第8話 傷痕
「もう、やめなさいよ、ナーシャ」
白い土塗りの化粧が施された、城の中庭。
シェル・キープと言われる円形の天守の内側の空間は、城主の家族と庭師だけが入ることが許された、特別な世界。
ギャンビットの姉妹たちは、レースをあしらった普段着で、花を愛で、鳥たちの声を聞き、風を楽しみ、歌を唄い、小さな池のメダカを数え、恋の話に花を咲かせる。
階段の上で寄り添った姉妹たちの姿は、他所行きの華やかさがない分だけ、清楚な白い肌と金色の細い髪の輝きが際立ち、まるで湖のほとりで青年の心を弄ぶ、妖精たちの戯れを連想させた。
今日の彼女らの語り相手は、腹違いの末女ナタナエルだった。
彼女は、5人の姉たちとは、何もかもが違っていた。
陽に焼けた肌は、元々からして浅黒く、汗に濡れた髪は少しだけ黄色みを帯びた白。吊り上がった一重の瞼の奥には、鋭く光るエメラルドの虹彩。
デック・アールヴ。
魔術を研究する貴族たちの集会、学会が今なお編纂を続ける「戦記」の中に、一節だけ登場するエルフの古代種。友好的と仮定されているリョース・アールヴと正反対の立場、穢れに汚染された邪悪な気質を持つと言われるその血統が、彼女の中に潜んでいる。
姉たちが陰でそんな話をしていることを、ナタナエルは知っていた。
しかし、ある意味、それも仕方ないとも思う。
まだ少女のうちに、騎士になる夢を公然のものとし、こうやって毎日、欠かさずに剣を振い続けているのだ。町娘なら、身体の丈夫で気丈な娘と言われて済むかも知れない。しかし、ナタナエル・ギャンビットは貴族の娘だ。どんな社交場に出しても恥ずかしくない、礼節と気品、そして美しさが求められる。
求婚者が、それを望むのだ。
たくさんの男子を産むために、身体は丈夫なことに越したことは無い。されど、賢さと、武芸は、誰も求めない。
当たり前だ。
自分よりも賢く、武芸に秀でた奥方を、世の男性の誰が望もう。
そもそも武芸ならば、骨格と筋力に秀でた男性の方にこそ、元来の優位性がある。
戦士の役割を貴族が賄わねばならない謂れもない。実際に戦いともなれば、貴族が最前線に立つわけにもいかない。司令塔にもしものことがあれば、全軍の崩壊を招く以上、怪我をしない場所で頭脳労働に徹する事が、戦場での役割分担でもあるのだ。
そんな事は、分かっている!
ナタナエルは、鋭い突きの一閃で、今日の稽古の終わりとした。
「あんまり、当て付けのように振る舞われては、私たちにまでとばっちりが及ぶのよ。父様とは、仲良くしてもらわねばね」
「ねぇ」
「素敵な名前が泣いているわ」
ナタナエルは、綿の布で汗を拭うと、姉たちに視線を向けずに応える。
「無駄にする時間が無いだけ、夢を持つ事には意義があると考えます」
軽くお辞儀をしてから、着替えと浴のため自室へと向かう。
ナタナエルという名は、両親が付けた名では無い。
新妻が産んだ子が、待望の男子でないことを知った父は、ショックのあまり寝室を退出してしまったのだ。
名の無い赤子は、穢れに襲われる。
西方諸国のこの古い風習は、剣の神官たちが最も大事にしている事柄の一つ。だから、城内の小さな神殿の司祭を務める者が、慌てて父を追いかけた結果、名付け親となる名誉をもらって戻って来たのだった。
数年後、父の依頼を受けたという仕立て屋が、身体の隅々まで採寸を始めた時には、いよいよ輿入れ衣装の製作が始まったのかと、心を塞いだものだ。
だが、違った。
父から授かったのは、アコレード。
そして、代名詞となっている盾の他に、打ち上がったばかりの長剣と、顔を映し返すほど煌めく、立派な全身甲冑が、渡された。
そして、父は言った。
「悪いな、俺はまだそんな歳じゃぁ、ない」
ナタナエルの視界には、豪華なフレスコ画の天井と、自分を見下ろす男の姿。
見知らぬ男だ。
思わず手が出た。
その手を、すかさず男が握って封じる。
「痛て」
後頭部を蹴り上げた足を、別の男たちに取り押さえられた。
自分はベッドに寝かされ、その周囲にはマーリアを着込んだ6人の男たち。
「弄ぼうとは、私もいつの間にか魅力的に育ったもんだよ」
両手を押さえた男は、毛量の多い眉を片方だけ器用に上げてみせた。
「綺麗な手を握っているうちに、それもいいかと思えてきたが…お前には大金がかかっている。手篭めにしたくらいじゃ、その払いは済まされねぇぞ。自分の身体に、どれほどの自信があるのかは知らねぇがな」
