第2話 開戦

 ひゃばい

 ひゃばい

 ひゃばい

 ひゃばい

 ひゃばい…。

 薄目を開いた恍惚とした表情で、灰色の猫がナタナエルの刈り上げた側頭部を舐め続けている。

 猫は彼女の屋敷に勝手に住み着いた半野良で、妹たちは彼をシャグリと名付けた。

 ヤスリのような猫の舌が、耳元の生え際を擦り上げると、ナタナエルは片目を瞑って鈍い痛みに耐えた。

 耳からは猫の舌の音と、シャグリが喉…なのか鼻、なのか…グルグルと鳴らす音。そして頭蓋を伝って聞こえる「ジョリッ」という摩擦音、その三つの音をナタナエルは同時に聴きながら、朝食の大麦パンを口に含む。

 彼女も、妹たち同様に、猫は嫌いではない。むしろ、犬よりも猫が好ましい。

 だが、後ろ足を椅子の背もたれに、前足を彼女の肩に乗せながら、左側頭部だけをひたすら舐め続ける猫の健気さに、嬉しさ半分、迷惑半分、の微妙な気持ちだった。

 シャグリが側頭部を狙い撃ちする理由だが、それには見当がついている。

 父親譲りの銀髪を、未婚女性である証とされる西方諸国の慣わしに従い、長く伸ばしているのだが、アーメットを被って汗をかくことが多い彼女には、それがどうにも煩わしい。

 そこで思いついたのが、両サイドだけ地肌が見える程度まで刈り込んでしまおう、という斬新なヘアスタイルだった。どうせ頭頂部の髪で隠れてしまうのだから、誰にも気づかれまいと考えたが、それはどうやら浅はかだったようだ。

 妹たちからは罵声が雨霰と降り注がれ、シャグリはすぐにここに目をつけた…というか舌をつけた。

 長い髪を舐めると舌の突起に髪が絡んで、それはシャグリとしても如何ともし難い境遇であったからで、今の剃り込んだ頭皮を舐めてご奉仕するひとときは、彼にとって胸中の想いが叶うものだったのだ。

 それ以来、毎朝の日課となったのが、この光景であった。

 ナタナエルは顔を動かさないように注意しながら、水で薄めたハチミツ酒をちびりと口にする。


「またシャグリといちゃついているのですね」

 開けたままの扉から妹がやって来て、シャグリの脇を掴んでナタナエルから引き剥がす。

 抱き抱えられたシャグリは、今度はぷっくりと空気を含んだ妹の頬に舌を伸ばした。

「あははッ、痛いです」

 目の覚めるような美しい金髪は、クセの所為で少しカールしている。浅黒い肌質のナタナエルとは対照的に、7女のシャーロットの肌は、まるで雪原のように白い。レースとフリルを好み、鯨骨で膨らませたクリノリンスカートは、彼女をまるで人形のような印象に仕立てている。

 彼女の外見と趣向は、母親譲りなのだ。

 シャーロットはシャグリの鼻頭にそっと口付けすると、ナタナエルに顔を向けた。

「あぁっ!あぁぁぁッ!姉様ったら、何てことを!」

「何だよ、慌てて、どうした?」

 シャグリは大声を上げるシャーロットの手から水のように逃れ、地面にスタリと降りて遠ざかる。

「どうしたのかは、わたくしが聞きたいことですわ!そのグラス、わたくしのアラバスターです!」

 ナタナエルは、手にしたやや翠色を帯びた乳白色のグラスを見て、空いた方の手で、指を差す。

「ぇぇ、ええ、まさに、それですわ!いちいち、再確認せずとも、すぐにお察しでしょうにね!」

「グラスで酒を呑んで、何が悪い?お前が欲しいと言うから買ってやったのに、一度も使わないじゃないか。それじゃ、グラスが可哀想だ」

「なら、せめて他のにしてくださいまし。それは、パヴァーヌ王都で流行りの高級大理石なのですよッ!需要に供給が間に合わず、近年ではさらに、入手が困難で取引価格も高騰の一途を…」

 近寄る一方の妹の額を、ナタナエルは人差し指で押し退けた。

「シャーロット、いいか、聞きたまえ。流行り物の価値は、時の経過と共に必ず、落ちる。必ずだ。最も価値の高い時に、戸棚にしまって置くよりも、最も価値ある時に使うことの方が、よほど有意義であり、このグラスにとっても幸福な事だとは思わないのか?」

