第17話 死ぬ気――生きる気
「さあて、選手交代だ」
一層から五層までを四十分で駆け抜けた一鷗は、現在バグベアと対峙している。
ドランの情報によると、このモンスターは本来十五階層に出現するモンスターらしい。
なぜそんな怪物が五層にいるかは不明であるが、一鷗やメアエルが太刀打ちできる相手ではないことは明確だ。
それはバグベアから放たれる殺意を間近で感じた一鷗が一番よく分かっている。
一鷗はバグベアと接触するまではどうにかすれば勝てるのではないかと考えていた。
メアエルと協力すれば倒せない敵はいないだろうと舐めていたのだ。
だが、バグベアは異常だ。
毛の奥に隠れた赤い瞳に睨まれるだけで足が竦み、息遣いを聞くだけで心臓が止まりそうになる。
それほどまでにヤツの力は桁違いで、それが及ぼす恐怖は計り知れないのだ。
一鷗は冷汗を流すと、ちらりとドランを一瞥する。
それから重く頷いた。
その動作でなにかを察したドランはメアエルの腕を引っ張るように飛び上がる。
『姫様、ここはカモメ殿に任せて我々はここを離れるぞ』
「でも、それじゃあ……」
『安心なされよ。これは作戦だ。作戦を遂行させるためにも姫様にはここを離れてやってもらわねばならぬことがあるのだ』
「……分かったわ。そういうことなら……」
メアエルは少し悩むと、ドランの言葉を受け入れた。
彼女が一鷗の背中を睨みつける。
「絶対死ぬんじゃないわよ」
「ああ。分かってるから、さっさと行け」
「言われなくても」
メアエルは最後にムッとしてそういうと、ドランの手を引っ張って一鷗とバグベアの隣を通り抜けていく。
バグベアが逃がさぬとばかりに手を伸ばすが、一鷗の鉄剣がその腕を跳ね上げた。
「選手交代だって言っただろ? お前の相手は俺だぜ。大熊野郎」
「グラアア……」
獲物を捕まえる邪魔をした一鷗をバグベアが鋭い目で睨みつける。
先刻浴びせられていた殺気がほんの些細なものだと分かるほど強大な殺気を向けられる。
一鷗は一瞬、己が死ぬ姿を幻視した。
しかし、死の恐怖に囚われることは無く、直ぐに気を取り戻す。
直後、仕返しとばかりにバグベアを睨みつけた。
こちらも殺意を浴びせるが、バグベアはなにも感じていない様子だった。
──すまん。
あと数秒もすれば眼前の怪物との死闘が始まる。
そんなときになって一鷗は心の中でメアエルに謝罪をした。
先程、ドランは彼女をこの場から逃がすのは作戦のためだといったが、アレは嘘だ。
確かに作戦は決めていたが、それはバグベアとの接敵時、一鷗がドランにアイコンタクトをひとつ送るというもの。
アイコンタクトをしたあと、瞬きをしたらバグベアに対し勝算あり。
アイコンタクトをしたあと、頷いたら勝算なしという意味だ。
もし後者の選択をした場合、ドランにはメアエルを連れて逃げるように言っていた。
そして、その場合の一鷗の役割は──命を掛けてふたりが逃げる時間を確保すること。
「はああああああああああ」
「グオオオオオオオオオオ」
一鷗が気合を入れて叫ぶと、バグベアは咆哮を返した。
同時、両者が動き出す。
丁度真ん中の地点でぶつかると、一鷗は下段からの切り上げを、バグベアは右の爪の振り下ろしを行った。
互いの攻撃が中点で交わり、双方ともに弾かれる。
「──【ロケットスタート】!」
一鷗は攻撃が弾かれた直後にスキルを発動させる。
これによりバグベアから受けた衝撃を相殺し、バグベアのがら空きの懐に飛び込んだ。
「オラァ!!」
一鷗が渾身の一撃を無防備な腹部目掛けて放つ。
しかし、弾いたはずの右腕がガードに入り、一鷗の攻撃は防がれた。
鉄剣はバグベアの毛皮を薄く切りつけただけで、致命的なダメージは愚か、軽傷すら与えられない。
毛むくじゃらの腕を蹴りつけ、バグベアから大きく距離を取る。
「この野郎──」
「グラウ!」
「──なッ!?」
空中でくるりと回転し、着地した一鷗は即座に突進の姿勢を取る。
だが、そんな彼の目前にバグベアの赤い瞳が映った。
予想だにしない距離に現れたバグベアに驚き、一鷗が後方へ仰け反る。
無防備に晒された一鷗の腹部にバグベアの拳が飛来する。
一鷗は咄嗟に拳の軌道上に鉄剣を差し込む。
「──ガッ」
バグベアは鉄剣のガード諸共一鷗を殴りつけた。
打ち上げられた一鷗は天井にぶつかり、血を吐きながら落ちてくる。
そして──
「グオオ!!」
力無く落下する一鷗に対し、バグベアの強烈な爪撃が見舞われた。
肩からばっさりと斬られた一鷗は殴られた衝撃で壁にぶつかった。
ずるりと一鷗の体が落ち、壁に血の跡がこびりつく。
地面に尻をついた一鷗は糸の切れた操り人形のように力無くその場に倒れ込んだ。
意識が徐々に遠のいていき、ついには肉体と意識との間の糸がぷつりと途切れた。
▼
背中越しに戦闘の音を聞きながら、一本道を引き返していくメアエルとドラン。
彼女は一本道の終わりが見えたところで突然足を止めた。
メアエルが訝しむようにドランを見やる。
「ねえ、ドランさま。本当に作戦なんてあるの? 相手は十五階層のモンスターよ。そんな相手に通用する作戦なんて、本当に存在するの?」
