第12話 安永8(1779)年2月21日 家基、最期の鷹狩り ~家基を守れなかった者たちへの「つるし上げ」~

 西之丸にしのまる大奥おおおくへと家基いえもと搬送はんそうされ、母堂ぼどう於千穂おちほかた寝所しんじょである新座敷しんざしきにてかしつけられたちょうどそのころおなじく西之丸にしのまる表向おもてむき中奥なかおくにおいては夫々それぞれ、「つるしげ」がおこなわれていた。


 家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうした面々めんめん西之丸にしのまるにて留守るすあずかっていたやからから「つるしげ」をけていたのだ。


大目付おおめつけ筆頭ひっとうたるそなたが大納言だいなごんさま放鷹ほうようしたがたてまつりながら、こともあろうに大納言だいなごんさま不例ふれいおちいらせるとは、なんたるザマよっ!」


 大目付おおめつけ松平まつだいら對馬守つしまのかみ忠郷たださとは、


「ここぞとばかり…」


 相役あいやく大屋おおや遠江守とおとうみのかみ明薫みつしげをそう責立せめたてた。


大納言だいなごんさま不例ふれいおちいらせるとは、うぬは大目付おおめつけ面汚つらよごしぞっ!即刻そっこく道中どうちゅう奉行ぶぎょう返上へんじょうしたほうかろうっ!」


 道中どうちゅう奉行ぶぎょう返上へんじょう、それはとりもなおさず、


大目付おおめつけ筆頭ひっとうからりろ…」


 松平まつだいら忠郷たださとはそう言っているわけで、そのこころは、


「そのわり、このおれ道中どうちゅう奉行ぶぎょう兼帯けんたい大目付おおめつけ筆頭ひっとうになるのだ」


 そのようあさましい欲望よくぼうかくれしていた。


 それにたいして大屋おおや明薫みつしげはと言うと、そのかん、ずっと松平まつだいら忠郷たださと罵声ばせいえていた。


 それは奏者番そうじゃばん井伊いい兵部少輔ひょうぶのしょうゆう直朗なおあきらにしても同様どうようであった。


 井伊いい直朗なおあきらもまた、相役あいやく井上いのうえ河内守かわちのかみ正定まささだから「つるしげ」られていたのだ。


 井上正定いのうえまささだ場合ばあいさら踏込ふみこんだ「つるしげ」と言えた。


おの田沼家たぬまけ所縁ゆかりもの…、それゆええて大納言だいなごんさま故意こい不例ふれいおちいらせたのではあるまいか?」


 正定まささだにそうまで切込きりこまれては、それまでだまってえていた直朗なおあきら流石さすが聞捨ききずてならんとばかり、「なに?」とおもわず反駁はんばくした。ここでこえげないことには、おのれ故意こい家基いえもと重体じゅうたいおちいらせようとしたとする正定まささだ主張しゅちょう、もとい暴論ぼうろんみとめることになるからだ。


「されば田沼主殿たぬまとのもめはおののままにはあやつれぬ大納言だいなごんさま将来しょうらい上様うえさま御成おなりあそばされてははなは不都合ふつごうと、左様さようかんがえ、それよりは大納言だいなごんさまとは正反対せいはんたいおののままにあやつれる清水宮内しみずくないきょう殿どの上様うえさま御成おなりあそばされたほう好都合こうつごうと、そこで主殿とのもめは大納言だいなごんさま放鷹ほうようおりねろうて、大納言だいなごんさまがいたてまつらんと…、一服いっぷくらんとほっして…」


「この井伊いい兵部ひょうぶめがかる姦計かんけいしたとでももうすかっ!」


 直朗なおあきらこえ張上はりあげた。


 だが正定まささだいささかもどうずることなく、「左様さよう」と平然へいぜん首肯しゅこうしたうえで、


最前さいぜんもうしたとおり、そなたと田沼主殿たぬまとのもめとは縁戚えんせきにて…、いや本家ほんけ彦根ひこね井伊家いいけにしても当主とうしゅ大老たいろうしょくねろうておるとのもっぱらのうわさぞ…、さればそのためにはなんとしてでも田沼主殿たぬまとのもめが助力じょりょくかせず…、その意味いみでは井伊いい一族いちぞくそのものが田沼主殿たぬまとのもめと一心同体いっしんどうたい関係かんけいにあるとももうせようぞ…、なればかる田沼主殿たぬまとのもめが大納言だいなごんさま暗殺あんさつ毒殺どくさつはからんといたさば井伊いい一族いちぞくもこれにしたとしてもなん不思議ふしぎではなかろうて…」


