第13話 安永8(1779)年2月21日 家基、最期の鷹狩り ~「つるし上げ」の裏に一橋治済の影あり~

今頃いまごろは…、つるしげられているころであろうかのう…、西之丸にしのまるにおいては…、家基いえもとめが放鷹ほうよう扈従こしょうせしものたちが…」


 一橋ひとつばし治済はるさだがそうつぶやくと、治済はるさだかいってすわる2人のおとこすなわち、岩本いわもと喜内きない正信まさのぶ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしは「御意ぎょい」とおうじた。


 ここは一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき大奥おおおくであり、岩本いわもと喜内きないかち目附めつけ一方いっぽう久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ小姓こしょうであった。


 この2人の身分みぶんでは本来ほんらい大奥おおおくにははいれない。


 だが屋敷やしきあるじたる治済はるさだがこれをゆるしたのだ。


 かずある一橋ひとつばし家臣かしんなかでも岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ双璧そうへきであった。


 すなわち、岩本いわもと喜内きないめい治済はるさだ愛妾あいしょうとみであり、とみ治済はるさだとのあいだした豊千代とよちよ姪孫てっそんたり、その血縁けつえんにより治済はるさだ寵愛ちょうあいていたのにたいして、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけはその「智略ちりゃく」により治済はるさだ寵愛ちょうあいていた。


 西之丸にしのまる表向おもてむき中奥なかおくにて繰広くりひろげられているくだんの「つるしげ」もこの久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ発案者はつあんしゃであった。


西之丸にしのまるにて鷹狩たかがりの留守るすあずかっていたものたちに、それも上様うえさまつうじるものたちに、鷹狩たかがりに扈従こしょうしたものたちを、そのなかでも清水家しみずけならびに田沼家たぬまけ所縁ゆかりものをつるしげさせれば、家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐん選定せんていさいして一橋家ひとつばしけ優位ゆういてまする…」


 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ治済はるさだにそう進言アドバイスしたのであった。ちなみに縫殿助ぬいのすけ治済はるさだを「上様うえさま」とんではばからず、それは岩本いわもと喜内きないにしても同様どうようである。


 それはかく、「つるしげ」にさいしては、


家基いえもと不例ふれい重体じゅうたいおちいったのは一服いっぷくられたからで、それも次期じき将軍しょうぐんしょくねら清水しみず重好しげよしと、家基いえもと将軍しょうぐんになられてはこま田沼たぬま意次おきつぐ共謀きょうぼうによるもの…」


 そのように「つるしげ」させるのが肝要かんようとも、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ治済はるさだ進言アドバイスしたのだ。


 成程なるほど西之丸にしのまる表向おもてむき中奥なかおくにてかる「つるしげ」がおこなわれれば、それは「うわさ」となって西之丸にしのまる全体ぜんたいひろがり、さらには本丸ほんまるへとその「うわさ」は伝播でんぱすることであろう。


 そして本丸ほんまる将軍しょうぐんたる家治いえはる居城しろ、そうであれば家治いえはるもまたその「うわさ」をみみにするのは必定ひつじょう


 そのとき家治いえはるはどうおもうであろうか。


 これでかり家基いえもとこうじ、家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんめねばならない場面ばめん家治いえはる際会さいかい直面ちょくめんしたならば、


重好しげよしだけはゆるせぬ…」


 重好しげよしにだけは次期じき将軍しょうぐんしょくわたすまいと、「うわさ」に影響えいきょういや、「汚染おせん」された家治いえはるにそうおもわせる効果こうか見込みこめる。


