第8話 安永8(1779)年2月21日 家基、最期の鷹狩り ~品川東海寺篇、ついに「その日」はおとずれる~

 昼八つ(午後2時頃)に昼飯ひるめしえると、それからふたた鷹狩たかがりが再開さいかいされた。


 その鷹狩たかがりもやはり、一刻いっとき(約2時間)ほどかけておこなわれ、ここでも長谷川はせがわ平蔵へいぞう拍子木ひょうしぎやくとして見事みごと采配さいはいぶりをしめした。


 いや見事みごとであったのは平蔵へいぞうだけではない。西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどり押田おしだ信濃守しなののかみ岑勝みねかつ新見しんみ讃岐守さぬきのかみ正則まさのりにしても同様どうようであった。


 西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどりしゅうからはその筆頭ひっとうである押田おしだ岑勝みねかつ次席じせき新見しんみ正則まさのり鷹狩たかがりに扈従こしょうしていた。


 もっとも、小納戸こなんど頭取とうどりクラスともなると、鷹狩たかがりにおいては見学けんがくたのしむ程度ていどであり、積極的せっきょくてき参加さんかすることはあまりない。


 事実じじつ西之丸にしのまる老中ろうじゅう阿部あべ豊後守ぶんごのかみ正允まさちかや、あるいはどう若年寄わかどしより鳥居とりい丹波守たんばのかみ忠意ただおき酒井さかい飛騨守ひだのかみ忠香ただよしはそうだ。


 所謂いわゆる高官こうかんともなると前線ぜんせんつことはしない。大人おとなしく陣幕じんまくなかもっていればい。


 だがこと押田おしだ岑勝みねかつ新見しんみ正則まさのり二人ふたりかぎって言えば、前線ぜんせんこの気質タイプであった。


 押田おしだ岑勝みねかつ御齢おんとし59、新見しんみ正則まさのり御齢おんとし52であり、にもかかわらず陣幕じんまくなかもっているのをしとせず、ほか番士ばんしじり、供弓ともゆみとして活躍かつやくした。


 いや、だからこそ家基いえもともそんな二人ふたりだからこそ今日きょう鷹狩たかがりに、正確せいかくには今日きょう鷹狩たかがりにも扈従こしょうさせたのであった。


 西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどりしゅう押田おしだ岑勝みねかつ新見しんみ正則まさのり二人ふたりほかにもあと二人ふたり高井たかい下總守しもうさのかみ實員さねかず森川もりかわ伊勢守いせのかみ俊顯としあきおり、しかし家基いえもと鷹狩たかがりにおいては小納戸こなんど頭取とうどりしゅうからは今日きょうよう押田おしだ岑勝みねかつ新見しんみ正則まさのり扈従こしょうさせることがおおかった。


 それと言うのも高井たかい實員さねかず森川俊顯もりかわとしあき二人ふたり押田おしだ岑勝みねかつ新見しんみ正則まさのり二人ふたりとは正反対せいはんたいに、


前線ぜんせんつのをいとう…」


 陣幕じんまくなかもるのをこの典型的てんけいてき高官こうかんであった。


 高井たかい實員さねかずにしろ森川俊顯もりかわとしあきにしろ、平素へいそ御城えどじょう西之丸にしのまるにて家基いえもとつかえる昵近じっきんしんとしては優秀ゆうしゅうであった。


 が、鷹狩たかがりのよう場面ばめんにおいては、ひいては戦場せんじょうにおいてはまったくの役立やくたたずであった。


 それゆえ家基いえもと自然しぜん鷹狩たかがりにおいては小納戸こなんど頭取とうどりしゅうからは押田おしだ岑勝みねかつ新見しんみ正則まさのり二人ふたり扈従こしょうさせがちとなり、高井たかい實員さねかず森川俊顯もりかわとしあき二人ふたりには留守るすめいずることがおおく、今日きょうまさにそうであった。


 その押田おしだ岑勝みねかつ新見しんみ正則まさのり二人ふたり小納戸こなんど頭取とうどり供弓ともゆみとして活躍かつやく小鴨こがも真鴨まがも仕留しとめたのであった。


 だがそれ以上いじょう活躍かつやくしたのは天野あまの彌兵衛やへえ雄佐かつすけ小泉帯刀義利こいずみたてわきよしとし、そして金田かねだ幸之助こうのすけ正法まさのりの3人の供弓ともゆみであった。この3人はみな大橋おおはし千之丞せんのすけぞくする西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん1番組ばんぐみ番士ばんしであり、がん白雁はくがん菱喰ひしくい水鶏くいななど数多あまた鳥獣ちょうじゅう仕留しとめてみせたのであった。


 ちなみに天野あまの彌兵衛やへえ大橋おおはし與惣兵衛よそべえおいたる。大橋おおはし與惣兵衛よそべえあね本丸書院番ほんまるしょいんばんつとめた天野あまの兵部雄明ひょうぶかつあきもとし、そのあいだにもうけたのが天野あまの彌兵衛やへえであった。


 それゆえ今日きょう鷹狩たかがりには西之丸にしのまる新番組しんばんくみ1番組ばんぐみ組頭くみがしらとして扈従こしょうしていた大橋おおはし與惣兵衛よそべえおい活躍かつやくおおいに面目めんぼくほどこした。


 その大橋おおはし與惣兵衛よそべえ組頭くみがしらつとめる西之丸にしのまる新番しんばん1番組ばんぐみからは服部はっとり猪左衛門いざえもん泰通やすみち大活躍だいかつやくした。


 これにより服部はっとり猪左衛門いざえもん直属ちょくぞく上司じょうしたる大橋おおはし與惣兵衛よそべえ愈々いよいよ面目めんぼくほどこしたのは当然とうぜんとして、服部はっとり猪左衛門いざえもん大活躍だいかつやく平蔵へいぞう感慨深かんがいぶかいものがあった。