 正定まささだあまりの暴言ぼうげん直朗なおあきらつい堪忍袋かんにんぶくろれたらしく脇差わきざしをかけた。


 これには正定まささだ流石さすがにたじろいだ。


 これで西之丸にしのまるはた奉行ぶぎょう小野おの日向守ひゅうがのかみ一吉くによし直朗なおあきらせいしていなかったならば、あるいは直朗なおあきらさやはしらせていたやもれぬ。


 さいわいにも小野おの一吉くによしがその直前ちょくぜん寸前すんぜんで「井伊いいさまっ!」とこえ張上はりあげ、直朗なおあきらわれかえらせた。


 その小野おの一吉くによしもまた、家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうしたことから、「つるしげ」をけていた。


 とりわけ松平まつだいら忠郷たださとから「つるしげ」られていた。


 それと言うのも松平まつだいら忠郷たださと小野おの一吉くによしにもふくむところがあったからだ。


 松平まつだいら忠郷たださと小野おの一吉くによしとはわずかなあいだだけであったが、勘定かんじょう奉行ぶぎょうとして相役あいやくであった時分じぶんがあった。


 それは忠郷たださと本丸ほんまる目附めつけより勘定かんじょう奉行ぶぎょうへと異動いどう栄転えいてんたした明和5(1768)年5月より、一吉くによし勘定かんじょう奉行ぶぎょうより大目付おおめつけへと異動いどう栄転えいてんたした明和8(1771)年7月までの3ねんきょうであった。


 田沼たぬま意次おきつぐはその時分じぶんよりすで勘定かんじょう奉行ぶぎょうであった石谷いしがや淡路守あわじのかみ清昌きよまさ進言アドバイスにより通貨つうか統一とういつかんがえており、それに協力きょうりょくしたのが小野おの一吉くによしであり、ぎゃく反対はんたいしたのが松平まつだいら忠郷たださとであった。


 忠郷たださともまた、その時分じぶんより、


通貨つうか統一とういつ阻止そししてやるから…」


 その名目めいもくにて、両替商りょうがえしょうからまいない巻上まきあげており、そのことで小野おの一吉くによしからきびしく叱責しっせきされたことがあった。


 忠郷たださとさら大目付おおめつけへと棚上たなあげ―、実際じっさいには栄転えいてんたしたあとにも一吉くによしから叱責しっせきされたことがあった。


 それは忠郷たださと大屋おおや遠江守とおとうみのかみ明薫みつしげ道中どうちゅう奉行ぶぎょうさらわれたときのことであった。


 松平まつだいら忠郷たださと大目付おおめつけ着任ちゃくにんしたのが安永2(1773)年12月ならば、大屋おおや明薫みつしげ大目付おおめつけ着任ちゃくにんしたのはそれよりもおくれること2ねんじゃく、安永4(1775)年8月のことであった。


 大屋おおや明薫みつしげはそれまで道中どうちゅう奉行ぶぎょう兼務けんむしていた池田いけだ筑後守ちくごのかみ政倫まさとも後任こうにんとして大目付おおめつけ着任ちゃくにんしたのだ。


 これは池田いけだ政倫まさともが安永4(1775)年8月に歿ぼっしたためであり、そのさい松平まつだいら忠郷たださとは、


「あわよくば…」


 おのれ道中どうちゅう奉行ぶぎょう兼務けんむ出来できるやもれぬと、そう期待きたいしていた。


 いや、その当時とうじ―、安永4(1775)年8月の時点じてんでは忠郷たださとには小野おの一吉くによしとそれにいま一人ひとり正木まさき志摩守しまのかみ康恒やすつねという「先輩せんぱい」がいた。


 正木まさき康恒やすつねは明和6(1769)年11月に大目付おおめつけ着任ちゃくにんし、宝暦8(1758)年12月に大目付おおめつけ池田いけだ政倫まさともあと、安永4(1775)年8月の時点じてんでは一番いちばん古株ふるかぶとなった。


 それゆえ道中どうちゅう奉行ぶぎょうは、つまりは大目付おおめつけ筆頭ひっとう一番いちばん古株ふるかぶである正木まさき康恒やすつねもとへと「おはち」がまわってくるものとおもわれ、康恒当人やすつねとうにんもそのつもりでいた。


 正木まさき康恒やすつね池田いけだ政倫まさとも古株ふるかぶであるにもかかわらず、


鉄砲指物てっぽうさしものちょうあらため


 その三番さんばんあまんじていた。


 大目付おおめつけにおいては四つの兼務けんむポストがあり、道中どうちゅう奉行ぶぎょうほかには宗門しゅうもんあらためと、この鉄砲指物てっぽうさしものちょうあらため、そして分限ぶげんちょう服忌ぶっきりょうあらためであり、道中どうちゅう奉行ぶぎょう兼務けんむするもの筆頭ひっとうならば、その次席じせき宗門しゅうもんあらため兼務けんむするものであった。


