第16話 策謀
それから5日後。
ラディッキオ砦のパラペットの上から、真紅の小鳥が一羽飛び立つ。
見たこともない珍種の鳥の姿に、農民兵たちは指を差して語り合った。
しかし、すぐに笑いに変わる。
それは、ただの小さな赤い布の切れ端が、風に煽られて空を舞っているだけであった。
副将デオラ・ド・エルネストから、それを報告されたクリューニ男爵は、葡萄酒の入った銀杯を投げ捨て、立ち上がる。
「やっとか!貴様は前線で歩兵の指揮を執れ、余は騎兵の指揮を執る」
デオラの口髭が、くいと上がる。
「陣営の守りは、如何しましょうぞ」
副将からの問いかけに、クリューニは口髭を整えながら不敵に答えた。
「揺動が必要か。そうよの…ここは勝負時」
「では…」
「全軍で出撃する!」
「御意に!」
ビューグルの甲高い音色が、丘の風に乗って疾走する。
砦の守備兵たちはパラペットの上から、歩み寄る敵兵の数の多さに驚愕した。
第一波攻撃の後は、しばらく小競り合いが続いていたが、今回の敵の突撃は、それをも上回る規模であることは間違いなかった。
傭兵部隊が三隊に分かれ、農民兵たちの間を仕切りのようになって、進んでいる。山を背後にした砦は、扇状に丘陵地に向けてカーテンウォールを開いている。今回の攻撃は、その全面を同時に攻め込むほどの勢いだ。
正面、やや右側から攻城塔。
そして、第一波攻撃の際には最前列にしか無かった梯子が、今回は後方の兵士たちまでもが担いでいる。
第一防壁を任された騎士は、剣を掲げながら、命令の伝達を命じる。
「引き付けてから撃つ!命令を待て!」
命令を聞いた者は、さらに遠方の者へそれを届けんと声を張って復唱する。
第一波と異なるのは、守備兵たちも同様であった。
弦をどこまで引けば、矢がどこまで届くかを、今では皆、心得ている。
この第二波総攻撃では、第一波のそれを上回る損害が、双方に生じることは明らかだった。
ビューグルが、全速突撃を命じる。
傭兵たちが、農民兵たちに突撃を命じながら、自らも遅れじと地を蹴った。
足音と叫び声が、巨大な音圧となって砦を攻め立てる。
砦からついに矢が放たれ、何くそと、攻め手も撃ち返す。
土が舞い、血が飛び散り、悲鳴と怒声が大地を揺るがす。
「梯子をかけろ!」
我先にと壁に取り付いたデオラが、兵士たちに命じる。
傭兵たちの動きは手慣れたもので、肩に矢を受けたくらいでは、その動きを止める素振りもない。
その傭兵たちに矢が集中するため、農民兵たちの動きも一変した。
「急げ、急げ!どんどん登るんだ!立ち止まるな!」
傭兵たちは、自らも梯子に手をかけながら、農民兵たちを鼓舞する。
煽られ続ける農民兵たちだが、すぐ隣に手本を示す者たちがいるだけに、第一波の時のような、もたつきがない。
叫びを上げながら、岩で顔を砕かれた男が落ちて来ても、気圧される前に梯子に手をかける。
「どうだ!?これほど一気呵成に攻め立てられては、対処の仕様もあるまい!」
200メートルほど後方から、騎兵隊を率いて観戦するクリューニは、頬を赤らめながら叫んだ。
「ほれッ!慌てるな!そこだ、そこが危ないぞ!もう登られてしまうぞ!気を抜くなよ!攻城塔に火矢を撃て!もう目の前まで、押し寄せてしまうぞ!」
守備兵側を応援するような素振りを見せると、愉快そうに手を叩いて笑う。
梯子を登る兵たちの姿は、まるでハチミツを見つけた蟻の大群のよう。数珠繋ぎとなった兵士たちは、登頂寸前となると、無惨にもハラハラと地面に落ちてゆく。
まるで本当に、蟻ほどの価値しか無いかのように。
「閣下ッ、正門が開きます!」
部下からの指摘で目を凝らせば、吊り上げ式の門の下部が、わずかに浮き上がり始めていた。
「ふんッ、やりおるではないか。期待はしておらなんだが…これで褒美を出さねばならなくなった」
「嬉しい誤算ですね」
「やかましいわッ」
独り言を語り掛けと勘違いした部下は、鞭で頬を叩かれた。
