第5話 後宮
厨房に通されて、まず月花は皇太后の食事に使われた食材を見渡した。その日皇太后に出されたのは、もやしの汁物に、アヒルの肉を蒸したものにねぎのたれを合わせたもの、それから卵薄く焼いたものに、魚の甘酢あんかけ。どれも渓国らしい食べ物だった。ただし、材料は一級品が揃っており、ここが後宮でなければひとつひとつの食材をくまなく見渡して、味見をしたいところだった。
「肉や魚はお残しになった。皇太后さまは冬が苦手でいらっしゃる。冬は寒くて食欲がないゆえ、汁物のみを召し上がった。されど、汁物に入っていたのはもやしだけだ。そのもやしから毒が出た」
「なるほど。毒を盛られたのか、もやし自体が毒なのか。ということですね」
「話が早くて助かる」
月花は、もやしを一つ、つまんで目を凝らす。もやしのひげ根がない。そして、大豆の殻も。これらは調理の際に丁寧に包丁で切ったと言われれば、それはそうだと納得できる。しかし、本来はそのような方法はとらずに、ひげ根と大豆は手で取るものだ。一本一本手作業ゆえに、もやし料理は手がかかる高貴な料理に使われてきた。だから、ちぎったような跡が残るのだが、これにはそれがない。そして、枝分かれしたであろう形跡が認められる。もやしはすっと一本伸びて育つものであり、それが枝分かれることはない。枝分かれした部分をきれいに切り取って形を整えているが、この形は恐らく。
次に月花は、そのもやしをひとつ、口に入れた。ぴりぴりと舌に感じる味は、先ほどの食中毒のあの芋と同じ成分だった。苦く、吐き出したいのをこらえた。月花が舌で感じた味は、紛れもなく毒の味だった。
「やっぱり」
「なんだ、わかったのか」
「はい。これはもやしではなく、ジャンカルの芋の芽です。意図的に食中毒を起こさせたものかと」
「やはりか」
「陛下、私を試しましたね」
月花の言葉に、雨流の顔が曇っていく。雨流には絶対味覚がある。ならば、これがもやしでないことは一目瞭然。しかし、雨流には確信がなかった。ゆえに月花に頼んだのだろう。雨流は傍にいた内官に耳打ちして、秘密裏にこの食材を提供したものを探しに出るように指示を出した。内官、女官が慌ただしく厨房の外に小走りに出ていく。後宮では、走ることは許されない。だから内官たちは、早歩きでとてとてと後宮内を飛び回った。
「助かった。月花」
「い、いえ……お役に立てたのなら光栄です」
「うむ。では、のちほど褒美を遣わすゆえ……今日はもう、帰ってよい」
月花は雨流に今一度拝礼して、内官たちに案内されながら後宮を後にした。ひどく長い一日だった。命を取られないだけありがたいと思うことにした。もう、かかわり合いは持たないとはいえ、あの冷たいと噂される皇帝は、今日はよく笑っていたし、だけれど荘厳で輝かんばかりに美しかった。
翌日、月花のもとに使いがよこされ、言い渡された言葉に月花は言葉を失った。
「李 月花。ソナタに美人の位を与える」
「なんで!?」
こうして、月花の後宮生活が幕を開けるのだった。
この後宮には皇后を頂点に女たちがしのぎを削って生きている。
正一品と呼ばれる三夫人。これらは貴賓、貴人、夫人からなる。
その下が正二品、八嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、容華、充華)。
今回月花が賜ったのは下から三番目の正四品、美人九人のひとりである。
さらに下には正五品の才人が九人。
一番下が中才人となる。
また、その下には長使、少使という、いわゆる女官が続いていく。
月花は皇帝に逆らうわけにもいかず、小料理屋をたたむいとまもなく後宮に召し上げられた。なんであんな子が、ひそひそと上の位の貴嬪たちが月花を見てあざ笑っていた。みな美しく、女官や下女を従えて、羽の扇で口元を隠しながら噂話をするため、どの妃たちが月花をあざ笑うのか、月花にはわからなかった。もしかすると、全部なのかもしれない。妃たちは当然、上等の絹の衣をまとっており、桃色、黄色、水色、青など、目に鮮やかだ。
「そうよね、私みたいな美しくもない女が」
月花が後宮に入るにあたって、ひとりの女官と下女がつけられた。女官は四十はいっているであろう優し気な面持ちで、名前を華(か)と言った。月花に対しても嘲笑するどころか、尊敬の眼差しを向けている。下女はまだ若く、十八歳である月花と同い年の、気弱な雰囲気である。おどおどしながら月花に拱手礼をするも、声がうわずっていた。
「ほ、本日より月花さまのお世話を賜りました、鈴(リン)と申します」
「そんなにかしこまらなくていいですって」
「そ、そういうわけには。美人に抜擢された、異例の優秀な側室だとお噂はかねがね」
だいぶ話が大ごとになっているようだった。月花は頭を抱えてその場に座る。豪華な椅子は彫刻が施されていて、つくえには翡翠の龍の置物が置いてある。煌びやかな天蓋つきの寝台には、西洋の薄織物(オーガンジー)で飾られている。
月花はこんな堅苦しいところよりも、厨房のような動き回る仕事が性に合っている。あの熱気に満ちた空間で、様々なにおいに囲まれて、あっちこっちの鍋をかき回したい。
「では、月花さま。まずは皇帝陛下にご挨拶に参りましょう」
華女官が月花に恭しくこうべを垂れた。月花はあわあわしながら華女官によって服を脱がされる。着の身着のままであがったため、月花の衣はいつもの綿の衣だった。料理の油のシミがあり、だから妃たちは月花をあざ笑っていたのかもしれない。
「え、え?」
「まずは、衣を着替え、ああ、お化粧も整えませんと。ほら、髪飾りをお持ちしなさい!」
華女官は月花を孫かなにかかと思っているらしく、鼻歌交じりに月花を着飾っていく。絹のすべらかな感触は肌に合わない。絹は確かに汗を吸うし肌にもいいが、月花は綿のほうが好きだと思った。綿ならば、いくら汚れても洗えるし、水で洗っても縮んだりしない。それに比べて絹は繊細で、頻繁に洗うことは叶わない。不衛生だ。結局月花には料理しか頭になく、月花はあれよあれよと襦裙を着付けられた。寸法がやや合わない。月花の身長は平均より低く、胸は大きい。窮屈な胸が零れそうなのを抑え込んで、華女官は一所懸命月花を美しく仕立てあげた。
「ま、待ってください」
「どうしました? ああ、この髪飾りはお気に召さず?」
華女官がぱんぱん、と手を叩くと、鈴が別の髪飾りを持ってくる。月の形をした簪を見て、「お名前も月花さまですし、これにしましょう」華女官が月花の結い上げた髪に、月の形の簪を挿していく。月花は華女官を見上げながら、
「……あの、私はもう、後宮の外には出られないのですか?」
「月花さま!? 月花さまはもう、美人の位なのですよ!? 外になど……それに、もうじき皇帝陛下の皇后選びが始まります。そうなれば、美人である月花さまも、その候補になる可能性は十分におありかと」
「そ、そんな……」
まるで監獄のようだと思った。月花はしゅんとうなだれて、華女官は月花の衣を整え、下女が化粧を施す。月花は元々世界を旅していたが、日がな一日料理を学んでいたから、日焼けすることのない月花の肌は、おしろいなど必要ないくらいに白かった。華女官は化粧される月花の後ろから、金色の冠簪を黒々とした髪の毛に次々と挿していくのだった。
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