 その場合ばあい次期じき将軍しょうぐんレースにおいて一橋家ひとつばしけ一気いっき優位ゆういてる。


 治済はるさだ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけからの進言アドバイスけるとそのような「皮算用かわざんよう」をはじいたもので、そこでその進言アドバイス受容うけいれると、西之丸にしのまる表向おもてむきにおいては西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん井上正定いのうえまささだおなじく西之丸にしのまる当番とうばん大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださと、それに西之丸にしのまる目附めつけ松平まつだいら田宮たみや中心ちゅうしんに「つるしげ」をおこなわせ、一方いっぽう中奥なかおくにおいては西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ、それに小納戸こなんど頭取とうどり森川俊顯もりかわとしあき小姓頭取こしょうとうどり小笠原おがさわら政久まさひさ市岡房仲いちおかふさなかに「つるしげ」をおこなわせることにした。


 そこで治済はるさだ森川俊顯もりかわとしあきと、それに小笠原おがさわら政久まさひさ市岡房仲いちおかふさなかをも取込とりこむことにした。


 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ進言アドバイス時点じてんではまだ、彼等かれら取込とりこんではいなかったからだ。


 このなかでも小笠原おがさわら政久まさひさ市岡房仲いちおかふさなかの「取込とりこみ」は容易よういであった。


 それと言うのも小笠原おがさわら政久まさひさ場合ばあい、その嫡子ちゃくし玄蕃げんば政恒まさつねさき治済はるさだ取込とりこんでおいた小笠原おがさわら信喜のぶよしむすめめとっており、そこで治済はるさだ小笠原おがさわら信喜のぶよしめいじて、小笠原おがさわら政久まさひさ取込とりこませたのだ。


 具体的ぐたいてきにはまず、信喜のぶよしにとっては婿むこたる玄蕃げんば政恒まさつねから「攻略こうりゃく」し、いで「本丸ほんまる」の政久まさひさを「攻略こうりゃく」、政久まさひさを「一橋派ひとつばしは」、「治済はるさだシンパ」へと染上そめあげさせたのであった。


 一方いっぽう市岡房仲いちおかふさなかの「取込とりこみ」だが、これは岩本いわもと喜内きないとその実兄じっけいにして小普請こぶしん奉行ぶぎょう岩本いわもと内膳正ないぜんのかみ正利まさとしに「活躍かつやく」してもらった。


 いや正確せいかくには正利まさとし嫡子ちゃくし岩本いわもと正五郎しょうごろう正倫まさとも活躍かつやく、それも大活躍だいかつやくしてもらった。


 岩本正利いわもとまさとし喜内きない兄弟きょうだいには実姉じっしがおり、この実姉じっし市岡房仲いちおかふさなか実父じっぷにしていま本丸ほんまる先手さきてゆみがしらポストにある市岡いちおか左太夫さだゆう正峰まさみねもとへととついでいたのだ。


 この市岡いちおか左太夫さだゆう嫡子ちゃくしでもある房仲ふさなか自身じしん丸毛まるも権之丞ごんのすけ利起としおきむすめであり、岩本正利いわもとまさとし喜内きない兄弟きょうだい実姉じっしはつまりは市岡いちおか左太夫さだゆう後添のちぞいであった。


 それでも岩本正利いわもとまさとし喜内きない兄弟きょうだい実姉じっし市岡房仲いちおかふさなか同然どうぜんそだげ、そのうえ左太夫さだゆうとのあいだ左十郎さじゅうろう正邑まさむらなる一子いっしまでもうけたのだ。


 それゆえ左十郎さじゅうろう正邑まさむら市岡房仲いちおかふさなかにとっては腹違はらちがいとは言え、大事だいじおとうとであり、事実じじつ兄弟きょうだいなかかった。このあたり、家治いえはる重好しげよし兄弟きょうだい髣髴ほうふつとさせるものがある。


 この左十郎さじゅうろう正邑まさむらだが、市岡いちおか左太夫さだゆうにとっては庶子しょしたり、房仲ふさなかという立派りっぱ嫡子ちゃくしがいる以上いじょう市岡家いちおかけぐことは出来できず、そこで他家たけへと養子ようしされた。