 それと言うのも服部はっとり猪左衛門いざえもんいまから16年前ねんまえの宝暦13(1763)4月に本丸ほんまる小十人こじゅうにん組番ぐみばんは5番組ばんぐみより西之丸にしのまる新番しんばん1番組ばんぐみへと異動いどう栄転えいてんたしたのだが、その当時とうじ―、宝暦13(1763)年4月時点じてん本丸ほんまる小十人こじゅうにん組番ぐみばん5番組ばんぐみたばねていたかしら小十人こじゅうにんがしらだれあろう平蔵へいぞうちち長谷川はせがわ備中守びっちゅうのかみ宣雄のぶおであったのだ。


 長谷川はせがわ宣雄のぶおはそのころはまだ、従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶやく京都きょうと町奉行まちぶぎょうまえであったので、つまりは備中守びっちゅうのかみという官職かんしょくめい名乗なのってはおらず、平蔵へいぞうという通称つうしょう名乗なのっていた。


 その宣雄のぶおだが、服部はっとり猪左衛門いざえもん屋敷やしきれてることが度々たびたびであった。


 それと言うのも服部はっとり猪左衛門いざえもん宣雄のぶおささえてくれたからだ。


 小十人こじゅうにんがしらささえるべきは本来ほんらいはその直属ちょくぞく部下ぶかとも言うべき組頭くみがしら仕事しごとはずであった。


 だがこと、長谷川はせがわ宣雄のぶおかんして言えばそれはまらなかった。


 小十人こじゅうにんがしらには二人ふたり組頭くみがしらはいされ、宣雄のぶお場合ばあい須藤すどう三左衛門さんざえもん盛胤もりたね佐原さはら三十郎さんじゅうろう正房まさふさ二人ふたり組頭くみがしらとしてはいされた。


 いや正確せいかくには須藤すどう三左衛門さんざえもん佐原さはら三十郎さんじゅうろう二人ふたりむかえられる格好かっこう小十人こじゅうにんがしらいた。


 なにしろ、須藤すどう三左衛門さんざえもん佐原さはら三十郎さんじゅうろう二人ふたり長谷川はせがわ宣雄のぶお小十人こじゅうにんがしら着任ちゃくにんするよりもまえから組頭くみがしらつとめていたからだ。


 とりわけ須藤すどう三左衛門さんざえもんがそうだ。須藤すどう三左衛門さんざえもん組頭くみがしらいたのはのち相役あいやく同僚どうりょうとなる佐原さはら三十郎さんじゅうろう小十人こじゅうにん組番ぐみばん番入ばんいり就職しゅうしょくたすよりも4ヶ月もまえの延享2(1745)年9月のことで、佐原さはら三十郎さんじゅうろう番入ばんいり就職しゅうしょくたしたのはそれから4ヵ月後のうるう12月のことであった。


 それだけに須藤すどう三左衛門さんざえもん小十人こじゅうにん組番ぐみばんの「生字引いきじびき」と言え、そのうえ宣雄のぶおようりょう番家筋ばんいえすじのエリートにたいする反撥心はんぱつしんをも持合もちあわせていた。


 須藤すどう三左衛門さんざえもん代々だいだい小十人こじゅうにん組番ぐみばん番入ばんいり就職しゅうしょく出来でき家筋いえすじ所謂いわゆる小十人こじゅうにん家筋いえすじまれ、それゆえ須藤すどう三左衛門さんざえもん当人とうにんもまた小十人こじゅうにん組番ぐみばん番入ばんいり就職しゅうしょくをし、組頭くみがしら昇進しょうしんした。


 だが所詮しょせん小十人こじゅうにん家筋いえすじではここまでが、つまりは組頭くみがしらまでが出世しゅっせ限界げんかいと言え、従六位じゅろくい布衣ほいやくなどそれこそ、


ゆめのまたゆめ…」


 というものであった。


 これが宣雄のぶおように、小十人こじゅうにん家筋いえすじよりも一階級わんらんくいや二階級ツーランク格上かくうえりょうばん家筋いえすじ―、小姓組番こしょうぐみばんあるいは書院番しょいんばん両方りょうほうばん、そのいずれかのばん番入ばんいり就職しゅうしょくかな家柄いえがらであれば、従六位じゅろくい布衣ほいやくへの昇進しょうしん比較的ひかくてき容易よういであり、それが須藤すどう三左衛門さんざえもんおおいにらぬところであった。


 ようりょうばん家筋いえすじ旗本はたもとたいする嫉妬心しっとしんあるいは劣等感れっとうかんであり、須藤すどう三左衛門さんざえもんはその嫉妬心しっとしん劣等感れっとうかんといったものをこうじさせ、組頭くみがしらとなるや、直属ちょくぞく上司じょうしたる小十人こじゅうにんがしらを、


「チクチクと…」


 いじめることで嫉妬心しっとしん劣等感れっとうかんといったものをらすようになり、長谷川はせがわ宣雄のぶおもその須藤すどう三左衛門さんざえもんからのいじめの対象ターゲットにされたのであった。


 一方いっぽう相役あいやく組頭くみがしらである佐原さはら三十郎さんじゅうろうはと言うと、須藤すどう三左衛門さんざえもん同様どうよう小十人こじゅうにん家筋いえすじ旗本はたもとではあるが、しかしだからと言ってりょう番家筋ばんいえすじたいして嫉妬心しっとしん劣等感れっとうかんといったものをいてはおらず、くだらない「上司苛じょうしいじめ」にはしることもなく、そこが須藤すどう三左衛門さんざえもんことなるところであった。


 もっとも、佐原さはら三十郎さんじゅうろう須藤すどう三左衛門さんざえもんのその、平蔵へいぞうたいするいじめ、所謂いわゆる、「上司苛じょうしいじめ」に加担かたんこそしなかったものの、しかしだからと言って積極的せっきょくてきにこれをめることもしなかった。


 いや佐原さはら三十郎さんじゅうろう立場たちばでは出来できなかったと言うべきであろう。


 それも無理むりからぬところではあった。なにしろ、佐原さはら三十郎さんじゅうろうにとって須藤すどう三左衛門さんざえもんは「大先輩だいせんぱい」にたるからだ。


 この時代じだいなによりも年次ねんじがものを言う世界せかいまさしく典型的てんけいてき年功序列ねんこうじょれつであり、こと武官ぶかんである番方ばんかたにその傾向けいこうつよく、そうである以上いじょう佐原さはら三十郎さんじゅうろうとしては大先輩だいせんぱい須藤すどう三左衛門さんざえもんの「おこない」にケチをつけることなど出来でき様筈ようはずもなかった。