 正木まさき康恒やすつね池田いけだ政倫まさとも古株ふるかぶであるので、本来ほんらいならば康恒やすつね宗門しゅうもんあらため兼務けんむしてもおかしくはなく、康恒当人やすつねとうにんもそうおもっていた。


 だが現実げんじつには康恒やすつねよりも後輩こうはいであるはず小野おの一吉くによし宗門しゅうもんあらため兼務けんむしていた。


 小野おの一吉くによしはそれまで宗門しゅうもんあらため兼務けんむしていた稲垣いながき出羽守でわのかみ正武まさたけ後任こうにんとして大目付おおめつけ着任ちゃくにんしたのだ。


 これは稲垣正武いながきまさたけが明和8(1771)年7月に歿したことによるもので、そのときすで大目付おおめつけとして鉄砲指物てっぽうさしものちょうあらため兼務けんむしていた、つまりは大目付おおめつけ三番さんばん位置いちしていた正木まさき康恒やすつねは、


「これでこのおれ三番さんばんから二番にばんへと…、次席じせきへとおどられる…」


 宗門しゅうもんあらため兼務けんむ出来できるものと確信かくしんした。


 だがいざふたけてみれば、稲垣正武いながきまさたけ後任こうにんとして大目付おおめつけ着任ちゃくにんした小野おの一吉くによし宗門しゅうもんあらためさらわれたのだ。


 これには正木まさき康恒やすつねおおいに憤慨ふんがいしたものである。


 そしてそれから4年後ねんごの安永4(1775)年8月にまたしてもおなよう場面シーン再現さいげんされた。


 すなわち、大目付おおめつけ着任ちゃくにんしたての大屋おおや明薫みつしげがいきなり、道中どうちゅう奉行ぶぎょう兼務けんむ大目付おおめつけ筆頭スターおどたことから、正木まさき康恒やすつねもとより、松平まつだいら忠郷たださとおおいに憤慨ふんがいし、のみならず明薫当人みつしげとうにんあたらした。


 するとそれをていた小野おの一吉くによしから盛大せいだい叱責しっせきされたものである。


武士ぶしたるが、いやしき嫉妬しっとから新参者しんざんものいじめにはしるとははじれっ!」


 小野おの一吉くによし後輩こうはい松平まつだいら忠郷たださともとより、先輩せんぱい正木まさき康恒やすつねをもしかりつけたのであった。


 この一件いっけんにより松平まつだいら忠郷たださと正木まさき康恒やすつねともに、小野おの一吉くによしおおいにうらんだものである。いや逆怨さかうらみをした。


 かる経緯いきさつがあったために、忠郷たださとはここぞとばかり、家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうした、いま西之丸にしのまるはた奉行ぶぎょうつとめる小野おの一吉くによしを「つるしげ」たのであった。


 その小野おの一吉くによしいまにも井上正定いのうえまささだりかかろうとした井伊いい直朗なおあきらなだめたことから、松平まつだいら忠郷たださとさら一吉くによしを「つるしげ」ることにした。


「おお、小野おの日向ひゅうがよ、うぬもたし大奥進物取次おおおくしんもつとりつぎなるいやしき身分みぶんから勘定かんじょう奉行ぶぎょう、それから大目付おおめつけへと成上なりあがった…、それもおなじくいやしき田沼主殿たぬまとのもめが引立ひきたてにより成上なりあがったなれば、いやしきもの同士どうしうまうのであろうなぁ…」


 忠郷たださと一吉くによし出自しゅつじ取上とりあげ、いや侮辱ぶじょくしたうえで、


「さればいやしきもの同士どうしたずさえて鷹狩たかがりのとらえて大納言だいなごんさま暗殺あんさつはかったのではあるまいか?」


 たたきつけるようにそうなんじたのだ。


 これには小野おの一吉くによしわれわすれるばんであった。


 だがそこは流石さすが叩上たたきあげの矜持きょうじからか、完全かんぜんわれわすれることはなく、直朗なおあきらようさやはしらせることもなかった。


 それでもさやはしらせたい衝動しょうどうにはられた。武士ぶしとしてはそれが当然とうぜんであり、そこではやはり忠郷たださとからの「つるしげ」をけていた大屋おおや明薫みつしげってはいった。


