第二章 黒猫は黒影を覗く
第20話 委員長のお願い②
朝。カーテンの隙間から陽光が差し込む。
窓の外から聞こえる雀の声を聞きながら一鷗は大きく伸びをする。
スマホの画面を見ると、まだアラームは鳴っていない。
今日から夏休みということもあっていつもより遅い時間に設定したせいだ。
しかし、習慣とは怖いもので通常通りの時間に起きてしまった。
一鷗はアラームの設定を戻すと、ベッドから起き出ようとする。
そのとき、彼の部屋の扉が控え目にノックされた。
「カモメさま、起きてる?」
音を殺して開かれた扉から顔を覗かせたのはメアエル・アルメリアだ。
彼女は目を覚ましている一鷗を見るとホッと安堵したような顔をし、すぐにいつものしかめっ面に戻る。
「な、なによ。起きてるなら早く降りてきなさいよね。寝坊助!」
「誰が寝坊助か! いつもどおりの時間だろ。お前が起きるのが早すぎるんだよ。──つか、なにか用か?」
「別に。お腹が空いたから早くご飯を作って貰いたかっただけよ!」
彼女はなぜか怒鳴り声をあげると、勢いよく扉を閉めた。
「な、なんだ?」
『姫様はカモメ殿を心配しているのだ』
メアエルのおかしな言動に一鷗が困惑していると、メアエルと共にやってきて取り残されたドランが耳打ちする。
『カモメ殿はバグベアとの戦闘で大怪我を負われた故、ポーションで傷を治したとはいえ心配するのは当然のこと。今回のことは姫様が発端だったが故に、責任を強く感じているのだろう』
「へぇ、あいつがねぇ……」
一昨日までの一鷗であればメアエルが一鷗を心配していると言われてもピンと来なかっただろう。
しかし、昨日の愚行を反省した彼女の姿を見た後では彼女が意地悪なだけの少女では無いことはよく理解出来た。
一鷗はドランと共に一階に降りると、先んじて食卓に着くメアエルを一瞥し、キッチンに入る。
「メアエル。なんか食いたいものあるか?」
「ハンバーグ」
「朝からハンバーグかよ……。まぁ、いいけどさ」
朝食にハンバーグを所望するメアエルに苦笑する一鷗。
ハンバーグといえば一鷗が初めてメアエルに出した料理であるが気に入ったのだろうか。
そうだとすると少し嬉しい。
一鷗は僅かに気分が上がると、慣れた手つきでハンバーグを作り、食卓へ運んだ。
ドランには魔石を与え、三人で食卓を囲む。
「「いただきます」」
『馳走になる』
三人は手を合わせると、黙々と朝食を食べ始めた。
メアエルはやはりハンバーグが好物なのか、美味しそうに食べている。
しばらく無言で食事が進む。
「ねぇ、今日は何時にダンジョン行くの?」
「今日は休みだ」
「えぇ! なんでよ!」
食事が進み、ふとしたタイミングでメアエルが尋ねる。
彼女は一鷗の答えに納得出来ないようで声を荒らげた。
一鷗が箸を置いてダンジョンに行かない理由を説明する。
「俺もお前も昨日の戦闘の疲れがまだ取れてない。今のままダンジョンに行けば昨日の二の舞だ。ここは一度完全に疲れを取って、万全の状態でダンジョン攻略に臨みたい」
「……そういうことなら、まぁ、今日は休みでもいいわよ」
「意外とすんなり受け入れるんだな……」
一言二言の反論は予想していたのだが、案外あっさりと引き下がったメアエルに一鷗が驚く。
メアエルは心外だと言わんばかりに一鷗を睨みつけた。
「私だって反省するし学習するのよ。今回のことで休むことの大事さは嫌ってほど理解したわ。だから、あんたが休んだほうが良いって言うなら私はそれに従うわ」
「そうか……」
メアエルの言葉に納得させられた一鷗はそれ以上なにかを言うのはやぶ蛇だと考え、食事に意識を向けた。
すると、メアエルが一鷗に話を振る。
「ねぇ、ダンジョン探索が休みってことはあんた今日暇よね? だったら、一日私に付き合いなさい」
「暇だけど……休みの意味を考えろよ? 疲れるようなことは出来ねぇぞ」
