第23話 あの日の菓子

 雨流は本来、人間嫌いな皇帝である。しかし、昔からそうだったわけではなく、昔は天真爛漫な、天使のような子供だったと雨流を知るものは言う。見た目は皇太后にそっくりで、中世的な美しさはみなを惹きつけ惑わせた。


「わ、お父さま、見てください。あのようなきれいな花、わたしは初めて見ました」

「雨流。ソナタの心根は、母である皇后に似たな」

「そうですか? でも父上。わたしはきっと、父上にもよく似てます。みんながそう言ってますから」


 愛らしい子供だった。なにも知らなかった。世界には美しいものしか存在しないと、そう信じて疑わなかった。

 だが、皇帝という立場上、雨流はこの世界の醜さに気づいてしまう。例えばそれは、雨流を暗殺しようとする人間だったり、例えばそれは、雨流に嫉妬の念を向ける貴族だったり。

 門人として、大学士に入門すると、雨流に取り入ろうと、門弟は雨流にすり寄った。時に大学士の座を巡り、時に禁軍の座を巡り。

 うんざりだった。この世界は腐っている。雨流はよわい九歳にして、この世界の汚さに気づいてしまった。正直に言えば、その肩にのしかかる重圧から逃げたかった。このような、誰も信じられない王宮で、誰を信じて政を論じればいいのか。将来自分は皇帝になり、誰を信じたらいいのか、わからなかった。


「あれ。怪我してるの?」

「ううん。お腹が空いただけ」


 家出して一週間。ろくに食べ物も食べられなかった。王宮を出てしまえば雨流はただの子供に過ぎず、誰も雨流に見向きもしなかった。雨流に優しくする人間は、雨流の地位におもねっているのであって、雨流自身を見てくれる人間なんてどこにもいなかった。追剥に遭って、衣もまともではなくなった。みすぼらしい子供なんて、誰一人見向きもしなかった。

 いっそこのまま死んでしまおうか。そう思って町の真ん中でうずくまる。やはり、誰も雨流に見向きもしない。空腹でめまいがする。雨流はうずくまったまま頭を下げた。


「お腹空いてるなら……これ。あまりよくできたものではないんだけど」


 しゃがみ込む雨流に渡されたのは、不格好な菓子だった。水晶包と、それからよくわからない乾菓子。雨流は顔を上げる。


「……っ!」


 空腹に逆らえず、なんの疑いもなく雨流はそれを口に入れた。甘い味が口いっぱいに広がって、涙がこぼれた。甘い、美味い、生きている、死にたくない。こんなにおいしいものは、生まれて初めてだった。雨流の舌には、この味が何物にも代えがたい、真心の味だった。

 誰にも認められないと思っていた。誰も本当の自分を見てくれないと。だけど、ひとりでもいい、こんな民がいるのなら、自分が皇太子として、やがて皇帝になることにも意味がある。

 美しく気高い少女に救われた雨流は、この時自分が生まれた意味を見出した気がした。


「ありがと――」


 顔を上げたとき、そこにはもう、少女の姿はなかった。

 名前も知らない、顔も知らない、優しい人。この味を、雨流は一生忘れないだろう。自分の空腹を、心を満たしてくれた人。

 かすかに残ったのは、少女に渡された菓子の味と、少女の名を呼ぶ、母親の声だった。名前がなんだったのかは、いつしか思い出せなくなった。



 それから何年もたった。雨流はお忍びで町に繰り出しては、様々な料理屋で食事をした。

 雨流の舌は、月花と同じく絶対舌感がある。ゆえに、一度食べた料理を忘れることはない。あの日の少女の菓子。あの菓子には、あの少女の独特の隠し味が潜まれていた。おそらくそれは、あの少女にも絶対的な舌があるからだ。水晶包の餡には、少量の塩が。そして、乾菓子は、羽国の和三盆というものだった。これらをあの少女が作ったのか、少女の母親が作ったのかはわからない。わからなかった。月花の料理を口にするまでは。