 仮令たとえとう注意ちゅういであったとしても、須藤すどう三左衛門さんざえもんようおとこにかかれば、


「ケチをつける…」


 そう「脳内変換のうないへんかん」されるからだ、


 こうして長谷川はせがわ宣雄のぶお小十人こじゅうにんがしらあいだ、それも諸悪しょあく根源こんげんとも言うべき須藤すどう三左衛門さんざえもんぬ宝暦13(1763)年の3月まで、須藤すどう三左衛門さんざえもんからの「いじめ」、所謂いわゆる、チクチクと背中せなかされるかのような「上司苛じょうしいじめ」になやまされることになるのだが、そんな宣雄のぶおかばってくれたのがほかならぬ服部はっとり猪左衛門いざえもんであった。


 服部はっとり猪左衛門いざえもんはヒラの番士ばんしでありながら、しかも須藤すどう三左衛門さんざえもん後輩こうはいであるにもかかわらず、直属ちょくぞく上司じょうしにしてつ、先輩せんぱいたる須藤すどう三左衛門さんざえもんたいしてビシッと物申ものもうしてくれたのだ。


にもつかぬいじめなどめられよ…、武士ぶしにあるまじき女々めめしさよ…」


 服部はっとり猪左衛門いざえもん須藤すどう三左衛門さんざえもんめんかってそう注意ちゅういしたのだ。


 しかもそこにはいじめの「被害者ひがいしゃ」である宣雄のぶおもとより、須藤すどう三左衛門さんざえもんとは相役あいやく佐原さはら三十郎さんじゅうろうやヒラの番士ばんしといった「聴衆ギャラリー」がいるなかでの注意ちゅういであった。


 服部はっとり猪左衛門いざえもんはその通称つうしょうとおり、猪突猛進ちょとつもうしんいたようおとこであり、がったことをなによりもきらまさ典型的てんけいてき武辺ぶへんであった。


 そのよう服部はっとり猪左衛門いざえもんだけに須藤すどう三左衛門さんざえもん卑劣ひれつな「上司苛じょしいじめ」にはあまるものがあったのであろう。


 服部はっとり猪左衛門いざえもんいかりの矛先ほこさきさらに、須藤すどう三左衛門さんざえもん相役あいやく佐原さはら三十郎さんじゅうろうにもけられた。


貴殿きでん須藤すどう殿どの相役あいやくなれば、須藤すどう殿どのおこないを…、卑劣ひれつなる所行しょぎょうたしなめるべきで御座ござろうがっ!」


 服部はっとり猪左衛門いざえもんにそう一喝いっかつ大喝だいかつされた佐原さはら三十郎さんじゅうろうかえすべき言葉ことばつからなかった。まさしくそのとおりであったからだ。


 かくして服部はっとり猪左衛門いざえもんから「満座まんざ」で一喝いっかつ大喝だいかつらった須藤すどう三左衛門さんざえもん服部はっとり猪左衛門いざえもんおおいににくんだ。侮辱ぶじょくされたも同然どうぜんであったからだ。


 いや、それはけっして侮辱ぶじょくなどではなかったものの、それでも須藤すどう三左衛門さんざえもん侮辱ぶじょくされたものと受取うけとった。


 だがそれだけであった。須藤すどう三左衛門さんざえもん服部はっとり猪左衛門いざえもんおおいににくみはしたものの、それだけであった。


 それと言うのも「腕力わんりょく」においては須藤すどう三左衛門さんざえもん服部はっとり猪左衛門いざえもん足下あしもとにもおよばなかったからだ。


 それゆえ須藤すどう三左衛門さんざえもん爾来じらい直属ちょくぞく上司じょうしたる宣雄のぶおたいして、


「チクチクと…」


 背中せなかような「いじめ」こそしなくなったものの、それでも徹底的てっていてき無視むし決込きめこむという典型的てんけいてきな、それも幼児性ようじせい丸出まるだしの所行しょぎょうおよび、それは服部はっとり猪左衛門いざえもんたいいてもそうであった。


 一方いっぽう宣雄のぶおはと言うと、須藤すどう三左衛門さんざえもんからはなしかけられずホッとしたもので、服部はっとり猪左衛門いざえもんにしてもそれは同様どうようであった。


 そして須藤すどう三左衛門さんざえもん長谷川はせがわ宣雄のぶお服部はっとり猪左衛門いざえもんとのさしずめ「冷戦れいせん」は須藤すどう三左衛門さんざえもんしゅっする宝暦13(1763)年3月までつづけられた。


 宝暦13(1763)年3月に須藤すどう三左衛門さんざえもん病歿びょうぼつするや、その後任こうにん組頭くみがしらめる必要性ひつようせいせまられた。


 小十人こじゅうにん組番ぐみばん若年寄わかどしより支配しはいゆえ、その組頭くみがしら人事じんじともなると、若年寄わかどしより選考せんこうけんがあったものの、しかし実際じっさいには小十人こじゅうにんがしら決定権けっていけんがあった。


 小十人こじゅうにんがしら若年寄わかどしよりたいして、


「かのもの組頭くみがしらに…」


 そう推挙すいきょ、すると若年寄わかどしより小十人こじゅうにんがしらからの推挙すいきょをそのまま受容うけいれ、組頭くみがしらまる。


 長谷川はせがわ宣雄のぶおとしては断然だんぜん服部はっとり猪左衛門いざえもん組頭くみがしら推挙すいきょするつもりであった。


 宣雄のぶお須藤すどう三左衛門さんざえもんの「いじめ」から服部はっとり猪左衛門いざえもんすくわれてからというもの、当時とうじ築地つきじ湊町みなとまちにある屋鋪やしきへと服部はっとり猪左衛門いざえもんまねいてはさけ酌交くみかわすようになった。