「大丈夫よ。ゲームで詰まってるところがあるからあんたに手伝ってもらいたいのよ」
「あぁ、そういうことか」
どうやら彼女は一鷗が暇つぶし用に渡したゲームで困っており、そこを一鷗に助けて欲しいらしい。
一鷗としてはゲームの手伝いくらいやぶさかでは無い。
がしかし、ゲームのことでは助けを求められるのに、どうしてひとりで抱え込むようなことをしたのか……。
いや、ひとりで抱え込んで失敗を経験したからこそ今こうして一鷗に助けを求めているのだろう。
一鷗はメアエルの成長を密やかに喜びながら、朝食を食べ終えた。
それから午前中いっぱい一鷗はメアエルと仲良くゲームに興じたのだった。
▼
正午を過ぎ、ゲームが一区切りついたところで一鷗たちは昼食を取ることにした。
一鷗が準備のためにキッチンに入る。
すると、滅多にならないはずのチャイムが数日ぶりに機能を果たした。
ピンポンと音が鳴り、一鷗はメアエルがやってきたときのことを思い出しながら玄関へ向かう。
今度こそ新聞局かテレビ局でありますようにと願いながら扉を開けた。
「こんにちは、十川くん」
「……委員長、どうしてここに?」
扉の先にいたのは黒髪長身の少女──一鷗のクラスの委員長だった。
一鷗が首を傾げると、委員長は後ろ手に持っていた紙束を一鷗に差し出した。
「昨日学校で配布されたプリントよ。中には夏季休暇の課題も入ってる。先生に頼まれて届けに来たの。……だから、そこまで嫌そうな目を向けられると少し困る」
「あ、ごめん」
メアエルのときのように厄介事を持ち込まれるのではと警戒していたが、どうやらそれが顔に出ていたようだ。
一鷗は表情をフラットにすると、委員長に頭を下げた。
顔を上げ、委員長から紙束を受け取る。
「プリントありがとな。それじゃあこれで──」
「待って」
紙束を受け取った一鷗はどこか急いだ様子で扉を閉めようとした。
そこに委員長の冷たい声で待ったがかかる。
一鷗はびくりと肩を跳ね上げると、ぎこちない笑みを委員長に向ける。
「まだなにか?」
「十川くんって確か一人暮らしよね」
「……あ、ああ。両親が海外へ旅行に出てるからな」
「犬派? 猫派?」
「え、なに突然。……どちらかと言えば猫派だけど」
「猫好きの人って稀に好きだけど猫アレルギーで猫が触れない人がいるでしょ? 十川くんは平気?」
「アレルギーとかは特にないかな……」
「そう、それは──とても良かった」
委員長は最後にそういうと、口角を僅かに上げた。
委員長の笑顔が目に入った瞬間、一鷗の全身に悪寒が走る。
頭脳が今すぐ逃げろと警鐘を鳴らす。
しかし、一鷗は蛇に睨まれた蛙のようにその場から動くことは出来なかった。
「ちょっと待ってて────ただいま」
一鷗が石蛙になっていると、委員長が一度一鷗の家の敷地の外へ出て、すぐに戻って来る。
戻ってきた彼女の手には段ボール箱が抱えられていた。
委員長が段ボール箱を地面に下ろす。
すると、段ボール箱がひとりでに動いた。
明らかに中になにかしらの生物がいて、それが箱の中で暴れている動きである。
「こ、これは……?」
「開けてみて」
「え、俺が開けるの?」
「怖い?」
「……怖くはない」
委員長の軽い挑発に乗せられた一鷗は地面に片膝をついて段ボール箱の蓋に手を掛けた。
重心を出来るだけ段ボール箱から遠いところに置いて、中からなにが飛び出しても逃げられるように準備をする。
一鷗は恐る恐る段ボールの蓋を弾いた。
「みゃ~……」
段ボール箱の中から現れたのは生後二か月くらいの小さな黒猫だった。
黒猫は段ボール箱の縁に手を掛けると、コバルトブルーの瞳でじっと一鷗を見つめている。
一鷗は黒猫を見て、ひとまずは凶暴な生物ではないことに安堵した。
「なんだ、仔猫か。委員長の家の猫?」
「いいえ、ここへ来る途中で拾ったの。捨て猫よ」