 すなわち、本丸ほんまる小納戸こなんど松下蔵人まつしたくらんど統筠むねの養嗣子ようししとしてむかえられ、左十郎さじゅうろう正邑まさむらいま養家ようか松下まつしたせい名乗なのり、なん養父ようふ松下蔵人まつしたくらんどおなじく本丸ほんまる小納戸こなんどとして将軍しょうぐん家治いえはる側近そばちかくにてつかえていたのだ。


 そこで岩本正利いわもとまさとしがまず、嫡子ちゃくし正五郎しょうごろう正倫まさとも松下まつした左十郎さじゅうろうへと接近せっきんさせた。


 岩本いわもと正五郎しょうごろうもまた本丸ほんまる小納戸こなんどであり、松下蔵人まつしたくらんど左十郎さじゅうろう養親子おやことは相役あいやくであり、しかも松下まつした左十郎さじゅうろう岩本いわもと正五郎しょうごろうにとっては伯母おば、つまりは従兄弟いとこ同士どうしというわけだ。


 そのうえ岩本いわもと正五郎しょうごろう松下まつした左十郎さじゅうろうとはおなどしという事情じじょう手伝てつだい、相役あいやくとして常日頃つねひごろしたしくしていた。


 岩本いわもと正五郎しょうごろうはその松下まつした左十郎さじゅうろうを「足掛あしがかり」に、腹違はらちがいのあに市岡房仲いちおかふさなかにも接近せっきんたすと、ちち岩本正利いわもとまさとし叔父おじ岩本いわもと喜内きないをも市岡房仲いちおかふさなか松下まつした左十郎さじゅうろう兄弟きょうだい引合ひきあわせたのだ。


 松下まつした左十郎さじゅうろうにとっては岩本正利いわもとまさとし喜内きない兄弟きょうだいじつ叔父おじ市岡房仲いちおかふさなかにとっても義理ぎりとはもうせ、おなじく叔父おじであり、当然とうぜん、そのかお見知みしっていたものの、しかし、


ひざ突合つきあわせて…」


 うともなると、中々なかなか、その機会きかいめぐまれず、それを岩本いわもと正五郎しょうごろう用意セッティングした格好かっこうであった。


 こうして岩本正利いわもとまさとし喜内きない兄弟きょうだい市岡房仲いちおかふさなか松下まつした左十郎さじゅうろう義兄弟きょうだいとがあらためて、


ひざ突合つきあわせて…」


 面会めんかいたし、その「きずな」を再確認さいかくにんさせたところで、いで岩本いわもと喜内きない仲介ちゅうかいにより、市岡房仲いちおかふさなか松下まつした左十郎さじゅうろう義兄弟きょうだい一橋ひとつばし治済はるさだへと引合ひきあわせ、それも面会めんかいかさねさせたことで、治済はるさだ目論見もくろみどおり、市岡房仲いちおかふさなかを、そのうえ松下まつした左十郎さじゅうろうをも「一橋派ひとつばしは」、「治済はるさだシンパ」に仕立したてることが出来できたのであった。


 問題もんだい西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどり森川俊顯もりかわとしあきである。


 俊顯としあき自身じしん一橋家ひとつばしけとはなん所縁ゆかりもなかったからだ。


 そこで治済はるさだ俊顯としあき嫡子ちゃくし、それも養嗣子ようしし森川もりかわ數馬かずま俊輝としてるけた。


 森川もりかわ數馬かずまじつ生實おゆみ藩主はんしゅにして大番頭おおばんがしらつとめる森川もりかわ紀伊守きいのかみ俊孝としたか実弟じっていである。


 その森川もりかわ數馬かずまもまた庶子しょしであるため森川俊顯もりかわとしあき養嗣子ようししむかえられ、いま部屋へやずみ本丸ほんまる小姓組番こしょうぐみばんつとめていた。