松平まつだいら殿どのいささ言葉ことばぎようぞっ!この遠江とおとうみかく小野おの日向守ひゅうがのかみ殿どの松平まつだいら殿どのよりも年長者ねんちょうじゃではござらぬか…」


 安永8(1779)年2月のこの時点じてんで、小野おの一吉くによしは80歳、松平まつだいら忠郷たださとは65歳であり、そうであればすこしは先輩せんぱいうやまい、言葉ことばつつしんではどうかと、明薫みつしげ忠郷たださとをそうたしなめたのであった。


 だがかつての恥辱ちじょく屈辱くつじょくいまこそすすごうとする、ようは「復讐リベンジ」にえている忠郷たださと明薫みつしげ忠言ちゅうげんとどくことはなかった。


なに年長者ねんちょうじゃぞっ!大納言だいなごんさまもロクにまもれぬいたる駑馬どばではないかっ!」


 忠郷たださと先輩せんぱい一吉くによし駑馬呼どばよばわりしたことから、一吉当人くによしとうにん以上いじょう明薫みつしげ憤慨ふんがいしてみせた。そうでもせぬことには本当ほんとう一吉くによし堪忍袋かんにんぶくろらせることにもなりかねないからだ。


貴様きさまっ!もうしていこととわるいことがあるぞっ!」


 明薫みつしげ大喝だいかつにも忠郷たださとはならし、


事実じじつもうしたまでぞっ!」


 そうおうじたかとおもうと、さらふたた明薫みつしげへと「つるしげ」の矛先ほこさきけた。


大屋おおや遠江とおとうみよ、うぬもおなあなむじなであろうがっ!」


「なっ、なにっ!?」


「されば、うぬがいもうとたしか、いま清水家老しみずかろうつとめし吉川よしかわ攝津せっつははではあるまいか?」


 たしかに忠郷たださとが言うとおり、大屋おおや明薫みつしげ実妹じつまいいま清水家老しみずかろうつとめる吉川よしかわ攝津守せっつのかみ從弼よりすけ実母じつぼであった。明薫みつしげ実妹じつまいまる小姓こしょうつとめた吉川よしかわ備後守びんごのかみ一從かずよりとのあいだにもうけたのがいま清水家老しみずかろうつとめる吉川從弼よしかわよりすけであった。


「そっ、それが如何いかがいたしたともうすのだっ!」


 大屋おおや明薫みつしげはどもりながら反論はんろんした。


 あきらかに動揺どうようしている―、忠郷たださと明薫みつしげ足下あしもと見透みすかすと、


「されば宮内くないきょうさま天下てんがらせるべく、大納言だいなごんさま一服いっぷくったのではあるまいか?無論むろん実際じっさい一服いっぷくりしはぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえか、あるいは膳番ぜんばん小納戸こなんど三浦左膳みうらさぜんか、はたまた田沼家たぬまけ所縁ゆかり石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんあたりであろうが、彼奴等きゃつらめをつないだは、清水家老所縁しみずかろうゆかりのそこもとではあるまいか?無論むろん宮内くないきょうさまたのまれてのことであろうが…」


 つまりは今回こんかい品川東海しながわとうかいにおける家基毒殺事件いえもとどくさつじけんいやいまはまだ「未遂みすい」の段階だんかいではあるが、その謀叛むほんとも言える事件じけん仕組しくんだ主犯しゅはん清水しみず重好しげよしであろう、そして明薫みつしげがその手先てさきとしてはたらいたのであろうと、忠郷たださとついにそこまで踏込ふみこんだのだ。


 その瞬間しゅんかん大屋おおや明薫みつしげ愕然がくぜんとし、項垂うなだれた。


 ときおなじくして西之丸にしのまる中奥なかおくにおいても「つるしげ」がおこなわれていた。


 無論むろん、「つるしげ」られていたのは家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうした面々めんめんであり、たとえばそば用取次ようとりつぎ水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさと、それにひらそば大久保おおくぼ志摩守しまのかみ忠翰ただなり大久保おおくぼ下野守しもつけのかみ忠恕ただみの3人はそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよし佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐの2人からその「不手際ふてぎわ」をはげしく責立せめたてられていた。


 とりわけ水上興正みずかみおきまさが「つるしげ」の対象ターゲットになった。


 それと言うのも水上興正みずかみおきまさ家基いえもと側近そばちかくにつかえるそばしゅう、そのなかでも筆頭ひっとう用取次ようとりつぎとして普段ふだんから相役あいやくである小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐの2人をきびしく指導しどうしていたからだ。