「へ、へぇ……捨て猫か……」
捨て猫と聞き嫌な予感がした一鷗は黒猫へ伸ばしかけた手を引っ込めた。
すっくと立ちあがり、速やかに踵を返す。
「それじゃあ俺はこれにて──」
「待って」
一鷗が家の中へ逃げ込もうとすると、委員長が一鷗の肩を掴んで離さない。
いったい細身の体のどこにそれほどまでの力があるのか、肩を掴まれた一鷗は委員長の手を振りほどくことが出来なかった。
観念して振り返った一鷗の顔にずいっと委員長が顔を近づける。
ともすれば鼻がつきそうな距離感である。
「十川くん。お願いがあるの。この子をキミの家で保護してあげて?」
「嫌だ!」
「どうして?」
「どうしてもこうしてもあるか! 俺には仔猫を保護する意思はない。メリットもない。だから保護しない。ただそれだけだ」
「メリットはある。ペットを飼うことは心の癒しとなる。ここ数日疲れ気味だったキミに、この子はリラクゼーションを与えてくれる。どう? 保護したくなった?」
「ならない。だいたいペットみたいなやつは我が家にはもういるんだ。これ以上増やしたら余計に疲れちまうよ」
一鷗はそういうと、頭の中にメアエルを思い浮かべた。
猫は人間を大きな猫だと認識しているというが、気ままで我儘なメアエルはまさに大きな猫だろう。
面と向かって「お前はペットだ」と言うことはないが、一鷗は内心で彼女のことをそう思っていた。
もっとも、それは昨日までの話で、バグベアに襲われて以降の彼女のことは半人前の人間として認めていた。
しかし、あくまで半人前。もう半分はまだ猫である。
「てか、拾ったのなら委員長が飼えばいいだろ。委員長の家は猫屋敷だって噂を聞いたぜ」
一鷗が委員長に猫を保護する提案をする。
すると、委員長はぴたりと動きを停止した。
怒りを裏面に隠したような無表情で一鷗を睨む。
「十川くん。私、自分の名前を馬鹿にされるのはあまり好きじゃないのだけれど」
「え? 委員長の名前って確か
「
「あ……」
委員長の名字をど忘れした一鷗は本人に教えられ、ようやく思い出した。
一鷗が委員長の家を猫屋敷だと思ったのはそういう噂を聞いたのではなく、委員長の名字が猫屋敷だから勝手に家に猫がたくさんいるものだと勘違いしてしまったためだろう。
勘違いとはいえ、結果的に委員長を馬鹿にしてしまった一鷗が冷汗を流す。
「呆れたわ。まさかクラスメイトの名前も覚えていないとは……」
「委員長は委員長で覚えてたから、名字がすっぽり抜けてたわ。なんか色々申し訳ない」
「別に気にしてないわ。この仔猫を預かってくれたら許してあげる」
「それとこれとは話が別だろ」
「ちっ」
どさくさ紛れに仔猫の保護を持ち出してきた委員長は一鷗にきっぱり断られると、小さく舌打ちをした。
よもや委員長から舌打ちが出るとは思っていなかった一鷗が恐怖に慄く。
一鷗が戦慄していると委員長が仔猫を一鷗の目の前に持ち上げた。
「十川くんよく見て。この子どことなくキミに似ていると思わない?」
「……似てるか?」
「やる気のなさそうな目元とかそっくりよ」
「あんたほんとに俺にその猫保護させる気があるのか? 悪い特徴が似てると言われても嬉しく無いんだが」
そうやって愚痴をつきつつも一鷗は黒猫の顔をじっと見つめた。
確かに委員長の言う通りやる気の感じられない目つきをしている。
自分もこんな目をしていただろうかと考えると、少しだけ似ているような気がしないでもない。
「十川くん、私はこう思うのよ。ペットは飼い主に似るという言葉があるけれど、ならば似ている捨て猫は似ている人が飼うべきだと」
「なんだそのトンデモ理論は。とても学年で上位の学力を有する人の言葉とは思えないな」
委員長の主張を一鷗が否定する。
すると、不意に委員長がしおらしく髪を撫でた。
「お願い、十川くん。キミにしか頼めないのよ。どうかこの子を保護してあげて」