「見つけた」


 都から五里離れた小料理屋。

 最近町でも噂される、変わった料理を提供する店。雨流はそこで料理をする少女こそが、あの日のかの少女なのだと、一目でわかった。そこで出された菓子には、まぎれもなくあの少女の味が、した。



 雨流が一方的に月花を知っているだけなのだから、月花のほうは雨流を覚えていなくても当然なのだ。あの日雨流は、月花の前でずっとうつむいていた。顔を上げたときには月花の姿はなかった。

 だけどそれでいい。月花は雨流の命の恩人で、雨流を皇帝として立たせてくれた人。今の自分があるのは、月花がいるからだ。そして、月花の料理の腕を見込んで、今回の食中毒の件の調査を任せた。雨流はずっと、月花を探していた。あの日の少女ならば、信じられる。あの少女ならきっと、どこかで今も料理をしているのではないか。そうして見つけた小料理屋の味は、雨流の知るところよりももっとおいしく、しかし、あの日食べた乾菓子の味は、今も変わらずに残っていた。雨流は誰彼かまわず自分の事件を任せたかったわけではなく、月花が月花だからこそ、この件を頼むに至ったのだ。


「陛下。あの」

「なんだ」

「えっと、あの」


 妃として召し抱えられ、皇后選出に無事に残った。正式にはまだ皇后にはなっていないものの、月花は毎日厨房に入り浸って、雨流は不満気である。宴会の件を明かすにしても、もう少し雨流に興味を持ってもいいものを。調理場での月花ときたら、料理人と親し気に、嬉しそうに笑っている。雨流には見せない、本心からの笑顔。妬ける。


「ソナタの言う通り、一日に三食の食事だと、吐かなくて済むし、料理の量もちょうどいい」

「はい。でも、それで」


 先ほどから月花が恐縮しているのは、雨流が月花を執務室に呼んで、ぎゅむっと、まるでぬいぐるみを抱きしめるがごとく、その腕に閉じ込めているからだった。月花に料理を任せるようになってから、雨流と会う時間が減ったのは事実だ。だから雨流は、月花の料理が終わると、こうして自分の執務室に月花を呼んで、膝に乗せて政務をこなす。邪魔になっていないか月花が恐縮しても、雨流はお構いなしだ。雨流の真意を測りかねて、月花はどうしていいのかわからない。


「陛下。なぜ私を呼んだのですか?」

「呼ばねばソナタは一日中料理場にいるだろう?」

「それは……だって私は、それしかないんですもの」


 この国は平和だ。戦争も争いもない、平和な世界なのだ。

 中には、金と権力を持て余して戦争をもくろむ人間もいるのだが、それを許すほどこの国の皇帝は甘くはない。聖君とも呼ばれる現皇帝は、国民からの信頼も厚く、その先帝もまた、この国をいつくしみ、平和を保つよう努力してきた。そして冷徹で、悪人には容赦なく罰を与える、とも。民にとっては聖君でも、朝廷の宰相や諸侯には目の敵だろう。だからこそ、今回のような事件が起きた。いまだ、食中毒の謎は解けていない。


「陛下は毎日お仕事をなさっているのに、私だけぐうたらするわけにも行きませんので」

「だが、だからって料理人たちと仲良くなど……」


 むっとした表情で、雨流が月花の首筋に顔をうずめた。どうやら嫉妬しているらしい。雨流からお香の香りがする。本当に、この皇帝はよくわからない。

 どうしたものか、月花は考える。

 皇帝陛下といえば女性に対して冷徹なことで有名だったはずなのだが、月花に対する雨流は、どこからどう見ても溺愛している。

 月花は自分がなぜこんなに愛されているのかがわからない。わからないから、困惑する。いくらお飾りの妃だとばれないようにするためとはいえ、雨流はやや大げさではないだろうか。


「陛下。では、陛下もご一緒に、料理をなさいますか?」


 断られる前提での提案だった。しかし、雨流は顔をぱっと明るくして、


「それは名案だ」

「え。ええ……」


 かくして、雨流は時折月花の料理を見に来ることとなったのだ。

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