 小笠原おがさわら信喜のぶよしにしろ佐野さの茂承もちつぐにしろ、かねて水上興正みずかみおきまさ指導しどうには辟易へきえきしており、それがこうじて興正おきまさうらようにもなっていた。


 それがここへて、興正おきまさ最大さいだい失態しったい仕出しでかしたのだ。


 こともあろうに、興正おきまさ扈従こしょうした家基いえもと鷹狩たかがりにおいて、その帰途きと家基いえもと不例ふれい重体じゅうたいおちいらせたのだ。


 小笠原おがさわら信喜のぶよしにしろ佐野さの茂承もちつぐにしろ、ここが「どき」とばかり、興正おきまさはげしく責立せめたてたのだ。


常日頃つねひごろより我等われらきびしく教導きょうどうしておきながらおのれ一体いったいなんだっ!こともあろうに大納言だいなごんさま不例ふれいおちいらせるとは…、それでくも用取次ようとりつぎ名乗なのっていられるのっ!このおろものめがっ!」


 小笠原おがさわら信喜のぶよし用取次ようとりつぎとして「先輩せんぱい」であるはず興正おきまさに「おろもの」との罵声ばせいまでびせたのだ。


 だがそれにたいして興正おきまさだまってえていた。一切反論いっさいはんろん出来できなかったからだ。


 するとそれをいことに、信喜のぶよし益々ますます、ヒットアップした。


「これで大納言だいなごんさま薨去こうきょでもあそばされたならば、うぬもそのせめうてはらるがかろう」


 信喜のぶよし興正おきまさ殉死じゅんしすすめる始末しまつであった。


 これには流石さすが大久保おおくぼ忠翰ただなり興正おきまさわって反論はんろんした。


薨去こうきょなどと、軽々かるがるしゅうくちにされるべきではござらぬっ!いま大納言だいなごんさま一日いちにちはや快癒かいゆいのるのが大納言だいなごんさま側近そばちかくにつかたてまつりしものつとめでござろう…」


 忠翰ただなりのその精一杯せいいっぱい反論はんろんたいしても信喜のぶよし冷笑れいしょうかべ、


如何いかにも殊勝しゅしょうなる物言ものいいだが…、そのじつ大納言だいなごんさま不例ふれいおちいらせしおの不手際ふてぎわ糊塗ことしだいだけであろうが…」


 そう冷罵れいばした。


 たしかに忠翰ただなりにはそのてんもなくはなかった。


 信喜のぶよしの言うとおり、忠翰ただなりたしかに、家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうしながら、家基いえもと不例ふれい重体じゅうたいおちいらせるという最大さいだい不手際ふてぎわおおかくしたいがために、


大納言だいなごんさま一日いちにちはや快癒かいゆ…」


 云々うんぬんくちにしたのであった。


 信喜のぶよしにそのてん指摘してきされたことで、忠翰のぶなり図星ずぼしかれた格好かっこうであり、やはり反論はんろん出来できずにだまんでしまった。


 すると信喜のぶよし愈々いよいよ調子ちょうしはじめた。


「されば大久保おおくぼ一族いちぞく清水宮内しみずくないきょう殿どのとは所縁ゆかりふかく、それゆえまこと大納言だいなごんさま薨去こうきょあそばされることをのぞんでいるのではあるまいか?」


 信喜のぶよし忠翰ただなりとそれに大久保おおくぼ忠恕ただみたいしてもそうこえをかけたのであった。


 信喜のぶよしのこのいかけにたいしては忠翰ただなりにしろ忠恕ただみにしろ流石さすが聞捨ききずてならず、忠翰ただなり忠恕ただみ条件じょうけん反射的はんしゃてきに、それも同時どうじに「なに?」とこえげた。


「されば…、これで大納言だいなごんさまがいなくなれば、つぎ将軍しょうぐんしょく御成おなりあそばされるは、血筋ちすじからかんがえて清水宮内しみずくないきょう様故さまゆえ、そこで清水宮内しみずくないきょうさまとは所縁ゆかりふか大久保おおくぼ一族いちぞく…、その一門いちもんであるそなたらは内心ないしんでは大納言だいなごんさま一日いちにちはや快癒かいゆならぬ薨去こうきょ待望まちのぞんでいるのではあるまいか?」


