンドウの一番下にあるスキル欄。
そこに刻まれたただひとつのスキル。
それは決して意味の分からない言葉などではなく、むしろ地球出身の悠誠には馴染みの深い言葉である。
【勇者】──このなんの捻りもないスキルがこれから先の悠誠の人生を良くも悪くも大きく歪めるものになろうとはこのときの樋山悠誠には知るよしもないのであった。
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