束の間の幸せ
ニ
「……え?」
目が覚めると、そこは6年2組の教室だった。
学校を出る前と同じく、教室は蜜柑色に染まっており、目の前の机には私のものと思われる赤いランドセルが置かれている。
「どうしてまたここに……私、トラックに轢かれたはずじゃ……」
いや、はずじゃない。確実に轢かれていた。
だけど、身体には痛みも傷もない。あるのは、トラックに轢かれたという記憶だけだ。
「もしかして……」
この夢の中で死ぬと、自動的にこの場所、この時間に戻って来るようになっているのだろうか。
もしそうなら、これはかなり都合が良い。
やり直しが利くということは、あらゆる選択肢を試すことが出来るということだ。
失敗したり、気に食わなかったりしたら、自殺することによってリセットし、またこの場所と時間からやり直せばいいのだから。
でも、この現象の発生に、私が死ぬこと以外に必要な条件がないとは言い切れない。それに、死んだ時の記憶はそのまま引き継がれる。無闇やたらに死ぬことは避けておいた方が無難だろう。
それに、だ。
私が今やるべきことは、そんなことじゃない。
事故に遭わずに帰宅し、元気なお母さんと会うこと――それこそが、私が最初にやるべきことだろう。
「……帰ろう」
私は机の上に置かれたランドセルを手に取り、肩に掛けた。黄昏色に侵食された廊下に出て、一階を目指して階段を下りる。下駄箱に向か――
「車戸」
――おうとしたタイミングで、誰かに声を掛けられた。
振り返り、声の主を確認する。
黒縁の眼鏡を掛けた、40歳くらいの細身の男性教諭――確か、算数の東屋先生だったはずだ。
「どうした、こんな時間まで残って」
話しながら、東屋先生が近付いて来る。
「あー、えっと、その、教室に忘れ物しちゃって」
「そうか。気を付けろよ。この間、1組で盗難事件があったばかりなんだから」
「そうでしたね。すいません、気を付けます」
そう言って、私は頭を下げた。
それにしても、私が6年生の時に盗難事件なんてあっただろうか。まあ、15年も前のことだし、覚えていないだけかも知れないが。
「それじゃ、先生職員室に戻るから。車戸は気を付けて帰れよ」
「はい。さようなら、東屋先生」
私が頭を下げたのを確認してから、東屋先生は離れていった。
「気を付けて帰れ、か」
確かに、東屋先生の言う通りだ。
私は下駄箱からスニーカーを取り出し、足を通した。学校の玄関口から出て、夕暮れに照らされながら、前回とは異なる道で自宅を目指して歩いていく。
「……着いた」
1回目に出会った不審な男とも出会わず、トラックに轢かれることもなく、自宅の前まで来ることに成功した。
「……ただいまー」
少しだけ緊張しながら玄関の扉を開くと、私の大好物であるカレーの甘辛い香りが鼻をくすぐった。どうやら、お母さんが夕飯のカレーを作っているようだ。
リビングに繋がる扉を開き、中に入ると、そこにはキッチンで料理をするお母さんの姿があった。
まだ生きている、活き活きとしてるお母さんが。
「お帰り、メイ。今日は珍しく遅かったわね」
まだ髪の黒いお母さんが、私を見て微笑む。
一方の私は、懐かしくて、また会えたことが嬉しくて仕方なくて、無言でお母さんに抱きついてしまった。
もう二度と感じることのないと思っていた香り、感触に、思わず涙腺が緩みそうになる。
「どうしたの、メイ。もしかして、学校で何かあったの……?」
「ううん、違うの。ただ、こうしたくなっただけ」
私がそう言うと、お母さんは私の髪を優しく撫でてくれた。
「あらあら、今日のメイは珍しく甘えん坊ね」
そんなお母さんの言葉を、私は無言で受け入れた。
子供の頃は大嫌いで、甘えようなんてこれっぽっちも思わなかった、しかし、今では誰よりも会いたかったお母さんの言葉を。
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