 森川もりかわ數馬かずまぞくするのは本丸小姓組番ほんまるこしょうぐみばんなかでも1番組ばんぐみであり、ここにはしくも、そして治済はるさだにとってはさいわいにも、すで取込とりこんでおいた大目付おおめつけ正木まさき志摩守しまのかみ康恒やすつね嫡子ちゃくし左膳さぜん康満やすみつぞくしていたのだ。ちなみに正木左膳まさきさぜんかつては一橋家ひとつばしけにて大番おおばんとしてつかえていた。


 この正木左膳まさきさぜんだが、森川もりかわ數馬かずまとは「同期どうきさくら」、3年前ねんまえの安永5(1776)年12月19日に1番組ばんぐみ番入ばんいり就職しゅうしょくたしたなかであった。


 そこで治済はるさだ正木左膳まさきさぜん使嗾しそうけしかけてまずは森川もりかわ數馬かずまを「陥落かんらく」させ、いで養父ようふ森川俊顯もりかわとしあきをも「陥落かんらく」させたのであった。


 正木左膳まさきさぜん森川もりかわ數馬かずまとは「同期どうきさくら」だけあってしたしく、そこでまず、この數馬かずま治済はるさだの「素晴すばらしさ」を吹込ふきこみ、數馬かずまを「一橋派ひとつばしは」、「治済はるさだシンパ」へと「洗脳せんのう」したのであった。


 そのうえ正木左膳まさきさぜん數馬かずまを「教祖きょうそ」とも言うべき治済はるさだへも引合ひきあわせ、これで數馬かずま完全かんぜんにマインドコントロールされた。


 事実じじつ治済はるさだ森川もりかわ數馬かずまたいして、


父御ててごもこの治済はるさだ紹介しょうかいしてはもらえまいか?」


 そう持掛もちかけるや、數馬かずまはそれからかずして養父ちち森川俊顯もりかわとしあきともない、治済はるさだもとへとさんじたのであった。


 そして治済はるさだはこの森川俊顯もりかわとしあきのマインドコントロールにも成功せいこうした。


 森川俊顯もりかわとしあき自身じしん家基いえもとからとおざけられており、家基いえもと不満ふまんっていたという事情じじょうさいわいした。


 かくして森川俊顯もりかわとしあき養嗣子ようしし數馬かずま共々ともども治済はるさだ取込とりこまれた次第しだいである。


 治済はるさだはそのときのことをおもしたらしく、


「いや…、正木まさき康恒やすつねはたらきもおおきい…、さしずめ殊勲甲しゅくんこうぞ…」


 康恒やすつねはたらきについてそうねぎらったのだ。


 これには岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ同感どうかんであり、やはり「御意ぎょい」とおうじた。


 岩本いわもと喜内きないはそのうえで、


水上みずかみ美濃みの今少いますこかしこくば、正木まさき殿どのかいして上様うえさまなびたてまつりましたでござりましょうに…」


 おもしたかのようにそう補足ほそくし、治済はるさだうなずかせた。


 正木まさき康恒やすつねじつ西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばんつとめた朝比奈あさひな清右衛門せいえもん泰尚やすなお四男よんなんであり、康恒やすつねじつあね―、朝比奈あさひな清右衛門せいえもん長女ちょうじょなんと、水上みずかみ美濃みのこと西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさ妻女さいじょであった。


 康恒やすつねよりそうとかされた治済はるさだはそこで、康恒やすつねかいして水上興正みずかみおきまさをも取込とりこもうとしたのだ。


 なんと言っても水上興正みずかみおきまさ正木まさき康恒やすつねにとってはあねおっとであり、義兄ぎけいたるのだ。


 そうであれば康恒やすつねかいして水上興正みずかみおきまさをも取込とりこめる、そうなれば治済はるさだにとってはまさに、「おに金棒かなぼう」と言えた。


 この時点じてんすでに、家基いえもと側近そばちかくにつかえる用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐの2人は取込とりこんであり、そこへおなじく用取次ようとりつぎ水上興正みずかみおきまさくわわれば、家基いえもとつかえる用取次ようとりつぎ全員ぜんいん一橋ひとつばし治済はるさだへと寝返ねがえらせたことになり、そうなれば家基いえもと暗殺あんさつ愈々いよいよもっ容易よういとなる。