「な、なんだよ急に。何度も言ってるけど、いくら委員長の頼みでもこればかりは無理なんだよ」
「そう。でも私は諦めないわ。十川くんが保護してくれるっていうまで私はこの子と一緒にキミの家の前に居座るわ」
「おいおい、勘弁してくれよ……」
委員長に居座ると言われ、一鷗は委員長が家の前で黒猫と一緒に段ボールに入っている姿を想像し、狼狽した。
もしそんなところを近所の人に見られたらあらぬ誤解が噂となって広められてしまう。
一鷗の家の近所には一鷗の通う春月高校に在籍する生徒が少なからず住んでいるため、そんな噂が広がれば夏季休暇明けに学校へ行きずらくなってしまう。
そうなると必然的にダンジョンにも行けなくなるわけで、メアエルの機嫌が悪くなるのは目に見えていた。
一鷗は目の前にある厄介事と未来の厄介事を天秤にかけると、熟考の末にひとつの結論を出した。
「分かった。分かったよ。俺がその仔猫を保護すりゃいいんだろ!?」
「いいの?」
「ああ、保護してやる。保護してやるから家の前に居座るのは止めろよ」
「ええ、もちろん」
一鷗は結局委員長の強い押しに負け、仔猫を引き取ることを決めた。
委員長から仔猫を受け取る。
「飼育に必要なものは全て私が用意するわ。明日届けに伺うから家に居てね」
「それくらい自分で用意するよ」
「いいえ、私が用意するわ。その子のお世話は十川くんに任せることになったけれど、もともと拾ってきたのは私なのだから、それくらいのことはさせてちょうだい。ね?」
「そういうことなら……」
一鷗は委員長の言葉に甘えて飼育に必要なものの用意を彼女に任せた。
委員長は頷くと早速買い出しに出かけるようで、どこか寂し気な表情で仔猫を撫でると、くるりと踵を返した。
立ち去ろうとする委員長に一鷗が待ったをかける。
「なあ、最後にひとつ聞いていいか?」
「なに?」
「どうして委員長は自分で保護しようと思わなかったんだ?」
「簡単な話よ。父が猫アレルギーでうちでは飼えないというだけ。それに……いえ、なんでもないわ」
委員長は最後になにかを言いかけたようだったが、かぶりを振り、口を噤んだ。
委員長は再び踵を返すと、今度こそ買い出しへ出かけた。
一鷗は委員長が最後に言いかけた言葉が気になったが、聞きそびれてしまった。
委員長の背中を見送った一鷗は家の中に入り、段ボールから抱き上げた仔猫をリビングへと運ぶ。
「もう遅いわよ! いったいなにをして──ちょっと、なによその子!?」
リビングへ行くと、お腹を空かせたメアエルが文句を言ってくる。
しかし、仔猫を見ると目を輝かせて近づいてきた。
メアエルが仔猫を優しく撫でる。
「クラスメイトに引き取ってくれって頼まれたんだ。今日からこの家で世話をするから仲良くしろよ」
「む。そういうのってだいたい先住のペットにかける言葉じゃないかしら?」
「……そうか?」
メアエルを大きな猫だと再認識したせいか、つい口が滑ってしまう。
メアエルに胡乱な目で見つめられた一鷗は知らんぷりを貫いた。
幸いメアエルはそれ以上追及してくることはなく、一鷗が彼女を大きな猫だと思っていたことはバレずに済んだ。
「それにしてもこの猫、どことなくカモメさまに似てるわね」
「クラスメイトにも同じこと言われたんだが、そんなに似てるか?」
「もうそっくりよ。ふてぶてしい顔してるところとかが特に」
「お前らは人の悪いところしか見えてねえのか」
「みゃ~」
またもや悪いところが似ていると言われた一鷗が愚痴をつく。
すると、その言葉に同意するように黒猫が鳴いた。
その後、一鷗たちは昼飯を食べるのも忘れて黒猫の名前を決める会議を行った。
そして、長い長いとても長い話し合いの結果、黒猫の名前は『モナカ』となった。
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