『それは……』
メアエルに詰め寄られ、ドランは言葉を詰まらせた。
ドランは誤魔化そうと次の言葉を探すが、その一瞬の間が致命的だった。
「私、戻るわ!」
疑念が確信に変わったメアエルが踵を返し、来た道を戻ろうとする。
彼女を行く手を塞ぐようにドランが立ちはだかった。
「ドランさま、どいて」
『姫様の護衛役としてそれは出来ない』
「どいて。──どきなさい!」
メアエルは鋭い声で叫ぶと、ドランを押しのけて先へ進む。
背中からドランの声が響く。
『姫様は、カモメ殿の覚悟を無駄にするつもりか?』
「──ッ」
ドランの言葉を受けて、メアエルの足が止まる。
彼女は内心で葛藤している様子だった。
そこにドランがたたみかける。
『カモメ殿は姫様を逃がすためにひとりで犠牲になる道を選ばれた。それは姫様に生きて欲しいからだ。その思いを姫様は無下にするのか?』
「私は……私はそんなこと頼んでないわ。アイツが私にどんな想いを抱いていたとか、どうなって欲しいとか、そんなの全部理想の押し付けじゃない。私がアイツのいうことを聞く道理なんてこれっぽっちもないわ」
『姫様……』
一鷗が命を張って想いを伝えても、やはりメアエルの心根は変わらないのかと、ドランが残念がる。
「でも──」
不意にメアエルの声の調子が変化した。
今までは刺々しい氷柱のような声音をしていたが、今は少しだけ氷が解けたような声音をしている。
その調子でメアエルが言葉を続ける。
「私は誰かを犠牲にした上で自分の人生をのうのうと生きていくなんてまっぴらごめんだわ。それが例え大嫌いなアイツだとしてもね。だから──」
メアエルはそこで一度言葉を区切ると、くるりと振り返ってドランを見た。
その顔には以前の焦りや危うい覚悟は消えている。
今の彼女の顔にあるのは生きようとする強い決意だ。
メアエルがドランに向けて手を伸ばす。
「だから、お願い。ドランさま……私に力を貸して。一緒にあの怪物を倒して。そして──カモメさまを助けて」
『了解』
「ありがとう、ドランさま」
メアエルのお願いにドランは迷うことなく頷いた。
ドランの了解を得たメアエルは彼に礼を言うと、早速今来た道を引き返した。
ステータスの向上で上昇した身体能力をフルで活かし、全速力で一本道の奥まで走る。
そして、最後の曲がり角を曲がると、正面に強大な毛むくじゃらの壁が現れた。──バグベアである。
「カモメ──」
メアエルが一鷗を探してバグベアの奥へと目を向ける。
直後、彼女は目を丸くして口を塞いだ。
そこには大量の血を流しながら、壁にもたれて眠っている一鷗の姿があった。
彼の肩を見るとバグベアにばっさりと斬られた傷がある。──致命傷だ。
『姫様! 落ち着くのだ。カモメ殿はまだ生きている。生体反応にはまだ反応がある!』
「──!? ドランさま、アイツを助けて!」
『了解。だが、カモメ殿のもとへ行くにはバグベアが邪魔だ』
「大丈夫。あいつは私が引き付ける。だからドランさまはアイツの元へ」
『了解』
短い会話でそれぞれの役割を決めると、メアエルはなけなしの魔力を絞り出して【火蝶】を三体生成した。
三体の火蝶がバグベアの周りを飛び回り、注意を引く。
バグベアが火蝶に気を取られている隙にドランが一鷗のもとへと移動した。
口腔からポーションを取り出し、一鷗の患部に振りかける。
すると、傷口が僅かに塞がった。
だが──
『治りが悪い。これでは残りすべてのポーションを使ってもカモメ殿は……』
ドランが一鷗の傷の治りを見て諦念混じりの嘆息を吐く。
ほんの小さな呟きだったが、メアエルはその言葉を拾っていた。
メアエルが拳を強く握りしめる。
「……こんなところでなにやられてんのよ! あんたは世界を救う英雄なんでしょ!? ユウセイ様やウカが認めた凄い人なんでしょ!? だったらそんなところで寝てないで、とっとと立ち上がって戦いなさいよ! バカ!!」
メアエルが喉がはちきれるほど大きな声で叫ぶ。
その声は洞窟の中で反響し、何度も木霊した。
「グルル」
少ししてその木霊が小さくなると、バグベアの唸り声が聞こえる。
メアエルがハッとしてバグベアを見ると、赤い双眸と目が合った。
どうやらバグベアに放った三匹の火蝶はすでに破壊されたようである。
バグベアが次の獲物を見つけたと言わんばかりに口角を上げる。
──ああ、ダメか。
メアエルが半ば諦めた様子で片手をバグベアに向ける。
バグベアに火蝶の模様が浮かんでいる今、魔法を打てば必中だ。
そう思い魔法を使おうとするが魔力が空で使えない。
メアエルは数秒後に訪れる己の死を予感した。
「──ぶち殺してやる」
そのときだった。
バグベアの背後から低い声が響いた。
メアエルがその方向へ目を向ける。
自然と目じりに涙が浮かんだ。
彼女の視線の先には、ボロボロの体で立ち上がった一鷗がいた。
彼は剣を支えに立ち上がると、血が滲んで赤くなった瞳でバグベアを睨む。
刹那──バグベアが飛び退く程の殺意が一鷗から放出された。
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