 信喜のぶよしついにはっきりとそうだんじたのだ。


 これには流石さすが忠翰ただなり忠恕ただみだまってはいられない。


如何いか我等われらひらそば筆頭ひっとう用取次殿ようとりつぎどのとはもうせ、もうしていこととわるいことがあろうぞっ!」


 忠翰ただなりがそう猛抗議もうこうぎすれば、忠恕ただみも「左様さようっ!」と加勢かせいした。


 だが信喜のぶよしはそんな2人の猛抗議もうこうぎ受流うけながした。


「されば大納言だいなごんさま不例ふれいおちいりしもととなった茶菓子ちゃがし…、その茶菓子ちゃがし毒見どくみたてまつしり膳番ぜんばん小納戸こなんど一人ひとり清水宮内しみずくないきょうさま所縁ゆかり、それも縁者えんじゃ三浦左膳さぜんにて…、そのうえ給仕きゅうじたてまつりし小姓こしょうもまた清水宮内しみずくないきょうさま所縁ゆかりもの…、伊藤對馬いとうつしま叔母おば清水家しみずけにて長柄ながえ奉行ぶぎょうつとめし戸田とだ可十郎かじゅうろう今一人いまひとり大久保おおくぼ靱負ゆきえいたりてはその叔父おじ大久保おおくぼ半之助はんのすけ附切つけきりとしては異例いれいにも布衣ほいやくである用人ようにんという重職じゅうしょくにある…、これら事実じじつたいして一体いったい如何いか申開もうしひらきをいたす?」


 信喜のぶよしにそう責立せめたてられては忠翰ただなり忠恕ただみ咄嗟とっさには反論はんろん言葉ことばなかった。


 ちなみにここで言う附切つけきりとは次男じなん以下いかのことである。


 いえげない旗本はたもと次男じなん以下いか三卿さんきょう家臣かしん取立とりたてられると、これを附切つけきりしょうする。


 この附切つけきりとして三卿さんきょう家臣かしん取立とりたてられた彼等かれら旗本はたもと次男じなん三男さんなんたちは近習きんじゅうばん小姓こしょうとして三卿さんきょうつかえるのがほとんどであり、それゆえ彼等かれら従六位じゅろくい布衣ほいやくである用人ようにんにまで取立とりたてられることはまずない。


 三卿さんきょう家臣かしんなかでも従六位じゅろくい布衣ほいやくである用人ようにんや、あるいは番頭ばんがしらさらにそのうえ家老かろうともなるっと附人つけびと、つまりはれきとした旗本はたもとくのがまりであり、あとは精々せいぜい旗本はたもと嫡子ちゃくし番頭ばんがしら用人ようにん取立とりたてられる程度ていどであろう。


 かる事情じじょうから附切つけきり従六位じゅろくい布衣ほいやくである三卿さんきょう清水家しみずけ用人ようにんまで取立とりたてられた大久保おおくぼ半之助はんのすけ、こと半之助はんのすけ忠基ただもと存在そんざいきわめて異例いれいであり、また小笠原おがさわら信喜のぶよしもそのてんとらえて、大久保おおくぼ一族いちぞく清水しみず重好しげよしとは所縁ゆかりふかいと、そうだんじたのだ。


 その大久保おおくぼ半之助はんのすけおいにして家基いえもと小姓こしょうとしてつかえる大久保おおくぼ靱負ゆきえもまた、西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどり一人ひとり森川もりかわ伊勢守いせのかみ俊顯としあきからきびしく「つるしげ」られていた。


 小納戸こなんど頭取とうどり中奥なかおくにおいてはそば用取次ようとりつぎ重職じゅうしょくであり、ヒラ小納戸こなんどもとより、小姓こしょうや、その上位者じょういしゃ、つまりは「先輩せんぱい」の小姓頭取こしょうとうどりをも差配さはいする。


 それゆえ、その小納戸こなんど頭取とうどり一人ひとり森川俊顯もりかわとしあきによる「つるしげ」にたいして、小姓こしょう小納戸こなんどではこれを掣肘せいちゅうすることが出来できなかった。


 いや相役あいやくならば掣肘せいちゅう可能かのうであろうが、そのうち押田おしだ信濃守しなののかみ岑勝みねかつ新見しんみ讃岐守さぬきのかみ正則まさのりの2人は家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうしており、つまりは家基いえもとまもれず、それゆえ森川俊顯もりかわとしあき掣肘せいちゅう出来できず、一方いっぽう、もう一人ひとり相役あいやく高井たかい下總守しもうさのかみ實員さねかず森川俊顯もりかわとしあきとも西之丸にしのまるにて留守るすあずかり、つまりは鷹狩たかがりに扈従こしょうしていなかったので、それなら森川俊顯もりかわとしあき掣肘せいちゅう出来できそうなものだが、生憎あいにくとそれは無理むり相談そうだんであった。