「騎兵隊、前進せよ!門扉が開けば、我らの番ぞ!」
一千騎の部下に命じつつ、クリューニは先頭で馬を駆った。
門が開き始めた事は、農民兵たちも気がついた。
なかなか、すっと上がらない門に苛立ち、両手で持ち上げる者たち。
すると、門の向こうから脛をポールアックスで斬りつけられて、ぴょんぴょんと飛び跳ねがら逃げ去る。
「これ、逃げるな!大した怪我ではないわ!まだ、足は付いておろうに!」
脛を鋭利な鉄で殴られた男は、クリューニ男爵に怒鳴りつけられ、涙を堪えて反転する。
しかし、男が再び門に手を掛けようとしたその瞬間、膝丈まで上がっていた門が、落下した。
轟音と地揺れに驚き、馬たちが嘶く。
「くそっ、なんて事だ!ほれ、見よ、閉じてしまったではないかッ!」
男を怒鳴りつけたクリューニの軍馬のクリネットに、ビシャリと音を立てて何かが落ちて来た。
彼は黙り、無言のまま、剣先でそれを持ち上げる。
棒状の鯨骨が絡まったそれは、元は白いドレスのようだ。
今は、赤い液体でぐっしょりと濡れている。
「しくじりおったか…」
クリューニは、その布切れを脇へと放り投げた。
「真下に、クリューニがいるぞ!」
「閣下、お引きを!」
無人だったパラペットの上に、守備兵たちがひょこひょこと顔を出し、一斉に弓を構えた。
「ちッ、体勢を整えおった」
クリューニの馬捌きは、卓越していた。
取り巻きたちが次々と射抜かれて落馬していく中、奇跡的にも無傷で後退を果たす。
ここまで来れば、ひとまず安心…というところで馬を返し、彼はバイザーを上げて戦況を確かめる。
数は少ないが、数本の梯子はかけられたまま。
そこを疲れ果てた兵士たちが、反撃されることもなく登っていく。攻城塔も、壁に取り付き、一列になった兵士たちが、次々と内部の梯子を登っている姿が見えた。
どうやら第一城壁は、突破することに成功していた。
副将の姿も見えない。
「デオラも突破したのか…だが、これでは勢いが足らぬ。一度に押し寄せねば、外枡で削られるばかりぞ…」
カーテンウォールの下には、夥しいほどの人が残されている。
倒れたまま動かない者。
怪我をして這って戻ろうとする者。
目をやられたのか、うろうろと徘徊する者。
つい今し方まで、雨霰と矢を放ってきた守備兵の姿も、すっかりどこにも見えない。
打って変わったかのような、戦況の移り変わり。
今まさに、枡形で繰り広げられているであろう激戦の様子は、彼の位置からは窺い知れない。
ただ、兵たちの喧騒と、ちらほらと見える梯子の先…。
それでも懸命に首を伸ばしていたクリューニの瞳は、小さな赤い炎を捕らえた。
「誰か、目の良い者はおらぬか!?あの赤いのを見よ!」
数騎が馬を寄せ、司令官の指差す方向へ目を凝らす。
「あれは、旗のようです、閣下」
「誰が振っておる、味方か?」
「騎士です…どうやら、体型的には、女性のような」
クリューニは鞭でクリネットをバシと叩いた。
「あの女騎士だ!」
馬は首を振ったが、クリューニは疑わなかった。
「アルノルドの守護は、依然として、余にあり、だ!」
「ですが、砦からは少し離れています。あのような崖の上に、一体、何があると言うのでしょうか?」
飲み込みの悪い部下のアヴェンテイルを鞭で叩くと、クリューニは騎兵たちに告げた。
「アムベリーの騎士が、突撃口を占拠したぞ!これより、あの崖の下へと向かう!遅れるでないぞ!」
言うが早いか、クリューニは馬の腹を蹴った。
突撃口とは、敵に見つからぬように密かに外へと出て、側面攻撃なり、夜襲なりで奇襲攻撃を仕掛けるための出入り口のことだ。大抵はトンネル状の通路を堀ることになり、故に細く長い造りになっている。
隠蔽されているため、外側からの発見は困難だが、内側からは難なく発見できるものだ。それに、狭い空間なので、少人数での占拠も不可能ではない。
クリューニは、全力攻撃のタイミングに合わせて、一計を弄していた。
