第10話 散策
段々畑のようなカーテンウォールは、さほど高いものでは無い。
しかし、攻城塔の効果があるのは、最初の一枚までで、あとは飛び道具を受けながら、わいわいがやがやと、走り回るしかないのだ。
「この構造ならば、梯子を使ってショートカットをするべきだね」
「初戦は様子見のつもりだったのでしょう。クリューニ男爵は…次からは、そういう手に出てくるでしょうか?」
ナタナエルは、テラスペールに向き直って言う。
「可能性は、十分にあるだろう。何せ…」
テラスペールは、彼女の話の続きを待つ。
「優秀な副官が、前線に立っていたからな」
「優秀な…その者は、何というお名前なのですか?」
ナタナエルはひとまず間を置き、片目をつぶって少年の表情を見据えた。
「知りたいよな?どーしよっかなぁ…」
少年は、両手をもじもじさせながら、俯いた。
「いえ…ご無理にとは…!?」
少年が瞼を上げると、目の前に女騎士の顔があったので、慌てて顔を背ける。
「あら。そんな嫌わないでよ。冗談だよ。こっちも敵情視察を許してもらってるんだ。それくらいのお返しはするさ」
ナタナエルは、クリューニ男爵の懐刀の名を告げた。
「して、どれほど優秀なのでしょう?」
「ん〜、さぁねぇ…実際は詳しく知らないよ。会ったばっかだし」
そうですか…とテラスペールは肩を落とす。
「でもね、総司令官ってのは、矢の届かない場所にいるのが、鉄則じゃない?下手に怪我でもされちゃ、軍隊が崩壊しちゃうかも知れないから。でも、前線に立つ者たちは、下々の者が多い。そんな人たちは、常に被害者意識を胸に持っているもの。だから、一緒に前線に立ってくれる指揮官には、全幅の信頼を置いちゃうものだよ」
「…つまり、その役を、デオラ・ド・エルネスト卿が担っていると」
「まぁね、そんなとこだと思うよ。役割分担、というやつだね」
テラスペールの拳が、ぎゅっと握られるを見たナタナエルは、口元を緩めながら、視線を外した。滑らかな喉を露わに、傾斜沿いに上へと伸びる砦の深部を見上げる。
「別の塔があるのか。今度は、あそこに行ってみる」
「…わかりました」
ラバーニュが漏らしていた通り、守備兵たちの数は少ない。
砦前方に布陣した敵から、遠のくほどに、すれ違う兵の姿もまばらとなる。
扉を抜け、射手たちの持ち場となるギャラリーを進む。
「いつも、ラバーニュ卿は甲冑を着ていないの?」
それに返事をするテラスペールの高い声は、石壁に囲まれた空間によく響いた。
「いえ、そんなことはありません。今日のところは、再度の攻撃が無いと見込んでおられるのでしょう。明日にでもなれば、豪華な意匠を施した、絢爛な甲冑をご覧いただけるかと思います」
「そういう趣味なんだ。意外…」
ナタナエルは、少し幻滅した。
「それはそうと、怪我を負ってらっしゃる体で、卿とあれほどの徒手戦をなされるとは、僭越ながら感銘いたしました」
「そういえば、傷があんまり痛まないな」
立ち止まり、身体のあちらこちらを叩く。
「お眠りの間に、神官の皆様が、応急処置をしてくださいましたから。でも、痛みは残るはずです。経験があります」
「そうなんだ。処置が上手かったのかな…やっぱり、痛くない。痛覚が鈍った?」
「それは、いけませんっ!痛覚は大事です」
「石になったことに関係が?」
「いえ、それは、私は石になった経験がないので…分かりませんが、司祭様か、医師に診て頂かねば」
「別にいーよ。痛覚が鈍るのは、嬉しいじゃん」
「痛覚は、体の異常を知るための、大事なサインですよ!?」
ナタナエルはしばし、少年を見つめ、その頭をポンと撫でた。
「今の君には、まだ分かるまいよ。でも、心配してくれてありがとね」