 それと言うのも高井たかい實員さねかず西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどり取立とりたてられたのは2年前ねんまえの安永6(1777)年6月のことであり、一方いっぽう森川俊顯もりかわとしあきはと言うと、明和6(1769)年11月、それも家基いえもと西之丸にしのまるりをたす直前ちょくぜんの12日に家基附いえもとづき小納戸こなんど頭取とうどりじゅんぜられ、翌月よくげつの12月9日、家基いえもと本丸大奥ほんまるおおおくより西之丸にしのまるへと移徙わたましうつるや、俊顯としあきもそれにしたがい、西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどり取立とりたてられたのだ。


 つまり高井たかい實員さねかずにとって森川俊顯もりかわとしあきは「大先輩だいせんぱい」にたり、これでは俊顯としあき掣肘せいちゅう相役あいやくである新見しんみ正則まさのり押田おしだ岑勝みねかつへの「つるしげ」、もとい放言ほうげんめさせることなど出来でき様筈ようはずもなかった。


 森川俊顯もりかわとしあきもそれをいことに、愈々いよいよ放言ほうげんした。


両人りょうにんとも田沼家たぬまけ所縁ゆかり者故ものゆえに、内心ないしんでは大納言だいなごんさま不例ふれいよろこんでいるのではござるまいか?」


 俊顯としあきのその「大放言だいほうげん」に新見しんみ正則まさのりにしろ押田おしだ岑勝みねかつにしろかお強張こわばらせた。


 たしかに俊顯としあきの言うとおり、新見しんみ正則まさのり押田おしだ岑勝みねかつ夫々それぞれ田沼家たぬまけとは所縁ゆかりがあった。


 正則まさのり意次おきつぐ実妹じつまいめとっておれば、岑勝みねかつはその嫡子ちゃくし押田おしだ藤右衛門とうえもん勝融かつなか田沼家たぬまけ重臣じゅうしん三浦みうら庄二しょうじむすめめとっていたのだ。


 ちなみにこの押田おしだ藤右衛門とうえもんはここ西之丸にしのまるにて小納戸こなんどとして家基いえもと側近そばちかくにつかえており、つまりは父子ふしそろって家基いえもと側近そばちかくにつかえていた。


 ともあれ田沼家たぬまけ所縁ゆかりがあるからと言って、それでどうして大納言だいなごんさま、こと家基いえもと不例ふれい重体じゅうたいよろこぶことになるのかと、新見しんみ正則まさのり押田おしだ岑勝みねかつくちそろえて森川俊顯もりかわとしあき猛抗議もうこうぎした。


簡単かんたんはなしよ…、田沼主殿たぬまとのもめは英邁えいまいなる、ようおのれままにはあやつれぬ大納言だいなごんさま上様うえさま御成おなりあそばされてははなは不都合ふつごうにて、それよりはおのれままあやつれる三卿さんきょう清水宮内しみずくないきょうさま上様うえさま御成おなりあそばされるほう好都合こうつごうもうすものにて…、そこで田沼主殿たぬまとのもめは清水宮内しみずくないきょうさまんで、此度こたび鷹狩たかがりのとらえて大納言だいなごんさまがいたてまつらんとはかったのでござろうよ…、無論むろん実際じっさいよごせしは…、大納言だいなごんさま一服いっぷくりしは清水宮内しみずくないきょうさまでもなければ田沼主殿たぬまとのもめでもなく、両人りょうにん使嗾しそうされし膳番ぜんばん小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜんであろうぞ…、なにしろ石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん新見讃岐しんみさぬき、そなたがむすめを、つまりは田沼主殿たぬまとのもめがめいめとっており、三浦左膳みうらさぜんいたりては清水宮内しみずくないきょうさま従弟いとこにて、そこで石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜん二人ふたり膳番ぜんばん小納戸こなんどとしての職権しょっけん濫用らんよう…、大納言だいなごんさま召上めしあがりになられし茶菓子ちゃがし毒見どくみたてまつるのをいことに、そのじつ斑猫はんみょうどくったのであろうよ…、無論むろん膳番ぜんばん小納戸こなんどによる二度目にどめ毒見どくみ監視かんしせし立場たちばにあるぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえもその一味いちみ相違そういあるまいて…、松野まつの六郎兵衛ろくろべえ清水宮内しみずくないきょうさまとも田沼主殿たぬまとのもめとも所縁ゆかりこそないものの、大方おおかたかねころんだのであろうよ…、そしてかねとなれば田沼主殿たぬまとのもめが出番でばんにて…」


 田沼たぬま意次おきつぐより松野まつの六郎兵衛ろくろべえへと多額たがくの「報酬ほうしゅう」が支払しはらわれ、しかもその仲介ちゅうかいをしたのが新見しんみ正則まさのりか、押田おしだ岑勝みねかつかと、森川俊顯もりかわとしあきはそんな「見立みたて」もとい暴言ぼうげんならてたのであった。