「思いませんッ。早く、綺麗に洗って戸棚に帰還させてあげてくださいまし」

「シャーロット…」

「姉様ぁぁぁ…」

 シャーロットの金髪が、ふわりと逆立ち始め、冬の空のような瞳には、うっすらと紅く光る線が輪のように現れ始める。

「…わかったよ。もうしない。てゆーか、そんな時間はもうないだろ?」

 ぷっと頬を膨らませたその顔に、ナタナエルはゲンナリする。

「大事な朝だというのに、いつまでも呑気にくつろいでいる姉様の所為ですわ」

 ナタナエルは左側頭部を手で擦り、その臭いを確かめてから、めんどくさ気に応える。

「もう、準備は終わってるよ。これ飲んだら、行くつもり」

「姐御の略奪のおかげで、兵糧もバッチリ。ルイスもすっかりやる気満々のご様子」

 もう一人の妹、8女のグレイスが大きな背負い袋を担いで現れた。

 こちらは6女のナタナエルと似て、銀髪に色黒。瞳も同じ、エメラルド。髪は三つ編みにしてから、後頭部に結い上げている。おめかしに頓着せず、動きやすい服装、汚れても目立たない色合いを好む。

 しかし、無表情で淡々と話す口ぶりは、彼女のユニークな部分だ。

 シャーロットとはまるで対照的に見えるが、二人は双子であり、相性はすこぶる良い。

「略奪とか言うな、人聞きの悪い。敵兵から奪取した戦利品、という話にすると決めただろう」

「それはつまり、略奪品」

 グレイスは指を立てて言い直す。

「…確かに」

 ナタナエルはあっさり肯定すると、再びハチミツ酒の杯をちびり。

「もう、姐さま!飲むならとっとと、飲んでくださりまし!」

「みんな、外で待ってる」

 ナタナエルは口を尖らせ、残りのハチミツ酒を名残惜しげに眺めてから、一気に飲み干した。

 やや乱暴に、空いたアラバスター杯を樫のテーブルに置く。

「あぁ、もぅ!乱暴ですわね!わたくしが洗っておきますから、姉さまは外へ出てください」

「手が焼ける姐御を持ったものだ」

 8歳の双子に急かされて、22歳の6女は、渋々席を立った。

 彼女が身に帯びる甲冑が、やれやれと愚痴をこぼしているかのように音を立てた。

 油で煮しめた革製の鞘を腰の装備帯に結ぶと、机の上に無造作に投げ出されていた長剣を格納する。

「どうぞ、姐御」

 グレイスからアーメットを受け取ると、それを小脇に抱え、ナタナエルは屋敷の正門の扉を開ける。


 早朝の湿り気を帯びた空気の中、屋敷の前には大勢の人々が、思い思いの武装を手に、群がっていた。

 兵士に扮した領民たちは、盾や農具を鳴らしながら、歓声を上げる。

「騎士ナタナエル・ギャンビットに栄光あれ!」

「アムベリーに勝利を!」

 端から端まで、静かに一同の顔を眺めたナタナエルの口角が、くいと引き上がった。


 短い訓示を述べ、天高らかに腕を振り上げる6女の姿を、双子たちは扉に寄りかかって眺める。

「あっという間に、やる気が出た…」

「あの歳にもなって、あぁもお調子者だと、些か先行きが不安ですわ」

 


 西方諸国、そこは人族たちに残された最後の楽園。

 竜と魔導師たちの戦争で、土地を穢してしまった彼らの祖先は、新天地を求めて海に出た。次々と出航していった船団の一つが、飢えと病、そして魔物たちの襲撃に脅かされながらも、九死に一生を得て辿り着いたのが、この土地であったのだ。

 土地を拓き、人を増やし、集落は増え、やがていくつもの王国となり、それらが帝国へと集約され、そして滅び、分断し、幾つもの王国と諸侯たちが治める、現在の姿となった。

 暗がりから人々を狙う魔物たちと生存域を掛けて争いながらも、人族同士の領土争いもまた、一向に沈静化する翳りさえない。


 ナタナエル・ギャンビットが治める小さな農村は、西方諸国南部、ラステーニュ地方の一角に位置する。

 その名は、アムベリー。

 豪族であった父から割譲された土地であるが、今は故あってジルネット侯爵家に帰属している。

 地勢は、アマーリエ地方とパドヴァ地方を東西に分つ川の辺りにある高台の村。バヤール帝国時代の崩れかけた砦が残ることだけが、唯一の風物詩。森と川の恵みを頼りに、木材・毛皮・木炭・陶器などを売って生計を立てていた。傾斜地に大麦を育てているが、海からの南風が雨を多く降らせ、収穫は芳しくない。真冬となれば雪に閉ざされ、川は凍るために、越冬のたびに備蓄を危惧しなければならない貧相な村だった。

 さらに、周辺の情勢もあやしい。

 西に、軍事大国パヴァーヌ、北西には諸侯同士の小競り合いが常態化して久しいカンピーノ侯領、東には傭兵男爵として意気を吐くクリューニとランゴバルドの二人、さらにその先には、武門の雄と謳われるクラーレンシュロス伯領と、まるで煮立った釜の中、とも言える地域だ。