実のところ、捕虜交換の名目でラバーニュに差し出したのは、ナタナエルの部下たちだけは無い。
彼らに託した任務の遂行を補佐すると同時に、監視もする役目だ。
農民兵に扮した彼らは、傭兵家業のクリューニが囲う、古参の傭兵たち。いずれも信頼のおける、強者たちだ。牢抜けの技術に精通した者も、当然、紛れ込ませた。
そして、彼らの任務とは…言わずもがな。
頭を悩ませたのは、その合計56名の自軍の兵士たちを、敵陣に潜り込ませるに至る、自然な流れだった。知恵を提供したのは、白いドレスを着た、金髪の娘だった。
裏切り者の血族を見せしめに処刑する芝居も、武具を捨てて大人しく従うくだりも、彼女自身が設た演出だったのだ。
砦を迂回して、草原を疾駆する一団。
それの先頭を奔りながら、クリューニは思案を巡らせる。
塔からは、彼らの動きは一目瞭然であろう。
だから、速度が要となる。
内側から城門を開こうとした部隊は、先刻、壊滅した。
別行動を取った女騎士の部隊は、城門を攻略しようとした部隊よりも、ずっと数が少ないはずだ。
突撃口に向かっていると知った守備兵は、女騎士たちと交戦となり、そして女騎士は長くは持たない。
だから、速度が要となるのだ。
失敗したと思った策には、まだ光明が残されていた。
この一筋の光を掴み取ることができれば、勝利は確定する!
難攻不落とされた、ラディッキオ砦を陥落たらしめられる!
傾斜を登り、森に入ると、木の枝に赤い布が巻き付いていることに気がついた。
「あの女、なかなかにやりおる!」
クリューニは目標を頼りに、山を駆け上る。
「閣下、道があります!」
「後ろから何を言う。当たり前だろうに…新参者は、使えん奴ばかりだ」
下生えが多く、隠されてはいるが、確かに踏み固められた道があった。馬を飛ばしても支障にならない程度の、最低限の行軍路。本来ならば、守り手が攻め手を襲うための下準備の成果であるはずのこの道を、攻め手であるクリューニは勝利を確信しながら、馬を駆る。
「閣下、あそこを!」
バイザーを上げたままのクリューニは、部下を振り向かずとも、それを目視した。
岩肌の隙間から、煙が上がっている。
近づくと、煙を吹き出す小さな洞穴の前に、アムベリーの農民兵たちが武器を手に、待っていた。
「さ、お早くッ!すでに敵に気づかれました!馬から降りて、こちらへ」
クリューニはアムベリーの農民兵に手綱を預け、馬を降りた。
「通路は、とても狭いでやすから、剣を振り上げなさると、天井に当たっちまいやす」
「奥で交戦が始まっております。お気を付けて!」
クリューニは良し、とうなづくと、投げ槍を持つように、と部下に命じる。
「あっしらは、外を死守しますんで、どうぞ、ご健闘をお祈りしやすです」
クリューニは良し、良し、あい分かったと、答えながら、部下たち数人を先導させた後に、自らも突入した。
ケホッ、ゲホッ…。
重武装の徒士となった傭兵たちは、煙を吸い込み、涙を流しながら、それでも奥へと進む。
等間隔に配置され、パチパチと燃える、松明の光が、白い煙の世界での道しるべとなった。
傭兵たちは、壁や仲間にぶつかりながら、よろよろと狭い通路を進み続ける。
どれほど進んだろうか…クリューニは、目眩を感じて膝を折った。
「グゲホッ、ゲポッ!この煙、どうにかならぬのか!」
瞼は勝手に閉じようとし、溢れ出した涙で前がよく見えない。
男爵のケツを、後続の傭兵が蹴飛ばした。
「すみませんッ、閣下。見えないもので」
地面に突っ伏した彼は、偶然にも、底の空気が澄んでいることを発見した。
「皆の者、身を屈めろ!煙の下の空気を吸うのだ」
やれやれ、これでなんとか、先へ進める…。
そう思ったのも束の間。
煙の下に身を潜める、砦の守備兵たちと目を合わせた。
クリューニは目をひん剥いて、息を吸った。
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