ヱンカムイ
憑弥山イタク
ヱンカムイ
海と山を越えた先にある北の地には、アイヌと呼ばれる人達が居るらしい。生憎ながら、僕はこの町から出たことがないので、本物のアイヌは見たことがない。
親戚の1人が、5年だけ北海道に住んだことがあるので、よく、彼から北海道の話を聞いた。その中で僕は、アイヌという人達を知った。そして僕の他にも、家族や知人が、北海道に関する話題を色々と聞いていた。
僕を含め、みんながアイヌの話に夢中になった。思想の違いに伴う文化の違いからか、アイヌは僕達とは違う世界を生きており、彼等の話はさながら異世界の話でも聞いているかのような感覚だった。
そんなある日のこと。
「クマが出よったで!」
久方ぶりに、僕の住む地域で熊害が発生した。今回の発生に於ける被害だが、家畜への被害は無い。ただその代わりなのか、町の青年が1人、熊に襲われ死亡してしまった。しかもただ襲われただけでなく、肉と臓物が抉られていた。遺体の損傷には獣臭が残っており、僕達は即座に悟った。
殺された挙句、喰われたのだと。
遺体の近くに熊の毛が落ちていたが、熊は既に現場から消えており、退治には至っていない。
件の親戚曰く、アイヌに於いて熊は、山の神を意味する"キムンカムイ"と呼ばれているらしい。そして、人を襲い、挙句その人を喰らった熊は、"ウェンカムイ"と呼び名が変わる。
人伝で聞いた文化や知識をひけらかす訳ではないが、我々は青年を喰った例の熊を、アイヌに倣って呼称した。しかし、ウェンカムイという発音がどうやら苦手なようで、誰も彼もが、"ヱンカムイ"と少し平たい呼び方になった。
「ヱンカムイを生かしとったら、また誰ぞが喰われてしまう。その前に駆除する必要があるが……なにぶん危険や。それでも、駆除を手伝ってくれる者はおらんか?」
猟銃を携えた中年男性が僕達に云う。作戦会議のつもりか、若い人間ばかりがこの家に集められた。が、僕を含めた誰もが、中年男性の要望には応えなかった。
何せ熊と対峙した状況で生き残ることは、目を瞑ったまま綱渡りをするよりも難しい。死ぬ確率の高い狩りに付き添うなど、意欲的な人間であっても快諾はしないだろう。
「ウェンカムイが生まれたと聞いたが本当か!?」
息苦しい空気の中に、僕の親戚が突然参加してきた。酷く焦った様子だが、僕達にそれを指摘する余裕など無かった。
「遺体はどうした!?」
「ああ、遺体なら隣の小屋に寝かせてある」
「馬鹿が! そんなことしたら熊が……!」
僕の親戚は、北海道に居たからか、熊に関する知識が僕達よりも豊富である。そんなことは分かりきっていたはずなのだが、僕達は彼に、現状に於ける最善の行動を尋ねなかった。
熊という存在を、甘く見ていたのだ。
無知蒙昧を極めた僕達を嘲笑うように、親戚の言葉さえ遮り、山から下りてきた熊が隣の小屋へ侵入した。人々の悲鳴で漸く気付いた僕達は、家を飛び出て小屋の方を見た。
「ウェンカムイ……!」
僕達の身の丈など容易く超える巨体。引き裂ける自信の無い分厚い毛皮。人間では再現できない獣の眼。犬とは比べ物にならない牙。名刀がナマクラに見える程の強靭な爪。
人を喰う程の熊。僕は、その日に初めて出会った。
そして、僕は途端に悟った。アイヌの人達が、熊を神と同等に見立てることも。そして、ウェンカムイという言葉を訳した場合の意味を。
事前に、僕は親戚の彼から聞いていた。
ウェンカムイという言葉は、悪魔、という意味であるらしい。
「獣なんかじゃない……」
喰いかけの餌を追って来たウェンカムイの姿は、絵画や剥製で見た熊とは明らかに違っていた。それは最早熊とは呼べない、毛皮を纏った巨大な人喰い悪魔である。
「あれがヱンカムイ……!!」
この日が、僕の命日であった。僕だけではない。あの場に居たほぼ全員が、荒ぶるウェンカムイに殺された。
今でも、よく覚えている。
熊という悪魔を、猟銃程度では殺せなかったことも、酷く鮮烈に、覚えている。
ヱンカムイ 憑弥山イタク @Itaku_Tsukimiyama
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