第16話 物語の姫のように


 静謐な洞窟にメアエルの息遣いだけが響いていた。

 本来であれば、モンスターの遠吠えや足音などが響くのだが、今はなにも聞こえない。

 モンスターたちも息を殺して潜んでいる。

 なぜなら今、この第五層にはモンスターをも容易に殺す怪物がいるのだから。


「どうしてこんなことに……」


 メアエルは行き止まりの壁に背を預け、一本道の入り口をじっと睨みつけながら小さく呟いた。


 初めはただダンジョン攻略に非協力的なカモメに対する怒りからの行動だった。

 カモメと一緒ではどれだけ時間をかけたところで世界の救済には間に合わないと感じて、メアエルはひとりでダンジョンに向かった。

 運よく五層への階段を見つけたときは、世界神様が見守ってくれているのだと感じた。

 ホブ・ゴブリンと接敵したときは焦りを感じたが、結果的にはメアエルが勝利し、彼女は五層でもひとりで戦えるのだという強い自身を身に着けた。


 だが、その後、倒し損ねたゴブリンが同族を呼び集める笛を吹いてから状況は一変した。

 数百体のゴブリンがメアエルのもとに集まってきて、どれだけ倒しても終わりが見えない地獄を味わった。

 その地獄が終わるかと思えば、今度は十五階層のモンスターが現れた。

 バグベアはメアエルを見て、舌なめずりをした。

 あれは完全にメアエルを獲物と認識しただろう。


 バグベアは強い野生を持つだけに一度獲物と定めたものは殺すまで執着する特性があるという。

 つまり、どれだけ逃げ回ろうと、メアエルはいずれバグベアに見つかって殺されるということだ。

 それを知っているメアエルは逃げながらどうにか上の階へ逃げられないか考えた。

 だが、運の悪いことに行き止まりの道を引いてしまった。

 この道へたどり着くまではしばらく一本道だった。

 今から引き返したところで途中でバグベアと鉢合わせになることだろう。


 どうやら世界神様はメアエルを見守ってなどいなかったようだ。


「グラウ……」


 遠くからバグベアの唸り声が聞こえた。

 洞窟内に満ちた静寂をバグベアの足音が破壊する。

 足音が徐々にメアエルのいる場所に近づいてきた。


「もう来たのね……。──でも、ただではやられないわよ」


 メアエルは腕輪の付いた手のひらを通路の入り口に向ける。

 打ち出す魔法は現状最大火力の【フレアカノン】。

 発動に魔力を50点も消耗する大喰らいだが、その分威力は凄まじいはずだ。

 発動できるのは一度きり。

 この一撃が外れれば、あるいはこの一撃にバグベアが耐えきってしまえば、もはやメアエルに勝ち目はない。

 そのときは──。


「グラアウ」


 メアエルが最悪の結果の先を考えると、通路の角からバグベアが顔を覗かせた。

 ゴブリンに毛を纏わせた醜悪な顔面だ。

 それを見たメアエルは躊躇うことなく魔法を打ち出す。


「──【フレアカノン】!!」


 極大の火の玉が大砲から打ち出されるように飛来する。

 あっという間にバグベアに命中すると、大気中の酸素を全て喰らう勢いの爆発が起こった。

 爆風とともに押し寄せる熱気に、術者のメアエルも苦悶する。

 だが、やはり凄まじい威力だ。

 これならバグベアも──と、メアエルは一瞬でも淡い希望を心に抱いた。

 だが、爆風が晴れたとき、それは泡沫の希望だったことを知る。


「グラア」

「なによそれ……反則じゃない」


 爆風が晴れた先にいたのは無傷のバグベアだった。

 爆発の影響で毛先が僅かに焦げているだけで、ダメージ自体はゼロに等しいだろう。


 ぴんぴんとしているバグベアを見て、メアエルは諦めたように笑った。

 そして、全身から力を抜く。

 そんな獲物を見て、バグベアがゆっくりと近づいてきた。


 ──ああ、ようやく。

 ──これでようやく、地獄から解放される。


 うすぼんやりと開いた瞳の先で、メアエルは家族や、国民や、召喚者の幻影が消えていくのを見た。

 この世界でただひとり生きていくという地獄のような責任から解放されたのだ。

 心がすっと軽くなる。


「グラアア」


 バグベアがメアエルの前に立った。

 ゆっくりと鋭い爪を持った巨腕が持ち上がる。


 メアエルは安らかな心持ちでその爪が薙ぎ払われるのを待つ。

 ようやく解放されるのだと、実感を噛みしめて待つ。

 父や母や姉に「先に行ってるね」と念じて待つ。


 そしてついにその爪が薙ぎ払われ──


「──【ファイアボール】!」


 その瞬間、メアエルの眼前に火の玉が現れ、今まさに爪を振り下ろそうとしていたバグベアの顔面に被弾した。

 爆発が、バグベアの視界を奪う。

 直後、振り下ろされた爪はメアエルの僅か頭上を掠めた。


 ──は?


「──【ファイアボール】【ファイアボール】【ファイアボール】!!」


 メアエルはただひたすらに困惑していた。


 何故、自分はまだ死んでいないのか?

 何故、目の前で魔法が連射されているのか?

 何故、私は魔法を打ち続けているのか?