 今回は、その釜の東に、火が付いた。


「それにして、ジルネット侯爵も存外、不甲斐が無いものですわ。傭兵風情に媚を売るなど…」

 シャーロットはレースをあしらった白い日傘を差しながら、若草に覆われた丘陵を歩く。

 まるで、貴族令嬢による午後の散歩の風情である。

 彼女の背には荷物はなく、首元には旅と幸運と美の守護神、風のセレスティーヌのトリスケルがブローチとなって日差しを反射する。

「いつの時代も嵐が人々の安寧を破壊する。我々無力な民たちは、嵐が過ぎた跡に道徳の種を蒔き、再び芽吹くように努力することをひたすら繰り返さねばならない。次の嵐が全てを駄目にしてしまう前に」

 大きな背負い袋を担いだグレイスは、抑揚のない声で姉に応える。首元には、無地の円形、終焉の神クロエのトリスケルが下げられている。姉のシャーロットとの違いは、紋章の有無の他に、もう一つある。それは、シャーロットのチェーンが簡素な銀製な事に対し、グレイスの首紐には丸く磨かれた石が、数珠状に連なっている事だ。祈りの回数を数えるためのそのストーンビーズは、神官位を持つ者にしか、所持を許されない。

「二人とも、そう愚痴るな。ようやっとよ。ようやっと、ナタナエルが騎士様らしい威勢を見せたっちゅうに。そうやって、ちゃちゃばかり入れんでくれ」

 武装が詰まった大きな荷物を担ぐ、大柄な男が横槍を入れた。

「もとはと言えば、ルイス、あなたが仲間と連んで軽率な行動に出るものだから、民たちの心に火が付いてしまったのですわ。いくらジルネットの叔父様に請われたとて、民たちに煽られでもしなければ、姉様は農民兵を引き連れての参戦までは、決意しなかったはずです」

 シャーロットの愚痴をグレイスが引き続く。

「物資と糧食の補給…それも困難であれば、飯炊き人と洗濯女の派遣…」

「何だべさ、お前たちだって、最終的には賛同してくれたっぺ」

 黒みがかった肌に、短く刈り込んだ白髪。背が高く、鍛え込まれた体躯の男は、両手を広げて双子に抗議した。

 シャーロットは日傘を畳むと、それで男の顔面を引っ叩く。

「わたくしは、わきまえなさいと言いたいのです。馬丁から従者に取り立ててもらったとは言え、あなたはまだ、ギャンビット家に仕える身なのですから。立場が上がれば、それだけ責務も多くなるのですよ」

 シャーロットとルイスが急に止まったため、普段着に不揃いの武装を担いだ男たちの列は、渋滞し始めた。

「いや、だから辞めてから、商隊を襲ったんだべさ」

「馬鹿おっしゃい。あなたの一存で進退を決められたら、それは誓約とは言いません」

「一時の利得のため科せられた足枷は、いつになれば塩と化して消えてくれるだろう…」

 グレイスの言葉に、ルイスは何かを言いかけ、しかし口を紡いだ。

「なーにしてる?疲れたのか?馬に乗せてやるから、早く来い」

 先頭を騎馬で行くナタナエルは、距離が離れた双子に声をかけた。

「グェス、いくらなんでも三人乗っては、スカラムーシュが可哀想ですわ。ここは、年功序列で行きますわよ」

 妹にそう告げると、シャーロットは春風のように駆け出した。

「ずるい、歳は同じ」

 大きな荷物を揺らしながら、グレイスもその後を追う。

 ルイスは、その双子の後ろ姿を見つめながら、つぶやいた。

「いくら聞き分けのない姉妹と言え、戦場に行くだに。まだ10歳にも満たないっちゅうに…貴族ってのは、難儀なもんだべさ」

「お前が、頼りねぇからだっぺよっ!」

「痛っ」

 ルイスの後頭部を、後ろの男たちが引っ叩く。

「しっかりしろ、騎士様に仕えるのが長年の夢だったんだべよ」

「そうだがっ…そうだが、ナタナエル様はこれっぽっちも騎士らしくねぇ」

「だぁから、これから騎士の仕事をしに行くだべさ。初めての戦だろうが。お前が支えてやらにゃ、あの双子に全部、持ってかれちまうべさ。お前ぇは何のためのここに居るんじゃ」

「ち、わかってるべ、そんくらい。この命を捧げてでも、お力添えする覚悟なんだよっ!一攫千金を夢見るような、お前らと一緒にすんなべさ」

「あんだとぉ…なんか、俺っちを馬鹿にしてるみてぇな言い分じゃねぇか」

 額をすり合わせる男たちを引き剥がしながら、別の男が落ち着いた声で言う。

「とは言え…俺たちの領主様が、どっか頼りねぇのも確かだ。だが、ここまで来ては、もう引き返せねぇ。もし戦場で領主様に名折れがあっては、俺たちの村の未来にも関わるべ。だぁら他人事じゃ、ねぇんだ。三姉妹のことを、俺たちは全員で支えねばならねぇ」

「…お守りするさ」

「そう…全員でな」

 村人たちは、歳の離れた姉の馬にしがみ付く、双子の姿を見てうなづいた。

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