第5話◇商会長様と念願の魔法書


 その日、叔母様とアネモネが屋敷に呼んだウィスプ商会の商会長様を案内することになっていたため、私はお客様の前に出る用にと、生前のお母様が着ていたドレスの中から一番仕立てがいいものを選んで着ることにした。


 基本的に叔父様は私のために新しいドレスを与えてくれることはない。

 そのため、私の手元にあるのはお母様の遺品になってしまった数枚のドレスと、アネモネが飽きて着なくなったドレス、それらを自分で手直ししたものだけだ。


 お母様のドレスはもう少しで捨てられ燃やされそうになっていたところを叔父様に救われて、私の元に戻ってきたらしい。

 私自身はまだ幼くてそのことは全く知らなかったのだけれど、部屋のクローゼットの奥の木箱にまるで隠すように収納されているのを数年前に発見した。


 それには手紙が添えられていて、そこにはここにそれが隠されてある経緯と、懐かしいばあやの名前が添えられていた。


 ばあやは元々、母の侍女をしていて年老いてからは私の乳母をしていた人だ。

 何年も前に暇を出されて、以後消息は知れない。

 会って感謝を伝えたいけれどいまだ叶わず、元気にしているといいな、と思うことくらいしかできていない。


 叔父様が何を思って私がお母様のドレスを着ることを許しているのか、それは分からないけれど、今のところは賛否関わらず何も言われていない。


 以前着ていた時に「最新のデザインではないけれど、布地も仕立てもいやにいいわよね」とアネモネ付きの侍女たちが噂するのも聞いたので、案外見てくれも悪くはないみたいだ。


 新しもの好きのアネモネには「なあに、その古くてやぼったいドレス。まあ、イリスにはお似合いだけど?」と鼻も引っかけないのだけれども、放置してくれるのでかえってありがたい。

 両親がいた頃の方が「イリスのドレスの方がかわいいからほしい」と泣いてゴネられていたので、正直奪われずに済んで助かったのかもしれない。


 そう、そんな思い入れが深い、お母様の大切なドレス。


 その裾の部分に泥水が飛んだのだった。

 一見不幸な、とてもがっかりする出来事だったのだけれど、きっと私はそのおかげで不幸のループから脱するきっかけを得ることになった。


 玄関先で馬車を出迎えた時、ちょうど大雨が降っていたのだ。

 地面がぬかるんでいたようで、馬車が動いた時に泥水がぱしゃりと跳ねてしまった。


「も、申し訳ない……!!ぜひ弁償させてほしい!!」


 少しくすんだ薄桃色のドレスの布地にじわじわと黒っぽいしみが目立って広がっていくのを目の当たりにして、ウィスプ商会長は真っ青になっていた。

 目利きの部分で「いやに仕立てがいい」というのが効いていたらしいのと、これから商談なのに羽振りがいいお得意様の叔母様とアネモネに悪いように告げ口されたら困る、と思って心配している様子だ。


 ウィスプ商会長様は新しいドレスを仕立てることを提案して下さったけれど、そこまではいいです、と断った。


「いやしかし、こちらも何も対応しないわけにはいきません。何でもいいですよ、欲しいものや困ったことはありませんか?」


 と食い下がられて、その瞬間、「ある考え」が頭の中に浮かんだ。

 これは、願ってもないチャンスかもしれない……と。


「じゃあ……そのかわりに、魔法書、精霊魔法に関するものがあれば、見せて下さいませんか?」


 口走る瞬間、ひどく喉が渇いてドキドキした。

 男の人と面と向かって交渉する、ということ自体が初めてなのだ。


 それもおそらく、私より十歳以上は年上の人。

 とても背が高くて、がっしりとした体格は、きっといつも商品となる荷物を馬車に積んだり運んだりしているから。

 炎の形を模した飾り鋲がついた眼鏡の奥の瞳は切れ長。

 ハキハキしたさも商人らしい口調や態度の潔さにも、何だか気圧されるものがあって、とても緊張する。


 そして、叔父様を出し抜くような行動を取るのも初めてのことだ。


 バレたら、どうなるのだろう?折

 檻されたりまた殺されたりしてしまうのかな……。


 不安になりつつも、私は必死にこの機会にしがみつくことにした。

 ここで命を賭けると決めた。


 そうして。

 ついに、私はお目当てのものを手に入れた。


「どうぞ。こちらでよろしかったでしょうか?」


 差し出された本の名前は「精霊魔法大辞典」。

 叔母様たちに見咎められないように、お帰りのウィスプ商会長を見送るという形でこっそりと受け取りを済ませることになった。


 現在の手持ちで一番詳しいものがこちらです、とウィスプ商会長はニコニコと笑って仰った。

 本革に金の箔押しで装飾が施された、とても分厚くて高級そうな作りのそれに度肝を抜かれたけれど、「ドレス一着分ですからね。そしてこのドレス用の洗濯石鹸はサービスです」と押し切られてしまい、結局はありがたくセットで頂くことになった。


 誰にも見られないようにコソコソと隠れながら、私は自室に戻る。

 ドアを閉めた途端、思わず大きく息を吐き出した。


「や……やったわ……!!はあぁぁあ、よかった……!!」


 本を抱きしめるようにしながら、これまで味わったことがなかった大興奮に身震いする。


 これでようやく独学できる態勢が整ったのね!!

 しっかりお勉強をすれば、私もいつか精霊に出会えるのかしら……!?


 バレて取り上げられる可能性を考えて、日中はクローゼットの、お母様のドレスが入っていたあの箱の中に隠しておくと決める。


 夜中の人々が寝静まった頃にこっそりと取り出してランプの明かりを頼りに読み込む、そんな日々が始まった。

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