 そこで宣雄のぶお服部はっとり猪左衛門いざえもんといつものようさけ酌交くみかわしつつ、須藤すどう三左衛門さんざえもん後任こうにんとして組頭くみがしら打診だしんしたのだ。


 宣雄のぶお当然とうぜん服部はっとり猪左衛門いざえもん快諾かいだくするものとばかりおもっていた。なにしろ昇進しょうしんだからだ。


 が、実際じっさいには宣雄のぶおあん相違そういして服部はっとり猪左衛門いざえもん組頭くみがしらへの昇進しょうしん拝辞はいじしたのだ。


先輩せんぱいがおりますゆえ…」


 先輩せんぱい差置さしおいて、後輩こうはいおのれさき組頭くみがしら昇進しょうしんするわけにはまいらぬと、それが服部はっとり猪左衛門いざえもん拝辞はいじ理由りゆうであった。


 服部はっとり猪左衛門いざえもん成程なるほど相手あいて仮令たとえ先輩せんぱい直属ちょくぞく上司じょうしであろうとも一歩いっぽ退かぬところがあったが、さりとて闇雲やみくも先輩せんぱい直属ちょくぞく上司じょうしてないわけではなかった。


 服部はっとり猪左衛門いざえもん先輩せんぱいや、あるいは直属ちょくぞく上司じょうしであろうとも一歩いっぽ退かぬところをせるのはあくまで、彼等かれらがある場合ばあいであり、そうでない場合ばあいには、つまりは先輩せんぱい直属ちょくぞく上司じょうしがなければ闇雲やみくも楯突たてつよう振舞ふるまいにはおよばなかった。


 それどころか先輩せんぱい直属ちょくぞく上司じょうしをきちんとてる。


 この場合ばあいもそうであった。


 たしかにその当時とうじ―、須藤すどう三左衛門さんざえもん歿ぼっした宝暦13(1763)年3月の時点じてんでは本丸本丸小十人こじゅうにん組番ぐみばん5番組ばんぐみには服部はっとり猪左衛門いざえもん先輩せんぱいそんした。


 服部はっとり猪左衛門いざえもんは延享2(1745)年9月13日に5番組ばんぐみ番入ばんいり就職しゅうしょくたしたのであるが、それよりもはやくに番入ばんいり就職しゅうしょくたしたものがいた。


 一人ひとりは延享元(1744)年4月6日に番入ばんいり就職しゅうしょくたした木部きべ幸助安欣こうすけやすよしであり、その木部きべ幸助こうすけ差置さしおいておのれさき組頭くみがしら昇進しょうしんするわけにはまいらぬと、それが服部はっとり猪左衛門いざえもん言分いいぶんであった。


 たしかに先輩せんぱいと言えばそのとおりだが、その年次ねんじわずか1年にもたない。


 ましてや木部きべ幸助こうすけ服部はっとり猪左衛門いざえもんとは正反対せいはんたいに、須藤すどう三左衛門さんざえもんによる宣雄のぶおたいしての「上司苛じょうしいじめ」を黙認もくにん、それどころか面白おもしろがってさえいた。


 宣雄のぶおとしてはそのよう木部きべ幸助こうすけ到底とうてい組頭くみがしらなどには推挙すいきょ出来できなかった。


 それになにより須藤すどう三左衛門さんざえもんとは相役あいやく同僚どうりょう組頭くみがしらである佐原さはら三十郎さんじゅうろう先輩せんぱいである木部きべ幸助こうすけ差置さしおいて組頭くみがしらへと昇進しょうしんした事実じじつがあった。


 佐原さはら三十郎さんじゅうろうもまた服部はっとり猪左衛門いざえもんおなじく延享2(1745)年9月13日に番入ばんいり就職しゅうしょくたした、わば「同期どうきさくら」であった。


 にもかかわらず、佐原さはら三十郎さんじゅうろう先輩せんぱい木部きべ幸助こうすけ差置さしおいて、宝暦6(1756)年7月18日であり、一方いっぽう長谷川はせがわ宣雄のぶお小十人こじゅうにんがしら着任ちゃくにんしたのはその翌々年よくよくねんの宝暦8(1758)年9月15日のことであり、つまり佐原さはら三十郎さんじゅうろう組頭くみがしらへと昇進しょうしんさせたのは宣雄のぶお前任者ぜんにんしゃすなわち、芝山しばやま小兵衛こへえ正武まさたけであった。


 芝山しばやま小兵衛こへえ佐原さはら三十郎さんじゅうろう先輩せんぱい差置さしおいてまで組頭くみがしらへと昇進しょうしんさせた前例ぜんれいがあるのだから、このおれおなじく、先輩せんぱい木部きべ幸助こうすけ差置さしおいてその後輩こうはい服部はっとり猪左衛門いざえもん組頭くみがしらへと昇進しょうしんさせたところでなん差支さしつかえはあるまい、というのが宣雄のぶお言分いいぶんであった。


 だがそれでも服部はっとり猪左衛門いざえもん信念しんねんるがず、組頭くみがしらへの昇進しょうしん拝辞はいじしたのだ。


 ことここにいたってはさしもの長谷川はせがわ宣雄のぶお服部はっとり猪左衛門いざえもん組頭くみがしらへと昇進しょうしんさせることはあきらめ、そのわりに幸田こうだ善太郎ぜんたろう精義まさよし組頭くみがしらへと昇進しょうしんさせることにした。


 が、じつ幸田こうだ善太郎ぜんたろうは5番組ばんぐみ番士ばんしではなく、2番組ばんぐみ番士ばんしであった。


 長谷川はせがわ宣雄のぶお須藤すどう三左衛門さんざえもん後任こうにん組頭くみがしらさがしをしていることは、それも難航なんこうしていることは小十人こじゅうにんがしらあいだでも話題わだいになっており、2番組ばんぐみたばねる小十人こじゅうにんがしら佐野さの大學爲成だいがくためなり相役あいやく宣雄のぶおこえけてきたのはそんなおりであった。


「もしよろしければ、この大學だいがく支配しはいせし2番組ばんぐみぞくせし幸田こうだ善太郎ぜんたろう組頭くみがしらへと…、長谷川はせがわ殿どの支配しはいせし5番組ばんぐみ組頭くみがしらへと昇進しょうしんさせては如何いかがかな…」