 だが結果けっか治済はるさだのそんな目算もくさん、もとい皮算用かわざんよう見事みごと裏切うらぎるものであった。


 すなわち、水上興正みずかみおきまさ治済はるさだなびかなかったのだ。


 それどころか水上興正みずかみおきまさには治済はるさだへの警戒心けいかいしんかせる始末しまつとなってしまった。


 義弟ぎてい正木まさき康恒やすつね使嗾しそうけしかけてまでおのれ取込とりこもうとする一橋ひとつばし治済はるさだというおとこ興正おきまさおおいに警戒心けいかいしんいたのだ。


大納言だいなごんさま側近そばちかくにつかたてまつりしこの取込とりこもうとは…、一橋ひとつばし治済はるさだめ…、なにからぬことをたくらんでいるのではあるまいか…」


 興正おきまさ治済はるさだにそう警戒心けいかいしんくと、やはり西之丸にしのまるにて書院番しょいんばんがしらとして家基いえもとつかえる水谷みずのや伊勢守いせのかみ勝久かつひさにも「緊急警報アラーム」をはっしたのだ。


 水上興正みずかみおきまさ水谷勝久みずのやかつひさに「緊急警報アラーム」をはっしたのはとも家基いえもとつかえるさらに言えば家基いえもといのちまもるべき立場たちばにいたからだが、それだけが水谷勝久みずのやかつひさに、勝久かつひさにだけ「緊急警報アラーム」をはっした理由りゆうではない。


 水谷勝久みずのやかつひさ縁者えんじゃ、それもいもうとおっと、つまりは義弟ぎてい一橋ひとつばし家老かろう水谷みずのや但馬守たじまのかみ勝富かつとみであったからだ。


 水上興正みずかみおきまさ水谷勝久みずのやかつひさかいして、その義弟ぎてい水谷勝富みずのやかつとみにも注意ちゅうい喚起かんき


いままで以上いじょう一橋ひとつばし家老かろうとして治済はるさだ動向どうこうひからせてしい…」


 そんな「緊急警報アラーム」をはっしたのだ。


 その御蔭おかげ治済はるさだ随分ずいぶん窮屈きゅうくつおもいをさせられたものである。


 いやいままでも治済はるさだ水谷勝富みずのやかつとみには窮屈きゅうくつおもいをさせられてきた。


 なにしろ水谷勝富みずのやかつとみおのれ職務しょくむ忠実ちゅうじつぎるほど忠実ちゅうじつであったからだ。


 すなわち、三卿さんきょう家老かろう三卿さんきょう家臣かしんあらずして、三卿さんきょう監視かんしがその職分しょくぶんであり、それゆえ、そのかおはあくまで公儀こうぎ、もっと言えば将軍しょうぐんいており、三卿さんきょうにはしりけさせることになる。


 とは言え、実際じっさいには三卿さんきょう取込とりこまれるのが通例つうれいであり、たとえば清水家老しみずかろう本多ほんだ讃岐守さぬきのかみ昌忠まさただなどはその好例こうれいであろう。


 それゆえ三卿さんきょう家老かろう三卿さんきょう監視役かんしやくというのもあくまで建前たてまえぎないのだが、しかしこと水谷勝富みずのやかつとみかぎって言えばかたくなまでにその建前たてまえつらぬこうとし、実際じっさいつらぬいていた。


