第6話 騎士

 われ先にと顔を出し、成長を競う新芽たちのむせ返りそうになる香り。

 白く熱い日差しに火照った肌を労るかのように、涼しげな風が肌を撫でる。

 初夏の林。

 流れの緩やかな、小さな川。

 いつもは暑苦しい全身甲冑で隠された男の肌は、今は濡れた肌着が張り付き、うっすらと透けて見えている。


 逞しい肢体。

 厚い胸板。

 綺麗な立ち姿。

 高い背丈。


 男は小川のへりに手を突っ込むと、急に泥の塊をナタナエルに向けて投げつけて来た。

 それまで静かに座っていた少女は、驚きながらも反射的に身を捩ってそれを躱わす。

「何を…」と言いかけて、少女は泥が暴れ出したのを見て叫んだ。

 それは、大きなナマズだった。

 小川の中で、男は腹を抱えながら笑った。


 ナタナエルの実家は、地方領主のギャンビット家。

 父は5人の子宝が、全て女性であることを嘆いていた。

 それでも一人目の妻とは良好な関係であったらしいのだが、妻は自身の年齢を理由に、夫に再婚することを薦めたと言う。

 再婚相手の生んだ、6人目の娘が、ナタナエルだった。

 その後、父は神殿に足繁く通い、男子の誕生を祈願したという。

 そうこうしているうちに、近隣諸侯らの領土争いが再発し、父も家を空ける日が多くなったそうだ。

 7人目となる、双子が生まれたのは、ナタナエルが14歳の時であった。

 そしてその日は、母の命日ともなる。

 

 ギャンビット家に仕える騎士は、もうすぐ子どもが生まれる母に、精が付くようにとナマズを生け捕って来たのだが、桶の中のナマズが食されることは無かった。

 数日後、すっかり元気を無くしたナマズは、ナタナエルによって川に戻される。

 それから、父は身体を病むようになり、自身の体調と反比例するかのように、娘たちに優しく接するようになった。

 5人の姉たちは、長女を残し、次々と近隣の有力家系へと嫁ぎ先を決めていく。

 そして双子が4歳を迎えた頃、すっかり行き遅れとなってしまっていた長女が、ジルネット侯爵家に嫁ぐことが決まった。


 ギャンビット家が築き、継承してきた家徳が、ジルネット侯爵家へと引き継がれることになった。

 

 片田舎のアムベリーの村だけは、ジルネット侯爵へは譲渡されなかった。

 父は、一際身体が丈夫で運動神経に長けた6女が、騎士になることを夢見ていた事を忘れずにおり、彼女だけには嫁ぎ先ではなく、領地を用立ててくれたのだ。

 アコレードは、父の最期の仕事となった。

 そこまでお膳立てを済ませ、父はすぐに他界する。

 父に仕えていた騎士は、ジルネット家には仕えず、いつの間にか姿を消してしまった。


 ナタナエルには、彼を捜す余裕も、失踪を嘆くいとまも無かった。

 小さな土地と言えども、突然やってきた女性騎士の領主に、村人たちさえ戸惑うばかりだったからだ。

 意気込むばかりで成果の上がらない領地管理だったが、ルイスという男が補佐を申し出てくれてから、幾分か心のゆとりを持てるようになった。

 領地を持つようになってから、2年目。

 ジルネット家に馴染めなかった双子が、転がり込んで来た。

 しばらく見ないうちに、双子はすっかり大人びていた。

 新天地に期待を抱いていた双子は、ナタナエルの悪戦苦闘ぶりを眼前にし、自らの将来を危ぶんだのかも知れない。父の遺言に従って、自ずから自己研鑽に努め始めた。

 7女のシャーロットは、学会から家庭教師を招き、8女のグレイスはここぞと思う神殿で修行を始める。

 いずれも父が生前、各々の得意分野はこれぞ、と指摘し、腕を磨くように諭していた事柄であった。それは、自らの天命を悟り、これ以上の援助を贈れぬものと覚悟したからこその、結果かも知れない。

 父の瞳は、双子たちの持つ天賦の際を正確に見抜いたのだ。

 双子の成長ぶりが、何よりそれを、証明していた。


 水路を新たに開き、農地を広げ、作物を厳選することで、次第に村の収益は増えていく。

 だが、双子の生活費、特にシャーロットの学費と衣装、装飾品、調度品にこだわる趣向…つまり養育費は馬鹿にならない。ナタナエルの毎日は、野良仕事と近隣の村や、航路を経てやってくる行商人相手の商談に費やされた。


 ある夜、ナタナエルの甲冑を磨きながら、ルイスがぼやいた。

「こうして毎晩、甲冑や武器の手入れを続けて参りやしたが…それも早5年、いつまで経っても傷ひとつ付くこともなく、全くもってやり甲斐を感じませぬだ」

 双子たちが見守る中、蜂蜜酒をちびりとやりながら、ナタナエルは彼に答えた。

「何なら、一度くらい、そこらに投げてもいいぞ。その方が、やり甲斐が出るというのなら」

 ルイスは手拭いを置き、反論した。

「お優しいのは、結構なことですだ。だども、俺は騎士に憧れてお仕えすっ事を申し出た身。ナタナエルは、ちっども騎士らしくねぇ。鍛錬すっ時以外、剣を抜いた姿を拝んだ事もねぇ」