 佐野さの大學だいがく宣雄のぶおにそうささやいたのだ。


 佐野さの大學だいがくりょうばん家筋いえすじより一階級ワンランクした大番家筋おおばんいえすじまれながら、みずからの才覚さいかく従六位じゅろくい布衣ほいやく小納戸こなんど本丸ほんまる小納戸こなんど取立とりたてられ、そこから二ノ丸にのまる留守居るすいて、その当時とうじ―、宝暦13(1763)年3月の時点じてんでは小十人こじゅうにんがしらつとめていた。


 それだけに佐野さの大學だいがくじつ目端めはしおとこであり、孫娘まごむすめ田沼たぬま意次おきつぐとつがせたほど辣腕らつわんぶりであった。


 意次おきつぐはまだ大名だいみょうですらない、一介いっかい旗本はたもとであった時分じぶん、と言っても従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶやくである小姓こしょう西之丸にしのまる小姓こしょうであった時分じぶんの享保19(1734)年8月に最初さいしょ結婚けっこんをし、その相手あいてこそが当時とうじ本丸ほんまる小納戸こなんどであった伊丹いたみ兵庫頭ひょうごのかみ直賢なおかた長女ちょうじょすなわち、佐野さの大學だいがく孫娘まごむすめであった。


 佐野さの大學だいがく長女ちょうじょ伊丹いたみ直賢なおかたもとへととつがせ、そのあいだまれた、これまた長女ちょうじょ当時とうじはまだ西之丸にしのまる小姓こしょう田沼たぬま意次おきつぐと「ゴールイン」したのであった。


 この時代じだい結婚けっこん、それも幕臣ばくしん同士どうし結婚けっこんともなると親同士おやどうしめるものであった。


 だがこと意次おきつぐ結婚けっこんかんして言えば、これを調ととのえたのは外祖父がいそふ佐野さの大學だいがくであった。


 佐野さの大學だいがく孫娘まごむすめ外孫そとまごだけあって余計よけいいとおしく、それだけに大事だいじ外孫そとまご結婚けっこん相手あいては、


将来性しょうらいせいのあるおとこを…」


 孫娘まごむすめがまだおさな時分じぶんよりそう見定みさだめており、そんな佐野さの大學だいがくの「眼鏡めがね」にかなったのが当時とうじ西之丸にしのまる小姓こしょう田沼たぬま意次おきつぐであった。


 意次おきつぐちち田沼たぬま主殿頭とのものかみ意行もとゆき本丸ほんまる小納戸こなんど頭取とうどりという、中奥なかおくにおいては最高さいこう長官ちょうかんそば用取次ようとりつぎ重職じゅうしょくにあったことも「」となった。


 そこで佐野さの大學だいがく田沼たぬま意行もとゆきたいして、


是非ぜひとも孫娘まごむすめ主殿頭とのものかみ殿どの嫡子ちゃくし龍助りゅうすけ殿どのと…」


 龍助りゅうすけこと意次おきつぐ結婚けっこんさせてしいと、そう打診だしんしたのであった。


 その当時とうじ佐野さの大學だいがく本丸ほんまる小納戸こなんどであり、本丸ほんまる小納戸こなんど頭取とうどり田沼たぬま意行もとゆきとは上司じょうし部下ぶか関係かんけいにあり、またこれよりまえ、享保13(1728)年4月にはとき将軍しょうぐん吉宗よしむね日光社参にっこうしゃさんにも扈従こしょうした間柄あいだがらであった。


 かくして享保19(1734)年8月のすえ意次おきつぐ佐野さの大學だいがく孫娘まごむすめとの婚儀こんぎ調ととのった次第しだいであった。


 目端めはし佐野さの大學だいがくだからこその「芸当げいとう」であり、佐野さの大學だいがくとはことなり、いささわきあま伊丹いたみ直賢なおかたならば到底とうてい不可能ふかのうな「芸当げいとう」であった。


 そして意次おきつぐ佐野さの大學だいがくが「眼鏡めがね」のとおり、栄達えいたつげた。


 佐野さの大學だいがくはそれほどの「眼鏡めがね」の持主もちぬしであり、小十人こじゅうにんがしらとなってからもその「眼鏡めがね」がくもることはなく、それどころか益々ますますみがきがかかっていた。


 佐野さの大學だいがくは宝暦4(1754)年5月に小十人こじゅうにんがしらに、それも本丸ほんまる小十人こじゅうにん組番ぐみばん2番組ばんぐみたばねる小十人こじゅうにんがしら着任ちゃくにんするや、組下くみか番士ばんし経歴キャリアあたまたたんだものである。


 そのなかには幸田こうだ善太郎ぜんたろう経歴キャリアふくまれており、幸田こうだ善太郎ぜんたろうおのれとは相役あいやく本丸ほんまる小十人こじゅうにん組番ぐみばん5番組ばんぐみたばねる小十人こじゅうにんがしら長谷川はせがわ宣雄のぶお縁者えんじゃであることも、佐野さの大學だいがく勿論もちろん把握はあくしていた。


 幸田こうだ善太郎ぜんたろうには保明やすあきらなる実弟じっていがおり、書物奉行しょもつぶぎょうつとめた水原みはら次郎右衛門じろえもん保氏やすうじ養嗣子ようししとしてむかえられ、その当時とうじ―、宝暦13(1763)年3月の時点じてんにおいては水原みはら善次郎ぜんじろう保明やすあきら名乗なのり、小普請こぶしん組頭くみがしらつとめていた。


 その水原みはら善次郎ぜんじろう保明やすあきらだが、長谷川はせがわ宣雄のぶお養女ようじょ妻女さいじょむかえ、そのあいだ保興やすおきなる嫡子ちゃくしまでもうけていた。


 実際じっさいには守山藩もりやまはん松平まつだいら大學頭だいがくのかみ家中かちゅう三木みき忠太夫ちゅうだゆう忠任ただとうむすめ長谷川はせがわ宣雄のぶおもらけ、そだてた次第しだいで、宣雄のぶおとはつながりはない。


