第3話◇跡継ぎなのに冷遇中
夜が明けて、新たな一日が始まった。
この南ストレリチア家の屋敷では、私は一族の誰より早く起きなければならない。
そして私には侍女がつけられていないため、全ての身支度を自力でこなさなければならない。
手早く普段着に着替えて、すぐに部屋を出た。
水場に向かうためだ。
使用人のための井戸があるその場所は屋敷の外の吹きっさらしにある。
私が自由に使うことを許された水場はここだけだった。
「わっ、冷たっ!!そろそろ寒くなってきたかも……」
秋が深まって、屋敷内よりもずっと気温が低く感じるようになった。
地下水も自然と冷やされているようだ。
それでもその水でしっかりと顔を洗い、タオルで水滴を拭う。
「ふああ、冷えちゃうわ……」
ひんやりとした風が少し湿ったほっぺたを撫でていく。
もう一カ月も経てば、きっと濡れた指先が凍えて感覚を失ってしまうくらいに辛くなるのだろう。
それから一度部屋に戻り、朝食のために食堂へ。
その頃にはモルヒ叔父様もカンナ叔母様もいとこのアネモネも揃うので、壁際に立ったまま三人を迎える。
貴族の身分じゃない人々のための「自分よりも身分が高い方への挨拶」、頭を下げて胸に手を当てて主人に敬意を示すための所作をして。
叔父様が当主になって以降、私は幼い頃にお母様に習った「淑女のための挨拶」ではなく、この挨拶ばかりを彼らに強いられている。
「おはようございます、お父様、お母様」
アネモネのソプラノの挨拶が響いた。
よく通る声だ。
頭を下げる直前、ちらりと目の端に入ってきた彼女の姿は今日も朝から鮮やかだった。
最新の流行を反映した華やかなドレスと化粧。
まっすぐな赤の髪に、勝気な性格が表れたつり目のブラウンの瞳。
いつも自信に満ち溢れた態度だ。
もしイメージカラーを挙げるなら「朱赤」。
いとこだから血のつながりは確実にあるのに、私とアネモネは少しも似ていないと思う。
対する私は、「着飾る」という面に関しては全く手をかけられていない。
薄い青紫の、少しクセが強いまとまりにくい髪の毛は、いつも寝癖と間違われるほどに波打っている。
その前髪の一部には白の毛が混じっていて、瞳の色はアンバー。
元々の髪の色合いも水彩画のようにぼやけている上、ドレスの貧相さもあって、とても地味。
ちっともあか抜けていないように見える。
イメージカラーは「青みの薄紫」になるのだろうか。
当然、私には自分に対する自信もろくにない。
きっとアネモネは声と同時に「淑女の挨拶」をしているはずだ。
頭を下げているから見えないけれど。
本来なら、私たちはお互い公平に、同じ所作で挨拶を交わし合うのだと思う。
だけれど、毎度ここで彼女が私の名前を呼ぶことはない。
こうしてあえて無視することで「あなたのことは一族として認めていないから。だって使用人みたいなものでしょう?」と周囲にアピールしたいみたい。
そして叔父様も叔母様もそういうアネモネの私への態度を注意するわけでもなく、容認している。
たまに虫でも見るかのような視線が私に向く程度だった。
「ああ」
ひどく簡潔に応えたモルヒ叔父様は、オレンジの髪に、薄い赤みのブラウンの目元。
ここ数年で少しずつ太ってきている気がする。
恐ろしいからか、誰も面と向かっては指摘しないようだけど。
ちゃんと血が繋がっている私のお父様の弟、のはずなんだけど……お父様とはそれほど似てはいない。
記憶の中のお父様は黄色に一部緑が混じった髪色で、兄弟と言っても魔力の構成要素の個人差が大きいのか、色合いが全く違う。
そして表情も、いつも少し神経質そうな叔父様とは違って、お父様は明るい性格でよく声を立てて笑っていらしたから。
だからこそ、余計に似てないと感じるのかもしれない。
「おはよう、アネモネ」
カンナ叔母様は、アネモネとはまた違う意味で目を引く見た目だ。
女性にしては背が高い方でスレンダーな体型の、いわば「男装の麗人」だった。
白っぽい緑の髪にヘーゼルの瞳という涼やかな印象で、学園に通っていた頃は女子に大人気だったそうだ。
たまに当時を知る使用人が噂をしているのを聞くことがある。
現在でも、公的な場には貴族の貴婦人らしい見た目と振る舞いで出ているのだけれども、女性同士の集まりや屋敷内で過ごす時は女性らしいドレスではなく、動きやすい男性のような服装を好んで着ている。
今もそうだ。
夫婦間にはひどく冷え切った空気が存在している。
すでに家庭内別居のような状況だった。
元々からどちらにとっても気に入らない、不本意な結婚だったらしい。
……と、これも屋敷内で囁かれている噂で耳にした。
そのせいもあってか、二人はお互いに特に目線も合わせることなく、ただ短く、娘に対してだけ最低限の挨拶を返す。
