第15話 憐憫

 自分一人を残し、一族を皆殺しになされた彼女は、身を震わせながら、ゆかりのある縁者か、後援者の力を借りて潜伏生活をしていたのだろう。いずれ、どこか遠い土地へ移り住むつもりだったのか知れないし、あるいはすでに別の領主が治める土地に移り住んでいた後かも知れない。

 だが、恋仲であった男性と共にあったであろう事は、想像に容易い。

 その者は平民の男、というだけしか知られていない。

 金目的の派手で利己的な性分の男ならば、すぐに裏切って彼女を差し出していただろう。だが、そうはならなかった。地味な性格で、逆玉を狙うような野心家ではなく、それでいて身分を超えた恋に落ちるような男である。そんな男が、愛する彼女の境遇を知って、縋り付く恋人をたちまち離縁するとは想像しずらい。

 そして、そんな状況にあろうと、女性であらば安易に想像できてしまうものでもある。

 恐らく、彼女はずっと陽の光から逃げて生活をしていた。

 だが、男性は、そうはいかない。

 仕事をせねばならないし、目にする事のない恐怖に対して鈍感であることは、男の性である。

 だから、足がついたのは、男の方だった。


 私兵、おそらく傭兵が送り出され、彼女はたちまち捕縛されてしまう。

 長年、彼女の消息を追っていた城代は、さぞや歓喜した事だろう。

 これで、夜の闇に怯えることはせずに済む。

 宴の食事に毒が盛られていることも、街を視察中に突然、背後を刺される心配も、これからはしなくて済むのだ。

 長く、心を病んでいた骨が、ついに抜けたのだ。

 そしてそれは、積年の恨みへと変異していた。


 他にも生き残りが居るやも知れぬ。

 そう語る城代によって、彼女は執拗に拷問を受けた。

 だが、それが“彼女“の心を安らげるために行われている、狂気の沙汰であることは、砦にいる男たちはすぐに悟る。

 捕らえたのなら、速やかに処刑を。

 砦の男たち、政治的な重鎮、軍事的な要職、身の回りの世話をする者たちまで、それを望み、進言したに違いない。

 拷問を止め、安らかな死を与えるべきと。

 それをせねば、今度は自分が気が触れた、と後ろ指を刺されかねない状況となった。

 元々は、金で雇っただけであったはずの者たちも、長く領土を管理する仕事に就くことで、以前のような、単なるならず者生活では済まされなくなる。領土の経営、民心の掌握、部下たちの忠誠と組織の結束に心を砕くことができる者のみが、自然と組織の上層へと昇るからだ。

 もはや、単に命令すれば聞くだけの、取り巻きたちではなくなっていた。


 だから、処刑した。

 …と言う偽りを演じたのだ。


 その後も、人払いを命じたドンジョンの奥で、無惨な拷問は続けられた。

 後にそれに勘付いた者たちも、あえて公表を覆すような真似は控えた。

 僭主の執着と怨念を知り、誰もが目を瞑る。


 昼間は、人当たりの良い“貴婦人“を演じ、深夜となれば血で服を汚しながら、嬉々として人体を削る。

 猿轡の下であげる、その被害者の悲鳴を聴くたびに、“彼女“は自らが心を病むほどに苦しんだ恐怖から、解放された事実を実感し、歓喜した。成す術もなく、いいように身体を抉られるしかない哀れな女を見て、自らの生命の担保を得る想いであったに違いない。

 勝者は自分だ。

 この女の苦しみこそが、それを証明してくれる、と。

 “彼女“は、許しを乞う相手に、こう言ったに違いない。

 これは、お前の罪、だと。

 自分を長年、復讐の恐怖で苦しませた、お前が受けるべき報いだと。

 “彼女“の狂気は、女の心が壊れた後も、なお続いたに違いない。

 いつしか、それは愉悦へと変わり、快楽へと成長していった。


「胸糞悪い話だな!」

 ナタナエルが語り終えると、守備兵が床に唾を吐きながら感想を述べた。

「そうだな。だから、悪霊になっちまうんだろう」

「しかし、なぜ、そんな風に言い切れる?言い伝えとは、違う部分もあるぜ?」

「そこが、違和感の正体だ。僭主は、女だ。きっと、身代わりとして、男を旦那役に立てたんだろう。実質的な支配者は、貴婦人の方だ」

「正気を失った霊は、アプローチが難しい。でも、姐御の説明を聞いて、糸口が見えて来ました。扉を開けてください。恐らく、飛び出して来ようとしますが、慌てないで」

 守備兵は、後ずさりした。

「おい、本気か?扉が開いたら、逃げ出そうとするだろうが」

「でも、開けないと霊体を直視できない。強い怨念を持つ霊体は、周囲を洗浄した位では効果がない。目を見て、語りかけ、心に触れる必要がある」

 村人たちは、牢の一番奥に集まり、互いに抱き合って身を潜めた。


「開ける」


 鉄扉は、金属が軋むかん高い悲鳴をあげながら、ゆっくりと開けられた。

 グレイスは真っ暗な部屋を確かめ、その開かれた入り口で膝をつく。

 その後ろから、守備兵が手を伸ばしてランタンで中を照らした。

 小部屋の中央には、大きな木の椅子。

 そして壁には、無数の小道具が吊り下げられている。

 椅子はちょうど人が座っていたであろう部分が、黒く染まっている。

 だが、それよりも、目を引くものがあった。

 ナタナエルの瞳も、それを映す。

 椅子の上でゆらめく、白いモヤ…。

「…うぉ、いるぞ!」

 ランタンの灯りが揺れて、グレイスの影が部屋の壁を踊る。


 モヤがゆっくりと揺れた。

 まるで、気を失っていたところに、侵入者によって今、目が醒まされた、とでもいう風に。


 ボンッ!

 とモヤが突然膨れ出して、扉から飛び出した!


 守備兵たちが慌てて後退し、後ろの石壁に団子になって倒れ込む。

「この部屋からは、出られない。彼女は、そう刷り込まれている」

 グレイスはそう告げてから、クロエへの祈祷を始めた。

 モヤは部屋の中を暴れ回り、悲鳴をあげた。


 自分を苦しめる者が来た!

 また今日も苦しい時間が来る!

 気を失うまで、私を苦しめる!


 耳の奥から聞こえてくるような、胸を締め付けるような悲痛な叫びは、ドンジョンの中にいる者たちの鼓膜ではなく、心臓を痛めつけた。


 なぜ?

 なぜ?

 どうして?

 どうして…?

 こんなことを?

 なぜ?

 私が?

 なぜ?


 村人の中には、地面に倒れ、泡を吹き出す者もいた。

 耳を掻きむしり、爪を血で汚す者もいた。


「…」


 ナタナエルは、自分が胸を掻きむしりながら、床に両膝をついていたことに気がついた。

 グレイスは、真っ暗な部屋の前でひざまづいた姿勢のまま、首を垂れて動かない。

 震える膝を起こし、ナタナエルは末女の元へ這い寄った。

 肩を抱きしめると、彼女が静かに泣いている事を知った。


「そうか…でも、グェス、お前はよくやったよ。お前だから、出来たんだ。お前が今、ここにいなかったら、彼女は今でも…ずっと先まで、苦しみ続けていたはずだ」

 グレイスは、姉の甲冑に顔を埋めて、泣き出した。

 まるで、年相応の妹の姿。

 彼女を胸に抱き、ナタナエルはそっと、髪を撫でてやった。

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