 だがつながらない養女ようじょとはもうせ、宣雄のぶお同然どうぜんそだて、大事だいじむすめであることにわりはない。


 水原みはら善次郎ぜんじろう保明やすあきらはその宣雄のぶお大事だいじなるむすめめとったわけで、宣雄のぶお水原みはら善次郎ぜんじろう保明やすあきらにとってはしゅうとたり、その水原みはら善次郎ぜんじろう保明やすあきら実兄じっけいこそが幸田こうだ善太郎ぜんたろうであった。


 目端めはし佐野さの大學だいがく勿論もちろん、このことを把握はあくしており、だからこそ宣雄のぶおたいして、おの組下くみか幸田こうだ善太郎ぜんたろう宣雄のぶお組下くみか組頭くみがしらえてはどうかと、そう打診だしんしたのであった。


 おのれ縁者えんじゃ組頭くみがしらともなれば、なにかと心強こころづよいであろう、佐野さの大學だいがく宣雄のぶおにそうも付加つけくわえたのであった。


 たしかにそのとおりであった。あか他人たにん組頭くみがしらになるよりも、縁者えんじゃ組頭くみがしらになってもらほうなにかと心強こころづよく、断然だんぜんい。


 しかしだからと言って、佐野さの大學だいがくすすめにしたがえば公私こうし混同こんどうそしりはまぬがれまい。


長谷川はせがわ宣雄のぶお幸田こうだ善太郎ぜんたろう縁者故えんじゃゆえ組頭くみがしら昇進しょうしんさせたのだ…」


 そのようそしりを宣雄のぶおおそれた。


 が、結局けっきょく宣雄のぶおじょうけ、佐野さの大學だいがくすすめに素直すなおおうじ、幸田こうだ善太郎ぜんたろうを2番組ばんぐみから引抜ひきぬ格好かっこうで、おのれ支配しはいする5番組ばんぐみ組頭くみがしらえたのであった。


 それが翌月よくげつの4月9日のことであった。


 ところで佐野さの大學だいがくがここまで長谷川はせがわ宣雄のぶお厚意こういしめしたのは勿論もちろんたんなる親切心しんせつしんからなどではだんじてなく、打算ださんからであった。


 このころ―、宝暦13(1763)年には佐野さの大學だいがく折角せっかく意次おきつぐもとへととつがせた孫娘まごむすめすで病歿びょうぼつしており、そこで佐野さの大學だいがくうえへのおぼえが目出度めでたい、それも意次おきつぐおぼえが目出度めでた長谷川はせがわ宣雄のぶお取入とりいるべく、かる厚意こういしめしたのであった。


 ここで長谷川はせがわ宣雄のぶおおんっておけば、あとなにかと、それも出世しゅっせやくつやもれぬと、佐野さの大學だいがくはそんな算盤そろばんはじいて宣雄のぶお厚意こういしめいたのだ。


 さてそのかん服部はっとり猪左衛門いざえもんはと言うと、長谷川はせがわ宣雄のぶおの「公私こうし混同こんどう」ぶりを非難ひなんするでもなく、あいわらず宣雄のぶおたいしてゆるぎない忠誠心ちゅうせいしんしめしていた。


 そのことは平蔵へいぞう間近まぢかておりっていた。


 その当時とうじ―、築地つきじ湊町みなとまち屋鋪やしきんでいたころ平蔵へいぞうはまだ十代じゅうだい少年しょうねんであったが、それでも服部はっとり猪左衛門いざえもんちち宣雄のぶおの「股肱ここうしん」であることはかんじられた。


 服部はっとり猪左衛門いざえもん平蔵へいぞうちち宣雄のぶおおなどしということもあり、平蔵へいぞうはこの服部はっとり猪左衛門いざえもんをもう一人ひとりちちごとくにしたい、服部はっとり猪左衛門いざえもん同様どうよう平蔵へいぞうじつせがれごと可愛かわいがり、服部はっとり猪左衛門いざえもんはその築地つきじ湊町みなとまちにある屋鋪やしきたずねたときには宣雄のぶおさけ酌交くみかわすだけでなく、平蔵へいぞうけんおしえたりもした。


 そのよう経緯いきさつがあり、平蔵へいぞう今日きょう鷹狩たかがりにおいて、服部はっとり猪左衛門いざえもん供弓ともゆみとして、それも岳父がくふ大橋おおはし與惣兵衛よそべえ支配しはいする西之丸にしのまる新番しんばん1番組ばんぐみ新番しんばんとして大活躍だいかつやくしたものだから、おおいに感慨深かんがいぶかいものがあった。


 ちち宣雄のぶお幸田こうだ善太郎ぜんたろう組頭くみがしらえてからまる一週間後いっしゅうかんごの宝暦13(1763)年4月16日、服部はっとり猪左衛門いざえもん西之丸にしのまる新番しんばんへと推挙すいきょしたのだ。


 これはその前年ぜんねんの宝暦12(1762)年に家基いえもと出生しゅっしょうしたことに由来ゆらいする。


 家基いえもとはゆくゆく次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるりをたすことになり、そこで西之丸にしのまるにおいてはいまから家基いえもと受入うけい態勢たいせいととのえる必要性ひつようせいせまられ、その中心ちゅうしん職制しょくせいであった。


 つまりはいつにても家基いえもとむかえられるようにと、役人やくにんを、西之丸にしのまるづき役人やくにん配置はいちするのだ。


 そこには西之丸にしのまる新番しんばんふくまれており、そこで本丸ほんまる小十人こじゅうにんぐみよりもひとを、こと長谷川はせがわ宣雄のぶお支配しはいする5番組ばんぐみよりは一人ひとり選抜せんばつするようにと、宣雄のぶお直属ちょくぞく上司じょうしたる若年寄わかどしよりからそうめいじられたのであった。


 本丸ほんまる西之丸にしのまるわず、新番しんばんと言えば小十人こじゅうにん組番ぐみばんよりも一階級ワンランクうえであり、本丸ほんまるにしかかれていない大番おおばん同格どうかくであった。