ナタナエルは、自分の両手がすっかり元通りになっていることに、ここで気づく。
「魔法が切れた」
「その通り」
「他の味方たちは?」
「お前の味方は、あらかた捕虜にしたさ。司令官には逃げられたがな」
「大金って?」
「まぁ、話せる余裕があるんなら、一旦、落ち着こうや。手を離すぜ?」
ナタナエルは両手の自由を得ると、シーツをめくって自分の身体をあらためた。
「何も、裸にゃしてねぇよ。甲冑も、そこらにある」
ここは、狭い部屋だが、ドンジョンでもなければ、拷問室でもない。来賓用の寝室、といった設えだ。
ナタナエルは下着姿のまま、上半身を起こすと、男たちの手から足を引き抜いた。
中肉中背の、不敵で自尊心の高そうな男が、この部屋ではどうやら最上位のようだ。
服装は、孔雀の羽を少しだけ差し色に用いた、貴族の軍装。
背筋は伸びているが、身振りは粗野で、話し言葉も自然体…というか、街のごろつきを少し上品に教育し直した程度。
少しクセのある太い髪を、乱暴に後ろで纏めている。肌は焼けているが手首の内側を見るに、元々は白いのだろう。骨格は丈夫な類で、筋肉量は多め。特に両肩の鍛え具合が目立つ。体毛は濃いめだが、髭は綺麗に剃り落としている。
そして、顔の出来栄えは…良くもなく、悪くもなく…しごく普通の範疇だ。
青い瞳を向け、男はニンマリと笑いながら言った。
「どうした?惚れたか?」
「興味はある。一体、自分の身体のどこら辺に、そんなに自信を持てるのかってことに」
驚いたことに、笑い声を上げたのは部下たちだった。
「これはこれは、的確なご指摘に感謝を述べるよ。その分ならどうやら、頭の内側にも石が残ってるわけじゃなさそうだ。水を飲んで、身支度が出来たら、部屋から出て来い。俺たちは外で待つ」
ナタナエルは無理やり作った笑顔で返すと、男たちがずらずらと部屋から消えるのを待った。
最後の一人が扉を閉めるや否や、ベッドから飛び起きて、窓を確かめる。
クリスタルガラスがはめられた両開きの窓は、容易に開いた。
外は新緑が覆う、山並み。
見下ろせば、複数のカーテンウォールに縁取られた、段々畑のように並ぶ、外枡形。
少し離れた丘陵に整列する、クリューニの軍勢。
ナタナエルは身を乗り出して、窓の下を覗く。
わずかな幅だが、壁飾りが水平に伸びている。
横を覗けば、別の窓があった。
落下すれば、5mはあるだろうか…石瓦の尖塔にぶつかり、その後はさらに20mほど落ちて、石畳と抱き合うことになる。
ナタナエルは小さなサイドテーブルに置かれたままの水差しから、直接一口水を飲み込むと、両頬を叩いて窓枠に手をかけた。
壁飾りのわずかな足場につま先を下ろすと、初夏の冷たい風が肌を刺した。
下着が風をはらみ、はたはたと靡く。
石壁の隙間に爪を立て、慎重に窓枠を掴んだ手を離し、ゆっくりと移動を始める。
「バカなことをしている気がする…」
爪が滑り、石壁の粉を風に贈るが、なんとか落下は免れた。
深呼吸をして、再び足を少しだけ横へと滑らせる。
足の裏の筋が、痙攣を起こし始めそうになった頃、右手が隣の窓の枠を掴んだ。
ガチャ…。
両開きの窓の、向こう側が不意に開かれた。
そこからひょっこりと顔を出したのは、先ほどの男だった。
「外って、そういう意味じゃねぇぞ、アホなのか?」
「大した度胸だよ」
ナタナエルの手を引き、なんとか窓から部屋の中に引き込んだ男は、床で震える彼女を見て呆れた。
「しかし、外に開く窓を、簡単に入れるとでも思ったのかよ?てか、まぁ、設計ミスって事が証明されちまった俺も、おかげで面目が潰れたな」
身体が震えるのは、筋肉のこわばりと、体温の低下だけでは決してない。
ナタナエルは涙目で、男に問いかけた。
「あなた、何者なの?」
「そういう話をこれからしよう、ってつもりだったのさ。全く、女騎士ってのは、どいつも調子が狂うぜ」
男は自分の上着を脱ぐと、ナタナエルの頭に放り落とした。
「俺の名は、ラバーニュ・ローズルージュ。商人の家系だから、爵位はねぇが、ハインツ伯に仕える騎士だ。今はこの砦の城代をやってる。お前たちの、お相手さんだよ」
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