 これには流石さすが高井たかい實員さねかずだまってはいられず、


放言ほうげんよう…、すこしくはひかえられぃ…」


 先輩せんぱいではあるが、俊顯としあきをそうたしなめた。


 ここでおのれ俊顯としあきたしなめないことには取返とりかえしのつかない事態じたいが、つまりは刃傷にんじょう沙汰ざたでもきかねないと、實員さねかずはそれを危惧きぐしたからであった。


 だが森川俊顯もりかわとしあき後輩こうはい實員さねかず言葉ことばなどにもかいさぬていであった。所詮しょせん洟垂はなた小僧こぞう戯言ざれごとと、そうおもっている様子ようすがありありであった。


 それゆえ俊顯としあきはこの實員さねかずにまで「つるしげ」の矛先ほこさきけた。


「まぁ、高井下總たかいしもうさ、そなたが田沼主殿たぬまとのもめが所縁ゆかりものたちを、こと石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんめをかばいたいのもからぬではないがの…」


「なに?」


「さればそなたが一門いちもん…、高井たかい一族いちぞくには本丸書院番ほんまるしょいんばんがしら高井たかい兵部ひょうぶなるものがおるが、彼者かのもの石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん叔母おばせがれであろう…、つまりは高井たかい兵部ひょうぶ石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんとは従兄弟いとこ同士どうし間柄あいだがらにて…」


 たしかに俊顯としあきの言うとおり、高井たかい兵部ひょうぶこと兵部少輔ひょうぶのしょうゆう綽房ひろふさ実母じつぼ石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん叔母おばである。


 石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん叔母おばそばしゅうという重職じゅうしょくつとめた高井たかい兵部少輔ひょうぶのしょうゆう信房のぶふさもとへととつぎ、そのあいだまれたのが、いま俊顯としあき指摘してきした高井たかい綽房ひろふさである。


 高井たかい實員さねかずもそのことは把握はあくしていたが、それだけにぎない。


 高井たかい實員さねかずにとって高井たかい綽房ひろふさはあくまで一門いちもん遠縁とおえん一人ひとりぎず、その綽房ひろふさ石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん従兄弟いとこ同士どうしだからとは言え、それで石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんかばなど毛頭もうとうなかった。


 ましてやその石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん所縁ゆかりのある田沼たぬま意次おきつぐたいしてはなん感慨かんがいもなかった。


 にもかかわらず、森川俊顯もりかわとしあき高井たかい實員さねかずにとっては遠縁とおえん一人ひとりぎないその高井たかい綽房ひろふさ石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんとは従兄弟いとこ同士どうしゆえと、その一事いちじもってして、實員さねかずまでも「田沼派たぬまは認定にんてい」をしようと言うのだから、牽強付会けんきょうふかいぎよう。


 高井たかい實員さねかず森川俊顯もりかわとしあきのそのあまりの牽強付会けんきょうふかいぶりに心底しんそこあきて、かえすべき言葉ことば見当みあたらなかった。


 それは新見しんみ正則まさのり押田おしだ岑勝みねかつにしても同様どうようで、二人ふたりいましがたまで俊顯としあきへのいかりでふるえていたものの、しかしそれすらもわすれさせるほど牽強付会けんきょうふかいぶりであり、正則まさのり岑勝みねかつあまりの馬鹿馬鹿ばかばかしさにおもわず呆気あっけられた。


 だが森川俊顯もりかわとしあきはこれを「肯定こうてい」と受止うけとめたらしく、おおいに満足気まんぞくげ様子ようすのぞかせた


 するとこれをった小姓頭取こしょうとうどり小笠原おがさわら大炊頭おおいのかみ政久まさひさ市岡いちおか但馬守たじまのかみ房仲ふさなかの2人も俊顯としあき加勢かせいする始末しまつであった。


 小笠原おがさわら政久まさひさ市岡房仲いちおかふさなかの2人はそれまで、相役あいやくである小姓頭取こしょうとうどり山川貞榮やまかわさだよしや、後輩こうはいとも言うべきひら小姓こしょう伊藤いとう忠移ただのぶ大久保おおくぼ靱負ゆきえを「つるしげ」ていた。


 いや、それではらずに、小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜんまで「つるしげ」ていたのだ。


 だが小笠原おがさわら政久まさひさ市岡房仲いちおかふさなかの2人はそれを中断ちゅうだんして、森川俊顯もりかわとしあき加勢かせいしたのであった。

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