「い、いえ。良いのですか?」
「いーの、いーの。あぁ…でも、簡単に負けちゃったなぁ…しばらく、忘れられそうにない!」
「とんでもありません!すごかったです!」
「そぉ?…私的には、結構ぉ、ショックだったんだけれどなぁ」
「あのラバーニュ卿が、すぐさまグラウンドに持ち込んだ、ということは、それだけ手こずった、ということです」
「何、主人の自慢かよぉ」
「騎士様たちの中で、グラウンドでラバーニュ卿に勝てたお方は、一人もいらっしゃいません」
胸を張る彼のおでこが、きらりと光ったかに思えた。
「ははッ…道理で」
些かでも心が晴れた気分で歩き出すと、テラスぺールとの距離を感じて振り返る。
彼はひととき、躊躇ったような素振りを見せたが、唇をつぐんで小走りに距離を詰めて来た。
しばらく進むと、人気がすっかり消え失せる。
古びた扉を前に、ナタナエルは尋ねた。
「ここは、さっき見た尖塔だな?」
「はい…貴婦人の塔になります」
「貴婦人…」
砦や城の塔には、それぞれに名前がある。戦闘中の慌ただしさの中でも、一言で伝わるので名をつけるのは当然なのだが、ネーミングセンスはそれぞれで、中には「悪魔の塔」や「死人の塔」、「呪いの塔」など、縁起でも無い名をつけることも珍しくはない。
「お入りになれば、お解りいただけるかと…」
「そ、じゃぁ、遠慮なく」
錆が浮いてゴツゴツとした取手を握り、建て付けの悪い木の扉を引くと、アリュールに重苦しい響きが轟いた。
テラスペールは、思わず肩を寄せた。
扉の内側は、上下へと続く螺旋階段だった。
埃の臭いが漂う。
「上がるか…」
「上がるのですか?」
ナタナエルはテラスペールを一度振り返る。
「別に降ってもいいけど」
「いえ、上に行きましょう!」
首を傾げながらナタナエルが木の階段を登り始めると、痛んだ底板がギシギシと鳴った。
「この区画が、一番古いんです。点検はしているので、落ちるようなことは無いかと」
灯りの無い真っ暗な階段を、二人は壁に手を当てながらゆっくりと登る。
一周した頃に、隙間から光の漏れる扉に行き着いた。
扉は、開かなかった。
「あ、侵入に備えて、外からの鍵を付けたと聞いています。忘れていました」
テラスペールが場所を変わり、手探りで鉄の閂を上げる。
「ありがと」
扉を開くと、眩い夕日が二人の視界を白く染めた。
やがて目が慣れると、豪華な調度品と、精緻な刺繍のタペストリーが壁を埋め、床には毛足の長い毛皮がびっしりと敷き詰められた絢爛な空間が出現した。
どれもこれも、大貴族の豪邸を思わせる、豪華な品ばかり。
しかし、どれもこれも埃を被り、色褪せ、毛皮はゴワゴワと固くなっていた。
ナタナエルはクリスタルガラスの窓を、次々に開け放つ。
冷たい風が吹き込み、重たい空気を押し去って行く。
窓の外には、新緑が芽生える山並みと、その合間から遥か彼方のクラーレンシュロス領の平野、反対側の窓からは、パドヴァの平野をも垣間見ることができた。
「この部屋は?」
ナタナエルの問いに、何か考え事をしていたのか、テラスペールは初め気付かず、問われていることを知ると早口で答えた。
「す、すみません。前の城代の奥方様のお部屋と聞いております」
「そうなんだね…」
クローゼットの一つに手を掛けると、テラスペールは「あッ」と声を上げた。
「…何?ダメなの?」
ナタナエルの声に、彼は目を泳がせる。
「古いので、壊れるかも」
「随分といい木材を使ってるみたいだから、平気だよ、きっと」
ナタナエルは、青くなった鋳物の取手に手をかける。
「も!」
彼は、またも慌てて声を上げる。
「も…とは?」
「あの、えっと、もう、暗くなりますので、そろそろ…」
ナタナエルは無視して、クローゼットを開いた。
