第10話◇花言葉は「希望」
「イデア」
「え?」
「イデア、だよ。俺の名前は」
なのに。彼は自分から名乗って、ニコリと笑いかけてきた。
「ほら。名前知っちゃった。これでもう、俺は君の『知ってる人』だよ。そうだよね?」
一瞬、何を言われたのか分からずに、私はポカンと口を開けてしまう。
でも、すぐに彼の意図に気が付いて、私は聞き返してしまったこと自体が失敗だったのだとようやく悟ったのだった。
それこそがこのまま会話のやりとりを続けさせるあちらの策だったのに、それにまんまと乗ってしまった。
「ず、ずるいわ……。勝手に聞かせておいて」
名前を知ってしまったら、こちらもちゃんと名乗らないといけない、って気持ちになってしまうじゃない。
「そうかな?」
「そうよ!!」
クスクスと、さも楽しそうに笑われたことに少し悔しくなって、つい声が大きくなってしまう。
「だったら、君の名前も聞かせて。これで平等だよ?」
そうでしょう?とでも訊くように、彼――イデアが首を傾げて見せると、その真ん中から分けた前髪がさらりと風に流れる……何だか「言われたようにしないといけない」と自然と思ってしまうような、そんな圧力があった。
う、と私は言葉を詰まらせる。
本当に、いいように言葉を引き出されている。
話しかけないでと言ったくせに、もう私、こんなに話してしまってるわ。
「……っ、イリス、よ」
すっかり負けた気分混じりで応えた私に、にっこりと満足げな笑みが返ってきた。
茶色のその髪の毛が木漏れ日に透けて、何故だか金色に見えた気がした。
金髪なんて、アストラルの王族だけの色なのに。
目の前のイデアは薄い茶の髪にこげ茶の瞳なのに。
だけど、彼はとても綺麗な人なのだと分かった。
よくアネモネが彼女の取り巻きと騒いでいる「素敵な殿方」という表現がしっくりくると気付いて、少しどきりとした。
一族の人やウィスプ商会長様や家と取引があるお店の人たち、それ以外の、家のことは関係なく初めて会った男の子。
「イリス、君にぴったりだね。『希望』の花だ」
指摘を受けて、私は頷く。
そういえばそういう花言葉だったわ、と私は考えた。
「そうね。アイリスの花言葉は、『希望』……」
ぴったり、って言うけれど。
でも本当にそうなのかな。
そのわりに、現状、あまり希望に満ちた日々は送れていない気がするけれど……。
切ない現状を思って遠い目になって、そこでふと、私は思い当たった。
イデアは花言葉を知っているのね。
するりと花言葉が出てきたことに珍しい気分になって、私はつい彼の横顔をじっと見つめてしまった。
ストレリチアの一族では、遺伝的に血が濃く精霊魔法の素養が強いと見込まれた子には、習わしとして植物の名から名前が与えられることが多い。
だから一族の者は男女に関わらず、自分の名前を自覚する頃には初歩の教養として、名が知れた先祖にまつわる植物とその花言葉も一緒に習い始める。
そして花やおしゃれに興味がある平民の女性の一部も、自発的に学びたがるため知っている。
けれど、平民の男性たちに限っては、農作物でなかったり稼げなかったりする植物に対する興味は基本的に薄い。
見覚えがないから、イデアはこの近所のストレリチアの人間ではないみたいだし、平民の服としゃべり方なのに、花言葉がすっと出てくる男の人は珍しいかも……。
もしかしたら、彼は実は貴族か、しっかり教育を受けられる立場の平民の子なのかもしれない。
何となく、私はそう気づいてしまった。
「……やっぱり、もう話しかけないで」
誰かが大切に教育を与えているということは、彼には私とは違って、ちゃんと愛してくれる身内の人がいるんだわ。
そうなると「絶対にこれ以上仲良くなってはいけない。ただその場にいるだけで全員殺されるような危険に巻き込むなんて、申し訳なさ過ぎる」と自然と恐ろしくなってきて、私はイデアから視線を外す。
一周目、幼なじみとして一緒に逃げてくれたアルムは私のせいで死んでしまった。
そのため、死に戻って以降の私は意識してアルムに遭遇することを避けている。
家が近いから実は会おうと思えば会えるのだけれど、なるべく巻き込みたくないと思っている。
同じく巻き込んでしまったアルウィン殿下とお付きの方々に対しても、基本は王都にいるはずだから会う機会はそうそうないはずだけど、もし前回のように近くにおいでになるなら全力で避ける予定だ。
この人だって、今後同じようにストレリチアが現れるとしたら、また巻き込んでしまうかもしれないんだわ……。
だから、私はあえて彼に背を向ける。
「もうこれ以上話したくないから」と背中で伝えながら、無視をする。
たとえ無礼な人だと思われるとしても、巻き込むよりはずっといいものね……。
もう今、アルムに対して感じているようなあんな後悔は二度としたくないもの。
イデアはそれに対して、特に何も言わなかった。
ただ同じ場所に留まり続けているのが、気配で何となく分かる。あしらわれたからって、特に動こうとはしていない。
彼の視線が背中に刺さってくる気がして、少しソワソワしてしまう。
けれど「だめ、知らんぷりしないと」と自分に言い聞かせて、私はイデアに話しかけられる前に思い出そうとしていた、お母様に習った手遊び歌について、再び考えることにした。
まるで彼から逃避するかのように。
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