 水谷勝富みずのやかつとみ一橋ひとつばし家老かろう着任ちゃくにんしたのは去年きょねんの安永7(1778)年5月のことであり、当初とうしょ治済はるさだはこの水谷勝富みずのやかつとみをも取込とりこもうと、あれこれと懐柔かいじゅうはかってはみたものの、しかし勝富かつとみけっして治済はるさだなびくことはなく、三卿さんきょう家老かろう一橋ひとつばし家老かろうとして、あくまで治済はるさだ監視役かんしやくてっしたのであった。


 これには治済はるさだ心底しんそこ辟易へきえきさせられたものである。


 そこへ義兄ぎけい水谷勝久みずのやかつひさかいしての、水上興正みずかみおきまさからの「緊急警報アラーム」である。


 水谷勝富みずのやかつとみいままで以上いじょう治済はるさだ動向どうこうひからせ、治済はるさだおおいに苛立いらだたせたものである。


「だがそれももなくわりをむかえようぞ…」


 治済はるさだにはそんな自信じしんがあり、その自信じしんからか、


「そのてん大屋おおや明薫みつしげ利口りこうよのう…」


 ついそんな軽口かるくちたたいたのであった。


 するとそこで、ふすましから「申上もうしあげまする」とのおとここえかれたので、治済はるさだ表情ひょうじょう引締ひきしめ、「ゆるす」とおうじた。


 その直後ちょくごふすまけられ、ここ一橋ひとつばし大奥おおおく男子だんし役人やくにんたる廣敷用人ひろしきようにん上原うえはら中兵衛ちゅうべえ姿すがたのぞかせると、


只今ただいま西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばんがしら花房はなぶさ因幡守いなばのかみ正域様まさくにさま到着とうちゃく…」


 あるじ治済はるさだにそうつたえたのであった。


まいったようだの…」


 治済はるさだはそうつぶやくなり、したなめずりした。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 花房はなぶさ因幡守いなばのかみ正域まさくに西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばんなかでも4番組ばんぐみたばねる番頭ばんがしらであり、この花房正域はなぶさまさくにもまた、治済はるさだ取込とりこまれた一人ひとりであり、それゆえ今日きょう鷹狩たかがりには扈従こしょうせず、西之丸にしのまるにて留守るすあずかっていた。


 花房正域はなぶさまさくに妻女さいじょかつて、本丸小姓組番ほんまるこしょうぐみばんであった松平まつだいら久右衛門きゅうえもん親精ちかきよいもうとであり、この松平まつだいら久右衛門きゅうえもん末娘すえむすめ花房正域はなぶさまさくににとってはめいなんと、正木まさき康恒やすつね養女ようじょであった。康恒やすつね養女ようじょとしてそだてられていたのだ。


 またその養嗣子ようしし玄蕃げんば正應まさあつ小笠原おがさわら信喜のぶよし長女ちょうじょめとっていた。


 かる事情じじょうかさなり、この花房正域はなぶさまさくにもまた、治済はるさだ取込とりこまれた一人ひとりであり、今宵こよい首尾しゅび報告ほうこくする手筈てはずとなっていたのだ。


 無論むろん花房正域はなぶさまさくにはあくまで、


大納言だいなごんさま不例ふれい…」


 それを治済はるさだつたえる使者ししゃとして治済はるさだもとへとあしはこんだ次第しだいであり、それゆえ、「上首尾じょうしゅび」を治済はるさだともよろこうべくあしはこんだわけではない。


 それゆえ花房正域はなぶさまさくに表情ひょうじょうはその内心ないしんとは見事みごとなまでに裏腹うらはら深刻しんこくそのものであった。


 花房正域はなぶさまさくに奥座敷おくざしきへととおされ、そこで治済はるさだかいい、そこには家老かろう水谷勝富みずのやかつとみと、その相役あいやく田沼たぬま能登守のとのかみ意致おきむね陪席ばいせきしていた。


