第32話 大事な方
宴会場の控えの宮に入って、雨流は月花を抱きしめた。月花の体が小刻みに震えている。なるべく優しく、怖がらせないように声を低くする。
「怖かっただろう」
「こわ、かった……? 私が?」
「ああ、震えている」
ここで初めて、月花は自分が震えていることに気が付いた。雨流といるときは感じたことのない、男性に対する恐怖心。あの男は、月花を性欲のはけ口のように扱ってきた。それが雨流を侮辱するためとはいえ、それは月花にとってこれほどの恐怖だったのだ。でも、だったら雨流から向けられる感情は、なぜ嫌な感じはしないの?
「陛下、私」
「いい、言うな。どうせ、下世話な話をしてきたのだろう?」
「……ムスクさま、は……陛下が私に寂しい思いをさせてるから……だから夜のお相手をしましょうか、と。言ったんです」
「……! よもや、わたしの月花にそのような下賎なことを」
「そう、なんです。そうなんですよ。私、陛下と一緒になって、寂しい思いなんて一度もしていないんです。そりゃあ、窮屈な思いはしましたけど、陛下は私のことを第一に考えてくださいますし」
思い出して、だんだん腹が立ってくる。なにが夜のお相手だ。こちらから願い下げだ。ぷんすかと怒り出して、月花は「腹立ちますよね」と雨流を見上げた。
「本当、失礼ですよね。陛下が女性嫌いっていうのも、きっとなにかの誤解なのに。陛下を馬鹿にする人間なんて滅びればいい!」
「……! ふっ、ははっ」
怒る焦点が少しずれている気がする。雨流が思わず笑えば、「なぜ笑うんです」と月花は余計に頬を膨らませた。膨れ面らもかわいらしい。そう思うくらいには。
「月花。ソナタは自分のことでは怒らぬのに、わたしのためには怒ってくれるのか?」
「だって、だって。みんな陛下を誤解しているんですよ」
「誤解、か……それはあながち誤解でもない。わたしは月花、ソナタ以外の女に優しくするつもりはない」
「……え? なぜです」
「優しくする価値がないからだ」
その目は少しだけ濁っていて、月花はそれが悲しかった。月花は雨流の手をきゅっと握る。あたたかい、こんなにも。月花よりも幾分も大きな手は、汗でひやりとしていた。それだけ緊張していたのだろう。月花がけなされて怒ったせいかもしれない。どちらにせよ、この皇帝は、ひとから誤解されやすく、損な性格をしていることは確かだった。
「陛下、に。お願いがあります」
「なんだ。珍しい」
「はい……私以外の人間――女性にも男性にも、優しくしてあげてください」
「……なぜだ」
心底解せない、といった様子で、雨流が月花を見下ろしている。月花が思い出しているのは、宇露や美姫のことである。今は無理かもしれないが、いつか彼女らも自由の身にできたら。そのためには、月花が本物の皇后になる必要があるが……。今自分はなにを思った? 月花はフルフルと首を横に振った。
「なぜって……陛下はこんなにお優しいのに、他者から誤解されるのを見るのは嫌なんです」
「だが、わたしに寄って来る人間は、みなわたしの権力におもねっているだけだ」
「……! そう、なんですか?」
「ああ、そうだ。政治とは、そういうものだ」
むっと口を結んで、月花は考える。しかし、元来勉強が得意でない月花に、雨流の言葉はいささか難しかった。ひとは等しく善である。仁がいつもそう言っていたし、実際、月花の会ってきた人間は、みな心優しいものばかりだった。
「それでも、私はみんなに優しくする陛下が好きです」
「なに。ソナタはわたしが好きなのか?」
「……? はい。料理人のみなさんも、師匠のことも。みんなのことが大好きですよ」
色恋に疎い娘だとは思っていたが、月花にとって自分はあくまでお飾りの夫のようだ。この不毛な恋を実らせるためには、ここはひとつ、月花の言うことを聞くほかになさそうだ。雨流が月花の手を優しく握る。汗は引き、温かさが戻ってきていた。
