第2話 男主人
簡素な家は、暴風雨が来たら今にもバラバラに崩れそうだった。だが、庶民ならなんら珍しいこともない。この国の皇帝がいくら善政をしこうとも、そう簡単に下々の生活がよくならないことは、皇帝を初めとした誰もが知っていることだった。
男は厨房に残る蒸かした芋を、男主人にこれ見よがしに渡した。ザルに二十ほどの小さな芋だ。
「これ以外、今日は食べていない。芋で食中毒なんて、聞いたことがない」
「いいえ、原因はこれだね」
男主人が断言する。男主人は芋をひとつ掴みとり、一口口に含んだだけで、断言した。含んだ芋はすぐに吐き出し、男主人は、うん、と頷く。なんの変哲もない、じゃがいもだ。これのどこがおかしいのか。いよいよ男は怒りだして、男主人の胸倉をつかんだ。その瞬間、男主人のまとっていた西域の衣がはらりとほどけた。現れた出で立ちは、柔らかな長い黒髪をまとめあげた、薄い茶色の瞳が美しい女だった。これには客も驚いて、口を開いて主人を眺めていた。
「女……? ご主人、アンタ、男だとばかり」
「いつ私が男だと?」
「だが、いつもは自分を『俺』と」
「それだけで私を男と断ずるには、いささか軽率すぎますね」
くっく、と一緒に来ていた客の男が笑った。主人と男は客の男を見やる。まるで幼子がおもちゃを与えられた時のような、無邪気な笑みだった。しかしこの客人、育ちがいいのか肌ツヤも髪の艶もよく、背も高くて体格がいい。顔が見えずとも、高貴な人間であることは予想がついた。客人が主人を真っ直ぐに見据える。
「ご主人……いや、ソナタの名前を聞いておこう」
「お客さんはいったいなにがしたいのやら。名前くらい、別にいいですけれど。月花と申します」
「月花。うん、月花。それで、この芋がなぜ食中毒だと?」
「はい、青いんです、どれも」
よく見ると、芋は小さなうちに収穫され、そのどれもが、青い。青い、というのは緑色という意味で、庶民はしばしば、売り物にならない、畑の土から出てしまった青い芋や、芽が出た芋を処理して食べるのだ。青くなるのは主に太陽に晒されるせいで、月花はこれが原因なのだと男に告げた。
「この芋の青い部分と芽には、毒が含まれるのです。そしてそれを食べると食中毒を起こす。そっちの男性のような、腹痛と吐き気と頭痛。これらはこの芋の典型的な毒の症状です」
月花の言葉を信じがたい男は、月花をにらみ見ている。ほかの村人は大丈夫であったのに、なぜ自分だけ。そう言いたげな男に、月花はふうと息を吐き出した。
「信じられるわけがない。この芋が毒だ?」
「はい。そう言ってます。そもそも、私の店の食事を食べたほかの人がなんともないのですから、アナタが食べたほかのものが原因であることは明らかです。そしてこの芋の毒は水溶性。茹でれば多少は流れるので食中毒にはなりませんし、芽は深く取れば問題はない。しかしアナタの芋は、蒸したものだし、芽もこそげただけです」
しかし男はかたくなに認めようとはしなかった。食中毒の原因は月花の料理に違いない、そうだ、とつぶやき月花はだんだんと面倒になる。こういう人間には、さっさっと返金をするのが得策ではある。しかし、それをしてしまえば月花の店の評判は落ちる。ひとのうわさほど恐ろしいものはない。飲食店は信頼で成り立っている。それは今までにたくさん見てきたし、だから邪険にもできなかった。
月花が思案していると、物見遊山でついてきた客人が、ひょいと青い芋を口に入れた。むぐむぐと咀嚼する客人に、月花が慌てて手を差し出した。
「あ……! だからそれは毒で! 吐き出してください!」
「よい、わかっている。だからこそ、だ。俺がこれを食べてこの男と同じ症状になれば、ソナタの疑いも晴れるのだろう?」
「だからって……はあ」
客人の動きは早かった。月花が止めるまでもなく残っていた子芋を十五ほど食べ終えて、さて、どしんとその場に座り込んだ。食中毒は早ければ四半刻(三十分)も経たずに症状が現れる。今回は大量に芋を食べたから、そう時間はかからないだろう。月花は頭を抱えて客人を見た。
「俺はまだ、あそこの料理を食べていない。ソナタが怒鳴り込んできたゆえに食べ損ねた。ああ、本当に腹が減っているから恨めしい。これで証明出来たらどうしてくれよう」
「はっ、ソナタ、この主人とグルか?」
男が問うと、月花が「とんでもない」と答えた。月花が身振り手振りで否定して、しかし男は余計に怪しんで月花をしげしげと見た。ぐるる、と男の腹が鳴り、男は腹を抱えて痛みに耐える仕草をする。
「この方は常連ですけど、それだけの仲ですよ」
「常連? 外套をまとっているのに、わかるっていうのか?」
「はい、最初に生年月日をお聞きしているので、大体は。この方のお生まれは、癸未の年(一五二七年)、戊午の月(七月)、戊申の日(二十一日)、戊午の日(十一時五十五分)です」
「あっているな」
「こちらの方……名前は知らずとも、生年月日は嘘をつきません」
「ああ、名前か。私は雨流」
「雨流さん、道理で五行がそろっていると思いました」
「五行?」
「はい、私のお店の付け合わせは、個人個人に合わせたものを出していることはご存じですよね?」
ある人には塩辛いものを、ある人には酸っぱいものを。おおよそ、その人の苦手とする味付けの料理を出している気がするのだが、どうにも料理次第でそれらはまるで別物のようにうまく感じるのだ。例えば、雨流の付け合わせは、いつも塩辛いものが多かった。特にみそ汁は興味深い。カリー以外にも月花の料理は豊富で、ニモノや焼き魚にはみそ汁がよくあう。雨流は月花の店のカリーが気に入りだが、それ以外であればみそ汁が特に好きだ。塩辛さの奥にある甘みと、感じたことのない海藻や魚の味が混じって調和している。具材に野菜を入れるのもいい。時にはトウフやアブラアゲなど、豆も入れるのだから驚きだ。
その、月花の料理には秘訣があるらしく、雨流は前のめりに月花の話に聞き入った。
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