 水谷勝富みずのやかつとみにしろ田沼たぬま意致おきむねにしろ、べつ屋敷やしきがあったが、三卿さんきょう家老かろう一橋ひとつばし家老かろう拝命はいめいしてからはこの一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきないにある組屋敷くみやしきにて起居ききょしていた。


 いますでよいの五つ半(午後9時頃)をまわっており、水谷勝富みずのやかつとみ田沼たぬま意致おきむね夫々それぞれ組屋敷くみやしきにおいて着流きながしくつろいでいたものの、花房正域はなぶさまさくに来訪らいほうあわてて正装せいそう面会めんかい場所ばしょ指定していされた奥座敷おくざしきへとあしはこび、正域まさくにとも治済はるさだ出座しゅつざった。これもまた三卿さんきょう監視役かんしやくたる家老かろう仕事しごとひとつであった。


 こうして治済はるさだ勝富かつとみ意致おきむねという2人の家老かろう陪席ばいせきもと正域まさくにかいうと、そこで正域まさくにより、


大納言だいなごんさま不例ふれい…」


 その事実じじつつたえられたのであった。


 すると治済はるさだ素知そしらぬかおでまずは大仰おおぎょうおどろいてみせた。


 それはそれはあまりに大仰おおぎょうなものであり、正域まさくにずかしくなるほどであった。


 治済はるさだつづいて、家基いえもと何故なにゆえ不例ふれい重体じゅうたいおちいったのかと、正域まさくににそのくわしい説明せつめいもとめた。


 正域まさくに治済はるさだのこの要望リクエストおうじて、家基いえもと鷹狩たかがりの帰途きと立寄たちよった品川しながわ東海とうかいにて茶菓子ちゃがしくちにした途端とたん嘔吐おうとし、重体じゅうたいおちいったものと説明せつめいしたのであった。


 治済はるさだはそれをいて益々ますます大仰おおぎょうおどろいてみせると、


まったく…、大納言だいなごんさま放鷹ようよう扈従こしょうせしものたちのつみおもいぞ…」


 巧妙こうみょうにそう誘導ゆうどうした。なにしろ、家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうしたものなかには治済はるさだけむたく、いやにくおも水谷勝富みずのやかつとみ義兄ぎけい水谷勝久みずのやかつひさふくまれていたからだ。


 そこで治済はるさだ今日きょう家基いえもと鷹狩たかがりには一体いったいだれ扈従こしょうしていたのかと、そのおもだった面々めんめんについて正域まさくにたずねた。水谷勝久みずのやかつひさつとめる書院番しょいんばんがしらまさに、


おもだった…」


 そう言って差支さしつかえないポストひとつであり、正域まさくに治済はるさだ期待きたいどおり、水谷勝久みずのやかつひさげたのであった。


 治済はるさだはこのときっていたのだ。


なんと…、水谷みずのや伊勢守いせのかみ勝久かつひさもうさば…、但馬たじま、そなたが義兄ぎけいではあるまいか…」


 治済はるさだおおきく見開みひらきつつ、但馬たじまこと水谷みずのや但馬守たじまのかみ勝富かつとみみずけた。


 それにたいして勝富かつとみ叩頭こうとうしておうじただけであった。


 そこで治済はるさださら勝富かつとみ追撃おいうちをかけることにした。


「そなたはこの治済はるさだ監視役かんしやくとしてまことにその役目やくめ忠実ちゅうじつであるともうすに、しかるに水谷みずのや伊勢いせときたら、そなたとは正反対せいはんたいに、おのつかたてまつりし大納言だいなごんさまいのちひとつもロクにまもれぬとは…、まさ愚兄ぐけい賢弟けんてい見本みほんよのう…」


 治済はるさだはまずはそう一発いっぱつ厭味いやみをかましたうえで、


いやしかしたら水谷みずのや伊勢いせまでも、義弟ぎてい但馬たじまともにこの治済はるさだがことがになり、それゆえ本来ほんらい役目やくめが…、大納言だいなごんさままもたてまつるという本来ほんらい役目やくめおろそかになったのやもれぬなぁ…」