 それゆえ小十人こじゅうにん組番ぐみばんより新番しんばんへの異動いどう所謂いわゆる番替ばんがえ昇進しょうしん栄転えいてんほかならない。


 そこで宣雄のぶお今度こんどこそ、服部はっとり猪左衛門いえざえもんえらび、すると服部はっとり猪左衛門いざえもん今度こんど素直すなお昇進しょうしん栄転えいてんおうじたのであった。如何いか服部はっとり猪左衛門いざえもんいえども、二度にど拝辞はいじ出来できなかったからだ。


 かくして服部はっとり猪左衛門いざえもんはそれからさらに2日後の宝暦13(1763)年4月18日に西之丸にしのまる新番しんばんは1番組ばんぐみ配属はいぞくされ、いまいたる。


 ちなみにこのとき―、宝暦13(1763)年4月18日において西之丸にしのまる新番しんばん1番組ばんぐみかしら新番しんばんがしらつとめていたのはしくも芝山しばやま小兵衛こへえであった。宣雄のぶおが宝暦8(1758)9月15日に本丸ほんまる小十人こじゅうにんがしら着任ちゃくにんするまえまで、その小十人こじゅうにんがしらつとめていた、つまりは前任ぜんにん芝山しばやま小兵衛こへえであり、その直属ちょくぞく部下ぶか組頭くみがしらには大橋おおはし與惣兵衛よそべえはいされていた。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 家基いえもとたちは夕七つ(午後4時頃)に新井宿あらいじゅくでの鷹狩たかがりをえると、御城えどじょう西之丸にしのまるへと帰城きじょうとなった。


 だがその途次とじ品川しながわ東海寺とうかいじにて休息きゅうそくることにした。それが新井宿あらいじゅく出立しゅったつしてからおよ半刻はんとき(約1時間)ゆうの七つ半(午後5時頃)であった。


 家基いえもと本堂ほんどうへととおされ、その家基いえもととも本堂ほんどうにて休息きゅうそくれるのはやはり西之丸にしのまる老中ろうじゅうどう若年寄わかどしよりそば用取次ようとりつぎひらそばといったおもだった面々めんめんであり、ヒラの番士ばんしたちはここでもそと境内けいだいでの休息きゅうそくとなった。


 いや家基いえもとはヒラの番士ばんしでも供弓ともゆみとして大活躍だいかつやくした番士ばんしたちをも本堂ほんどうへとまねいて、そこでしばしのあいだ彼等かれら談笑だんしょうきょうじた。


 すなわち、西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん天野あまの彌兵衛やへえ小泉帯刀こいずみたてわき金田かねだ幸之助こうのすけ、そして西之丸にしのまる新番しんばん服部はっとり猪左衛門いざえもんであった。


 いや家基いえもとまねいたのは彼等かれらばかりではない、今日きょう鷹狩たかがりにおいて拍子木ひょうしぎやくとして見事みごとなる采配さいはいぶりをせつけた長谷川はせがわ平蔵へいぞうをもまねいては、平蔵へいぞうとも談笑だんしょうおよんだ。


「いや、じつ見事みごとなる采配さいはいぶり…、この家基いえもと側近そばちかくにてつかえてしいものよ…」


 家基いえもと平蔵へいぞうにそんな本音ほんねまでらした。


 側近そばちかくにてつかえてしい―、それはりもなおさず、


中奥なかおくにて小納戸こなんどとして、あるいは小姓こしょうとしてしい…」


 というもので、それはさら平蔵へいぞうにとっては昇進しょうしん栄転えいてんをも意味いみしていた。


 小納戸こなんど従六位じゅろくい布衣ほいやく小姓こしょう従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶやくであり、いずれにしろいま無位むい無官むかん、ヒラの書院番しょいんばん平蔵へいぞうにとっては昇進しょうしん栄転えいてんであった。


 家基いえもとがここまで平蔵へいぞうけるのもひとえに、


平蔵へいぞう眉目びもく秀麗しゅうれい頭脳ずのう明晰めいせきだから」


 それにきた。


 だからこそ家基いえもと平蔵へいぞう拍子木ひょうしぎやくという大役たいやくあたえ、すると平蔵へいぞう家基いえもと期待きたいこたえるべく、見事みごと、その大役たいやくたしたことから、家基いえもと益々ますます平蔵へいぞうでた。


 そのうえ平蔵へいぞう家基いえもと気持きもちを汲取くみとってもくれた。


 家基いえもと意知おきともをもでており、それゆえ西之丸にしのまるにもまねくこと度々たびたびであったが、そのさい意知おきとも西之丸にしのまるれまいと、西之丸にしのまる当番とうばんであった大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださと意知おきともまえ立塞たちふさがったことがある。


 意知おきとも大名だいみょう嫡子ちゃくしなれば、松平まつだいら忠郷たださと旗本はたもととはもうせ、かりにも大名だいみょう監察かんさつたる大目付おおめつけであった。


 無論むろん、この時代じだいともなると大名だいみょう監察かんさつ旗本はたもと御家人ごけにん監察かんさつする目附めつけたり、大目付おおめつけはと言うと、幕府ばくふ儀礼ぎれい典礼てんれいつかさど儀典ぎてんかんとしての色彩しきさいく、顕職けんしょく栄誉えいよしょくてき役職ポストと言えた。


 わるく言えば閑職かんしょくであったが、しかしそれでも大目付おおめつけ評定所ひょうじょうしょ構成こうせいし、まったくの閑職かんしょくとも言切いいきれず、やはり重職じゅうしょくであった。


 そうであれば大名だいみょう嫡子ちゃくし意知おきとも大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださととでは、松平まつだいら忠郷たださとほうちからうえであった。


 如何いか意知おきともいまときめく老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐそくであったとしてもだ。


 それゆえ意知おきともとしてはその松平まつだいら忠郷たださと立塞たちふさがれれば、西之丸にしのまるへの登営とえいあきらめねばならず、しかしそこへけたのが平蔵へいぞうであった。