「善処してみる」
「わあ、ありがとうございます!」
にっこり笑った月花から目をそらす。月花の頬がほのかに桜色に染まっていたことに、雨流は気づけなかった。
「んふぅ、おひしい」
なんとか舞踏会を終えたその夜、月花は約束通り舞踏会に出された料理を堪能していた。傍ら、雨流は食事どころではないようだだった。今日一日が何事もなく終わったことへの安堵から、先ほどからふう、だの、はあ、だのため息ばかりだ。
「陛下、召し上がらないのですか?」
「ああ、わたしの分も食べるといい」
「いいんです!? こんなにおいしいのに」
カリカリに焼いたパンに牛酪の脂を塗って、上に乗せられた肝臓を濾したもの(パテ)は丁寧に血抜きされている。牛乳の代わりに生クリームを使って、ニンニクと玉ねぎの風味が美味い。
カルパッチョは牛肉ではなく馬肉を使っている。馬肉と野菜を白ワインビネガーと塩という至ってシンプルな味付けでマリネしているだけに、素材の味が重要だ。この馬肉を探し出すために、料理長の玄はほうぼうを試食して回ったそうだ。
自家製のフランスパンは焼き立てではないものの、ふわふわパリパリで食感まで美味しい。
そのフランスパンを薄く切って、鉄釜でじっくり低温で焼いて、アイシングを塗り付けたラスクは、食事にもデザートにもなる。
フランボワーズのムースは、月花の店と同じ仕入れ先の果物を使った。これは仁の計らいだ。少しでも楽しかったころの味を食べてほしい。
どの料理も仁の心を感じることができ、月花は幸せでいっぱいだった。
「一つだけ約束してくれないか」
ムクムクと料理を食べるかわいらしい皇后に、雨流は抱きつぶしたい衝動を抑えるのに必死だった。反射的に伸びた手を引っ込めながら、雨流はまた、ため息をついた。
「はい。なんでしょう」
「今後ソナタは、ひとりでの行動は慎んでくれないか。ソナタを狙う輩は大勢いる。だから、王宮の厨房に行くにしても、護衛は最低一人はつける」
うええ、と月花が嫌そうな顔をする。しかし、現状仕方のないことなのだ。
舞踏会で大々的に月花の存在を知らせたし、立后の前に消したい人間もいるだろう。だったら、月花を暗殺する輩も現れるだろう。それだけはなんとしても避けなければ。命より大事な自分の妃だ。
「それから、ソナタとの約束も……検討している」
「やくそく……?」
「万人に優しくせよとの――」
「え、本当ですか!?」
ぱっと顔を明るくして、月花が雨流の手を握った。いきなりのことに雨流が固まっている。月花は「すごいです、えらいです」と雨流をほめちぎっている。
かあっと顔が熱くなる。別に、子供じゃあるまいし。なのに、雨流はうれしくて仕方がない。月花がこんなに喜んでくれるのなら、苦手な人間関係も善処しようと思えるくらいには。
「陛下。これ美味しいですよ」
月花は今日一番おいしかった、フランボワーズのムースを雨流に差し出した。
「む? 美味いのなら、全部食べていいが?」
「いえ、一緒に食べたいのです。やっぱり、美味しいものは一番大事な方に召し上がっていただきたいものですからね!」
月花がはにかむように笑った。その頬が、若干赤い。しかし雨流はそれに気づかず、フランボワーズのムースを口に入れた。甘酸っぱい味に唾液腺がきゅっとなる。甘くて酸っぱくて、まるで恋のような味だと思った。
「大事な方」
何度も繰り返して、かみしめる。大事、なのか。もっとてっきり、自分は月花にとって単なる飾りの夫だとか、そういう立ち位置だと思っていた。なのになんだ、この気持ちは。
月花が雨流に抱く気持ちが親愛なのかなんなのか、雨流にはわかりかねたが、多少無理をしてでも月花を皇后に迎え入れたのは、まんざらでもなかったのかもしれない。
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