風を入れないまま放置された衣服が発する、もったりとした、独特の臭いがした。
色褪せてしまっているが、どれもこれも、趣向を凝らしたあしらいの、まさに貴婦人のための衣装が並んでいた。
ナタナエルは衣装の間に手を差し込み、一通り、検める。
別のクローゼットも、同じようにびっしりと、古びた衣装が掛けてあった。
くるりと体を反転させ、テラスペールの前を横切ると、化粧机にどかと座り、引き出しを全部開け始めた。塗られていた蝋がすっかり劣化した引き出しは、開けるたびにギシギシと引っかかり、机の上の首掛け置きをカタカタと揺らす。
ナタナエルは、全て空だと確認すると、しばし埃で映りが悪くなった化粧机の鏡を見つめる。
「あぁ、大丈夫、ですか?」
「…大丈夫って、だから、何?」
「いえ、その…ぼぉっとしておいでなので、お気分でも悪いのかと…」
しばし、思案に耽るナタナエル…。
そして突然、椅子を立ち上がると、テラスペールの顔を見て告げた。
「下に行ってみる」
彼は、慌てた。
「いやぁ、いやぁぁ、嫌です!いえ、ダメです!禁止です!」
「何、どっちなの?」
「お願いです。ダメなのです」
「だから、どっち…」
「もう、城代の塔に帰りましょう。これだけ敵情視察できれば、御の字でしょう」
「やーだ」
女騎士は、腕を組んで口を尖らせた。
「話してくれないと、戻らない」
「話すって、何をです?もう、暗くなっちゃいますよ?」
「暗くなっても、帰らない。ここで、今日は一緒に泊まることにする」
「ここでって、えぇぇぇ…ちょ…本気じゃ無いですよね…困ったなぁ…」
テラスペールは、頭を掻きながら歩き回った。
しばらく、その様子をにやけ顔で見ていたナタナエルは、彼の説得にかかる。
「何か、困ったことが起きているのでしょう?…それも、どちらかというと、怖い類の話…」
とは言うものの、テラスペールは眉をへの字に曲げるだけ。
ナタナエルは、一度深呼吸をする。
女ばかりの5女に生まれ、他の家族よりも多くのものを見て、知ってきた。
そのうちの一つ。
女性が、男性から何かを得ようとするならば、その方法は、簡単だ。
同じことを言い続けるだけで、いい。
体も、金も、小細工もいらない。
ただ、繰り返すだけでいい。
相手が自分に好意を持っていたり、あるいは自分が目上の存在ならば、なお容易い。
相手が怒ろうが、呆れようが、そんな事は些細なことだ。
どうせ、すぐに忘れる。
ただ、繰り返す。
それだけで、手に入るのだ。
「聞きたいなぁ〜、どうしても、聞きたい!どんな、話なのかなぁ?呪いなのか、まじないなのか、はたまた…祟り、だったりするのかなぁ?」
「ほぼ、同じじゃありませんか。僕の口からは、言えません。決して、言いません」
「そんな事、言わないで。どうせ、話すことになるんだから、時間の無駄だよ」
テラスペールは、そっぽを向く。
「ほら、もう話しちゃいなさいな。大体、見当はついてるんだから。もう、ほらッ!私は、人を待たすのは何とも思わないけれど、人に待たされるのは、大嫌いなの!」
テラスペールは、観念したように肩を下ろした。
「それ、あんまり人に言わない方が、いいですよ」
「じゃ、話して。どの道、他の人から聞くことになるんだし」
彼はため息をついた。
「副長には、くれぐれもご内密にお願いします」
ナタナエルの脳裏に、ラバーニュに意見具申する騎士の姿が浮かび上がった。
「ずぅぇったい、言わない!」
テラスペールは、想像通り、チョロかった。
それは、この砦に伝わる因縁と殺戮と、恨み辛みの物語。
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