 混乱しながらメアエルはひたすらに魔法を唱え続けた。

 しばらくして魔力が空になっても彼女は腕輪から魔力を奪って魔法を打ち続けた。

 その結果、魔力がなくなった腕輪は崩壊し、突き出して爆風を直に浴び続けた腕は焼け爛れた。


「ふぁいあぼーる……」


 合わせて十発は打ち込んだだろうか。

 そこでメアエルの魔法は打ち止めとなった。

 爆風が晴れる。

 だが、そこに立つバグベアには一切の傷がついていなかった。


 メアエルのそれはただの無駄な足搔きとなった。

 そして、その無駄な足掻きはバグベアを怒らせた。


「グラアアアアアアア!!」


 怒りの咆哮を叫んだバグベアは勢いよく腕を振り上げると、鋭い爪でメアエルを狙いすました。

 直後、その爪を勢いよく振り下ろす。


 ──どうして私はあんな無駄な抵抗をしたのだろう。


 爪が振り下ろされる一瞬、メアエルの思考は加速した。

 ゆっくりと落ちてくる爪を見つめながら、メアエルは考える。


 ──死ぬことなんて怖くないはずなのに。

 ──そんなことよりもひとりぼっちで生きていくほうがずっと怖いはずなのに。

 ──なのにどうして……あの瞬間、私は『生きたい』と思ってしまったのだろう。


 メアエルはバグベアが爪を振り下ろす瞬間に、自身の胸中を染め上げた『生きたい』という願望がどこから生まれたものなのか考える。


 ──そうだ、私はまだなにも成し遂げていなんだ。

 ──故郷を救うことも出来ていない。

 ──お父様やお母様に親孝行することも出来ていない。

 ──お姉様に謝ることも出来ていないし、召喚者の皆さまとお友達になることも出来ていない。

 ──それになにより……ユウセイ様と結婚することだってまだ──


 そう思ったとき、メアエルは昔に読んだ勇者と王女が結婚する物語を思い出した。


 それはある傲慢な姫がヒロインのお話。

 姫は親に愛されず、友からも見放され、いつも独りぼっちだった。

 姫はその孤独に耐え切れずに、入ったが最後、二度と出ることの出来ない森へと向かった。

 そして、彼女はその森で森の主と呼ばれる凶暴なモンスターに襲われるのだ。


 メアエルは初めてその物語を読んだとき、この姫はなんて馬鹿なのかと思った。

 姫は確かに家族からも友からも見放されていたが、勇者だけはいつも彼女のそばにいた。

 それなのに、どうして姫は孤独だと思ったのだろうか不思議に思った。

 そして、孤独だからとすぐに命を投げ出す姫を軟弱者だと𠮟責した。

 こんな物語に共感など出来ない。

 そうやって読み聞かせをしていたメイドに怒鳴りつけた覚えがある。


 だが、今になってようやく分かった。

 孤独とは耐えがたいものなのだ。

 それはもう、命を投げ出してしまうほどに辛く苦しいものなのだ。


 しかし、命というものは簡単に投げ出せるほど安いものでは無い。

 それは物語の中の姫もそう思っていた。

 姫は死の間際に醜く生にしがみついた。

 今まさに同じことをしたメアエルだが、当時はそんな姫を酷く滑稽に思っていた。


 その後なんやかんやあって姫は勇者と結婚する。

 その間の話をメアエルはよく覚えていない。

 話に飽きて聞き流していたからだ。

 モンスターに襲われた姫はどうやって生き残ったのか。


 死の間際に考えることがそんなどうでもいいことであることにメアエルは少しがっかりした。

 しかし、その結果、記憶の隅っこにこびりつくように残っていた話の続きを思い出すことには成功した。


 姫はモンスターにトドメを差される瞬間に、勇者に命を救われたのだ。


 なんともありがちな展開だ。

 だが、その後、姫を助けた勇者が姫と結婚する話を聞いて、メアエルはその姫を羨ましいと感じたのだ。

 自分もいつかそんな勇者のような人と結婚したいと、そう思ったのだ。


「──アア!!」


 バグベアの鋭い爪がすぐそばまで迫っている。

 もはやすべての願いは叶わないだろう。

 やり損ねたことを多く残してメアエル・アルメリアという少女はその一生を終えるのだろう。


 ならばせめて最後に夢を見させて欲しい。


 ──あの物語の姫を助けた勇者のように。ユウセイ様、私を──


「──助けて」


 泡沫の夢を口にして、メアエルは目を瞑った。

 間もなく訪れる最後の時を思い浮かべて。



 刹那──ギャリイイン──とまるで金属同士が激しくぶつかり合うような音が閉じた瞼の先で響いた。



 そして──


「おう、生きてるか?」


 暗闇の中、いつまで待っても訪れない死の宣告の代わりに優しい声がかけられる。

 メアエルは恐る恐る目を開けた。

 するとそこには夢に見た勇者とはまるで似ても似つかない平凡な顔立ちの男が立っていた。


「あんた、どうしてここに……!?」

「どうしてって、死にたがりな馬鹿姫を助けに来たに決まってんだろ」


 メアエルが不思議そうに問いかける。

 すると、その男──カモメはさも当然とばかりにそう言った。


「ほらよ。忘れ物だぜ」


 カモメはメアエルに向かって鉄の塊を投げてよこす。

 それはドランだった。

 ドランは鉄の塊からいつもの姿へ変形すると、涙目でメアエルを見上げる。

 メアエルはドランの頭を優しく撫でると、カモメに目を向けた。

 彼はメアエルに優しく微笑むと、バグベアに視線を投げる。

 腰に装備した鞘から鉄の剣を抜き放つと、不敵な笑みを浮かべた。


「さあて、選手交代だ」

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