「主人を呼び捨てにするとは…」

 安価な素材を自分でどうにか加工して、貴族令嬢風の衣装に設えたシャーロットが、急に立ち上がって叫ぶと、それをナタナエルが手で制した。

「今日は遅いから、明日、外で抜くよ」

 とぼけた返事に、ルイスは立ち上がって地蹈鞴を踏んだ。

「俺の言っでることを…もぅ、いいですだ!お暇をもらいやす!」

 ルイスはそう言い残すと、一人で家を出て行ってしまった。

「離縁する権利は、彼に無い」

 グレイスが静かに呟く。

「ルイスは家族だ。家族のいざこざに、権利も忠義も無い。その内、戻るさ。時期がくれば」

 ナタナエルは双子のため息を他所にそう告げると、好物の蜂蜜酒を静かに啜った。



 鬨の声とも、悲鳴とも区別できぬ叫び声をあげながら、農民兵たちがカーテンウォール目掛けて走る。

 いつまでも歩かされて気が揉んでいた者たちだったが、いざ緊張状態で走ってみれば、残りの200メートルさえも遥か遠方に感じられていた。

 ふらふらと走る、その人混み中で、思うように馬を飛ばせないでいるナタナエルの姿もあった。

「こりゃ、ルイスが喜ぶことになりそうだ」

 パラペットから降り注ぐ矢は、彼女のように馬を駆る者たちに集中した。

 魔法の加護の恩恵により、そのほとんどは逸れて地面に突き立ったが、それでも幾つかは甲冑の表面に当たって甲高い音を立てる。

 硬い筋肉で覆われたスカラムーシュのケツにも、1本の矢が突き立った。

 一方、名を呼ばれた従者は、喜んでいる所ではない。

 矢の洗礼は馬に乗った主人たちには向かわず、手綱を握る彼に集中していたからだ。

 右手に手綱、左手に盾を構えるルイスだが、奇跡による加護が無ければ、ひとたまりも無かっただろう。

 シャーロットは光弾を浮遊させ、射手たちの視界を妨害した。

 初歩の魔術で、負荷は極めて少ない。

 グレイスは、重傷者の治療のために奇跡を温存している。

 力のある魔法使いでないと知れると、射手たちの狙いは、10歳に満たない子どもたちから逸れ、全身甲冑を纏った騎士たちへと向けられるのだった。


「梯子をかけろ!矢を放て!矢の無い者は、石を拾って投げつけるんだ!梯子を登る者たちを援護!」

 疲労と喧騒が麻痺させるのか、肩や背中に矢を受けた者たちも、痛みを忘れて仕事に専念する。

 口を大きく開いて、一心不乱に梯子を登る者たちは、パラペットから落とされた岩が頭を襲うと、たまらず手を離してしまい、地面へと落下する。

「重傷者は後方へ運び出せ!捨て置くな!」

 ここまで来てしまうと、一度、後方へ戻れるからといって喜ぶわけにもいかない。

 上方から視線を下ろし、軽装とはいえ、武装した男を担ぎあげるまでの恐怖感と言ったら無い。

 首筋や背中を矢に貫かれずに、運良くそれに成功したところで、盾をかざす事もできないまま、今度は背中を向けて、えっちらほっちらと去らねばならないのだ。

 そして、疲労困憊で負傷者を下ろせば、息を整える間も無く、前線へ戻れと指示される。


「負傷者を運ぶ者たちを守れ!」

 ナタナエルは、その背中を守るため盾を翳して馬を割り込ませる。

 その時、後方へ目線を向けて、はっと驚いた。

 つい先ほどまで、後方にわんさといた味方たちが、いない。

 あたりを見渡すと、農民兵たちは三分割され、離れた場所にあるカーテンウォールに取り付いている。

 どうやら興奮して、ビューグルを聴き逃していたらしい。

 パラペット上へ視線を戻せば、守備兵たちが慌てて移動している。

 一度に攻め入る人数の厚みは失ったが、代わりに守備兵たちを分散させることには、成功しているのだ。


 ナタナエルは馬から飛び降りると、農民兵たちを掻き分けて、梯子に手をかけた。

「姉様っ!待ってください、あまり離れると…」

 シャーロットは精一杯の声で叫ぶが、喧騒にのまれて、その細い声は届いた様子がない。

「ダメですだ!馬からは、絶対に降りちゃならねぇ!」

 シャーロットが身を乗り出したのを見て、ルイスは血相を変えて怒鳴りつけた。

「ロッテ姐、落ち着いて。姐御は騎士。あれが仕事」

 グレイスも、後ろからシャーロットの体に抱き付く。

「でも、でも…姉様がッ…」

 悲痛な想いを視線にのせて、シャーロットは梯子を登る姉の姿を見つめた。

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