 松平まつだいら忠郷たださと大目付おおめつけとはもうせ、そのはあくまで本丸附ほんまるづき役人やくにんであるのにたいして、平蔵へいぞうはと言うと西之丸にしのまる書院番しょいんばん西之丸にしのまる附属ふぞくする役人やくにんであり、そこで平蔵へいぞうはそのおのれ立場たちばもってして、松平まつだいら忠郷たださと押切おしき格好かっこう意知おきとも西之丸にしのまるへと、それも殿中でんちゅう表向おもてむきまで案内あんないしたのだ。


田沼たぬま山城守やましろのかみさまとゆるゆるとかたらいたい…、それがおそおおくも大納言だいなごんさま思召おぼしめしなれば、西之丸にしのまる警備けいびつかさどりし、この長谷川はせがわ平蔵へいぞう殿中でんちゅう表向おもてむきまで田沼たぬまさま案内あないつかまつる…」


 平蔵へいぞう対峙たいじしていた意知おきとも松平まつだいら忠郷たださととのあいだってはいると、そう口上こうじょうべたのであった。


 西之丸にしのまる警備けいび職掌しょくしょうとする平蔵へいぞうからそう言われてしまえば、松平まつだいら忠郷たださととしても引退ひきさがらざるをない。如何いか大目付おおめつけいえどもだ。


 こうして意知おきとも平蔵へいぞう案内あんないにより西之丸にしのまるへと登営とえい殿中でんちゅう表向おもてむきまですすむことが出来できたのであった。


 もっとも、平蔵へいぞう表向おもてむき役人やくにんであるので、意知おきとも案内あんない出来できるのは表向おもてむきまで、表向おもてむき中奥なかおく境目さかいめギリギリまでであった。中奥なかおくよりは中奥役人なかおくやくにんである小姓こしょう小納戸こなんど意知おきとも家基いえもともとへと案内あんないすることになる。


 それでもこの一件いっけんが―、平蔵へいぞう松平まつだいら忠郷たださとした一件いっけん家基いえもとみみたっするや、


今後こんご平蔵へいぞう意知おきとも案内あないまかせようぞ…」


 平蔵へいぞう意知おきともの「案内役あんないやく」をめいじたのだ。


 つまり意知おきとも案内あんないするときかぎり、中奥なかおくへとはいることをゆるしたのであった。


 さしずめ奥兼帯おくけんたい書院番しょいんばんといったところで、史上しじょうはつではなかろうか。奥兼帯おくけんたいと言えば老中ろうじゅう若年寄わかどしよりかぎられるからだ。


 ともあれ平蔵へいぞう爾来じらい意知おきとも案内あんないするときかぎってだが、意知おきともともない、中奥なかおくへとはいることがおおくなった。


 それもこれも、家基いえもとがそのように、つまりは平蔵へいぞう意知おきとも案内あんない出来できよう勤務シフトませたためであった。


 意知おきとも雁間がんのまつめしゅうでもあるので、「半役人はんやくにん」としてのかお持合もちあわせており、交代こうたい雁間がんのまめなければならず、その勿論もちろん西之丸にしのまるへと登営とえいすることは出来できない。


 一方いっぽう平蔵へいぞうつとめる西之丸にしのまる書院番しょいんばんだが、どう小姓組番こしょうぐみばんともに、朝番あさばん昼番ひるばん宵番よいばん、そして不寝番ねずのばんの4交代制こうたいせい勤務シフトであった。


 すなわち、朝番あさばんは朝五つ(午前8時頃)から昼八つ(午後2時頃)までの、昼番ひるばんは昼八つ(午後2時頃)から宵五つ(午後8時頃)までの、宵番よいばんは宵五つ(午後8時頃)から翌日よくじつの暁八つ(午前2時頃)までの、そして不寝番ねずのばんは暁八つ(午前2時頃)から朝五つ(午前8時頃)までの、夫々それぞれ勤務シフトであった。


 それゆえ意知おきとも西之丸にしのまるへと登営とえいするかぎって、平蔵へいぞう朝番あさばんあるいは昼番ひるばんつとめているとはかぎらない。


 意知おきとも西之丸にしのまるへと登営とえいするのはおもに、昼九つ(正午頃)から夕七つ(午後4時頃)までのあいだであり、西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばんあるいは書院番しょいんばん朝番あさばんか、昼番ひるばん勤務シフトはいっているあいだであり、そのあいだ平蔵へいぞう勤務シフトに、つまりは朝番あさばんか、昼番ひるばん勤務シフトはいっていなければ、意知おきとも家基いえもともとへと案内あんないすることが出来できない。


 そこで家基いえもとあらかじめ、意知おきとも登営とえいするめておき、その平蔵へいぞう朝番あさばん昼番ひるばんの12時間の勤務シフトめいじ、そのわり宵番よいばん不寝番ねずのばん免除めんじょした。


 その12時間の勤務シフトであるが、西之丸にしのまるへと登営とえいした意知おきとも家基いえもともとへと案内あんないさせ、それから家基いえもと意知おきとも談笑だんしょうしているあいだ平蔵へいぞうにも陪席ばいせきゆるし、そして談笑だんしょうわったならばふたたび、今度こんど意知おきとも見送みおくらせ、のこ時間じかん本来ほんらい職掌しょくしょうである殿中でんちゅう警衛けいえいたらせるというものであった。


 それゆえ平蔵へいぞうはどの相役あいやく書院番しょいんばんよりも、無論むろん西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばんよりも家基いえもとといる時間じかんながく、それだけ家基いえもと平蔵へいぞう期待きたいしている証左しょうさであった。


 さて、家基いえもと平蔵へいぞうとの談笑だんしょうしばらつづいたところで茶菓子ちゃがしはこばれてきた。


 勿論もちろん、ここでも家基いえもとしょくする茶菓子ちゃがしかんしてはぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえおよ膳番ぜんばん小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜんによる毒見どくみみであり、それを小姓こしょう山川貞榮やまかわさだよし伊藤いとう忠移ただのぶ、そして大久保おおくぼ靱負ゆきえ給仕きゅうじにより、家基いえもとはその茶菓子ちゃがしくちにしたのであった。


 と、その途端とたん家基いえもとくちにしたばかりの茶菓子ちゃがしくちにしたかとおもうと嘔吐おうとし、つづいて昏倒こんとうしたのであった。

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