アネモネはフフンと鼻を鳴らして、「当主夫婦であるお父様たちにも挨拶されないイリスは、やっぱり私よりもずっと格下なんだわ」と言いたげな顔つきでこちらを見てきた。
その視線にあえて何でもないように振る舞いながら、私も三人が着席した後にテーブルの末席につく。
私の右手の指輪は、アネモネの目に留まったら確実に奪われてしまうのでは……と心配していたのだけれど、何故か何の指摘もされなかった。
叔父様と叔母様からも。
まるで誰にも見えていないみたいだった。
これも加護のひとつ、なのかもしれない。
「一日の始まり、今日も創世の女神様の慈愛に感謝し、この尊き恵みを頂きます」
『頂きます』
叔父様がその手を組み、食事をする時用の決まりきった挨拶をして、叔母様とアネモネと私で応えて唱和する。
そうして、南ストレリチア家の朝食が始まった。
この世界を創られたという「創生の女神」様にこうしてお祈りをして食事をするのが人々の習慣となっている。
創生教はアストラル王国の国教でもあった。
私も今までは単なる習わしとして拝んでいたけれども、女神様の力によって死に戻り救われたのかもしれないと思うと、自然と感謝の気持ちが胸の内に沸いてきて、これまでよりもより真剣な気持ちでこの挨拶をしたのだった。
女神様、本当に、本当に、助けて頂きありがとうございます……!!
「正しき道」を探すために、頑張ります……!!
繰り返しながら、私は食事に手を付けることになった。
不思議といつもより生きていることを尊く感じるわ。
サラダ、スープ、メインの卵料理とパン、と食事を進めていると、叔父様が簡潔に「本日の連絡事項」を口走った。
「今日は登城して枢密院の会議に出る。晩の帰りは遅くなるだろう。中庭の工事の件は手配したか?あと例のあの案件だが……よろしい。数日うちに書類をまとめる」
通常、叔父様は朝と晩は家で食事を取るから、一族は必ず共にテーブルについていなくてはならない。
これは私もなのだけれど、ただし、これは別に一族として認められているからではなくて、侍従・侍女たちも含め、単に連絡事項を効率よく一括で伝えておくためだ。
「対外的には通常の貴族の家族らしく振る舞うこと」というのはルールとして徹底されていて、お互いの直近の予定についての連絡事項がこの二回の食事の場で伝えられる。
「かしこまりました。全てそのように」
叔父様の指示に叔父様付きの執事が手短に返答して、他の者も伝えられたこの予定を心に刻んで日々の行動をすることになる。
今日の私には、主に最近叔父様に押し付けられるようになった領地運営のための書類書きと、叔母様とアネモネからの侍女に対するようなこまごまとした手配が命じられた。
やることは多いけれど、当主がいない時の食事は自分の部屋で取れることになっているので、そこは少しホッとした。
配膳や食器洗いは自分ですることになるけど、叔母様ともアネモネとも顔を合わせずにすむ夕食。
その方が気楽だ。
「ねぇ、お父様。注文していた私の今度のお披露目パーティのドレス、先日仮縫いが終わったのだけれど、とても素晴らしくて。でも追加で刺繡を入れたくて……」
刺繍の料金アップ分をおねだりするアネモネの声をバックに、味気ない気持ちになってスープを口に運ぶ。
年に一度開催される、精霊契約者のお披露目パーティ。
それは南北ストレリチア家が共催する、一族の精霊契約者を国内外の高位貴族に紹介するための機会だ。
だけど、私はまだどの精霊とも契約できていないから、そのパーティには行けそうにない……。
「あっ。ごめんなさぁい。これ、パーティに行く資格がない人の前でする話じゃなかったわね。当日はイリスだけ、屋敷でひとりっきりでお留守番するのでしょう?」
辛い現実に小さく吐息をつこうとした時、アネモネがクスッと、小さくだけど確かに笑って言った。
当然、わざとだ。
アネモネも去年までは私と同じく留守番組だったのだけれど、つい二か月ほど前、オオカミの姿をした勇ましい精霊と契約を果たしたらしい。
それで彼女はすっかり得意になってしまっていて、以来、ことあるごとに「やっぱり私の方がイリスよりずっと優秀ね」と自慢してくるようになった。
今回もドレスのことを口走りながらも、チラチラとこちらの表情をうかがい続けていた。
「でーもっ。当然の扱いよねぇ。だってイリス、あなたってば南ストレリチア家の直系の娘だというのに、まだ精霊との契約もできていないんだもの。当代の精霊姫はこの私よ」
私はろくに言葉を返すこともできず、ただ黙り込む。
だって、事実、そうだもの……。
「とっくに精霊との契約が果たせている直系次男の娘」のアネモネの方が、「長男の娘でありながら精霊と契約できない私」よりも、ずっと一族内での立場が上なのだ。
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