 そうんだのであった。


 治済はるさだはそんな前提ぜんていさらみをかけた。


「して、その結果けっかはどうだな?但馬たじまよ…、この治済はるさだ監視かんしを、それも徹底的てっていてき監視かんしおこたらず、それで大納言だいなごんさま健在けんざい担保たんぽされたかえ?」


 治済はるさだ勝富かつとみをそう挑発ちょうはつした。


 これで勝富かつとみ挑発ちょうはつせられて、さやでもはしらせてくれようものなら、治済はるさだとしてもしめたものだが、生憎あいにくと、勝富かつとみもそこまで莫迦ばかではない。


 それでも治済はるさだ挑発ちょうはつこらえるのは大変たいへんであった。


 勝富かつとみなにこたえないでいると、正域まさくにがそこでくちはさんだ。


 正域まさくにくだんの、茶菓子ちゃがし毒見どくみになった面子めんつれたのであった。


 そこで治済はるさだはまたしても大仰おおぎょうおどろいてみせた。


なんと…、大納言だいなごんさま不例ふれい原因もととなりし茶菓子ちゃがし毒見どくみたてまつりしが清水家しみずけならびに田沼家たぬまけ所縁ゆかりものとは…、これはもしや次期じき将軍しょうぐんしょくねらわんとほっする清水宮内しみずくないきょう殿どの田沼主殿たぬまとのもめと相謀あいはかりしことやもれぬな…」


 家基いえもと重好しげよし意次おきつぐとによって一服いっぷくられたのではないかと、治済はるさだはそう示唆しさした。


 これは意致おきむねへの「意趣いしゅがえし」からであった。


 田沼たぬま意致おきむね水谷勝富みずのやかつとみおくれること2ヶ月、去年きょねんの7月に一橋ひとつばし家老かろう着任ちゃくにんし、当初とうしょ治済はるさだ取込とりこまれていたものの、それでも最近さいきんでは相役あいやく水谷勝富みずのやかつとみ感化かんかされてか、治済はるさだの「監視役かんしやく」にてっする始末しまつであった。


 そこで治済はるさだはこの意致おきむねうとましくおもはじめ、そこで日頃ひごろ鬱憤うっぷんらすべく、ようは「リベンジ」とばかり、意致おきむね本家ほんけすじ田沼たぬま意次おきつぐ誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうしたのだ。


 だが意致おきむねもそれにたいしてこたえられずにいると、それまでだまっていた水谷勝富みずのやかつとみ意致おきむねかばように、抗議こうぎしてくれた。


かくたるあかしもないのに、左様さよう無責任むせきにんなる風説ふうせつ軽々かるがるしくくちにされるべきではござりませぬ」


 勝富かつとみ断固だんことした口調くちょう治済はるさだをそうたしなめたのであった。


 だが治済はるさだけてはいない。


だまれっ!」


 治済はるさだ勝富かつとみをそう一喝いっかつしたかとおもうと、


大納言だいなごんさま一人ひとりもロクにまもれぬおろかなる義弟ぎてい駑馬どばおおきなくちたたくでない」


 勝富かつとみ駑馬どばばわりしてそう反論はんろんしたのだ。


 これには勝富かつとみ言葉ことばまった。ここまで侮辱ぶじょくされようとは想定外そうていがいであったからだ


 治済はるさだはそんな勝富かつとみとどめをすべく立上たちあがると、勝富かつとみもとへと近付ちかづき、そして扇子せんすでもって勝富かつとみひたいたたいてせたのだ。


「うぬのよう駑馬どば義弟ぎていなれば、大納言だいなごんさま一人ひとりまもれぬのも道理どうりよのう…」


 治済はるさだ勝富かつとみにそうこえをかけると、さら何度なんど扇子せんすでそのひたいたたいたのであった。

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