第7話 安永8(1779)年2月21日 家基、最期の鷹狩り ~西之丸書院番士・長谷川平蔵の疑問~

大納言だいなごんさま、これを…」


 西之丸にしのまる目附めつけ小野おの次郎右衛門じろえもん忠喜ただよしはそう言って、陣笠じんがさ義経よしつねはかまという格好スタイル家基いえもと水筒すいとう差出さしだした。


 家基一行いえもといっこう今日きょう狩場かりばである新井宿あらいじゅくいたのは昼四つ(午前10時頃)であり、するとその途端とたん扈従こしょうした一人ひとり西之丸にしのまる目附めつけ小野おの次郎右衛門じろえもん家基いえもとのどかわきをうるおしてもらおうと、そこで水筒すいとう差出さしだしたのだ。


 御城えどじょう西之丸にしのまるよりここ新井宿あらいじゅくまでは一刻いっとき(約2時間)の道程みちのりであり、朝五つ(午前8時頃)に西之丸にしのまる出立しゅったつしてから新井宿あらいじゅくいたいま、昼四つ(午前10時頃)までのあいだ家基いえもとなにんではおらず、のどかわきをおぼえていたころであった。


 如何いかに2月とは言え、一刻いっとき(約2時間)もの道程みちのりなにまずでは流石さすがのどかわく。


 そこで家基いえもと小野おの次郎右衛門じろえもん厚意こうい素直すなおあまえることにし、次郎右衛門じろえもんから水筒すいとう受取うけとると、それを飲乾のみほした。


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 新井宿あらいじゅくにおいて昼四つ(午前10時頃)にはじまった鷹狩たかがりも、それから一刻いっとき(約2時間)ほど経過けいかした昼九つ(正午頃)ともなるといったん行厨こうちゅう昼飯ひるめしるべく休憩きゅうけいとなる。


 新井宿あらいじゅく鷹狩たかがりにおいては旗本はたもと木原家きはらけ陣屋じんやがその休息きゅうそく場所ばしょとなる。


 旗本はたもと木原家きはらけいまは1050石あまりもの采地さいちち、そのうち、440石あまりもの知行ちぎょうはここ新井宿あらいじゅくぞくする。


 祖先そせん木原きはら七郎兵衛しちろべえ吉次よしつぐがこの新井宿あらいじゅくに440石あまりもの所領しょりょう安堵あんどされたのを皮切かわきりに、その子孫しそん徐々じょじょ知行所ちぎょうしょやしていき、いまいたる。


 その木原家きはらけいま当主とうしゅ本丸ほんまる書院番しょいんばん6番組ばんぐみぞくする兵三郎ひょうざぶろう白郷あきさとであり、木原きはら兵三郎ひょうざぶろう一族郎党いちぞくろうとう家基一行いえもといっこう出迎でむかえた。


 もっとも、陣屋じんやと言っても、家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうした者達全員ものたちぜんいん収容しゅうよう出来できほどのスペースはない。


 陣屋じんやはいれるのは、つまりは陣屋じんやなか昼飯ひるめしべられるのは家基いえもとそのひとほかには西之丸にしのまる老中ろうじゅう西之丸にしのまる若年寄わかどしよりそば用取次ようとりつぎひらそば、それに小納戸こなんど頭取とうどり小姓こしょう頭取とうどり小姓こしょう小納戸こなんどといった従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶやくあるいはおもだった布衣ほいやくかぎられていた。ちなみにそこには西之丸にしのまる書院番しょいんばん1番組ばんぐみたばねる番頭ばんがしら大嶋おおしま肥前守ひぜんのかみ義里よしさとふくまれており、この大嶋義里おおしまよしさと木原きはら兵三郎ひょうざぶろう岳父がくふたる。


 木原きはら兵三郎ひょうざぶろう大嶋義里おおしまよしさとむすめ、それも三女さんじょめとっていたからだ。


 その木原きはら兵三郎ひょうざぶろう鷹狩たかがりですっかりはらかした家基いえもととそれに扈従こしょうした幕臣ばくしんたちのため昼餉ひるげ用意よういするわけだが、こと家基いえもときょうされるぜんかぎっては勿論もちろん毒見どくみされる。


 そのためぜん奉行ぶぎょうぜんばん小納戸こなんど勿論もちろん扈従こしょうしており、今日きょうぜん奉行ぶぎょうにおいては松野まつの六郎兵衛ろくろべえが、一方いっぽう小納戸こなんどにおいては石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜん両名りょうめい各々おのおの扈従こしょうしており、そこでまずぜん奉行ぶぎょう松野まつの六郎兵衛ろくろべえ毒見どくみをしたのち、ダブルチェックよろしく膳番ぜんばん小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん三浦左膳みうらさぜんがもう一度いちど、それも松野まつの六郎兵衛ろくろべえ監視かんしもと毒見どくみおこない、こうしてぜん異常いじょうがないことがたしかめられるや、彼等かれらにより家基いえもとぜんへと、その毒見どくみませたぜんはこばれる。


 こうして家基いえもとぜん小納戸こなんどぜん奉行ぶぎょうによってぜんならべられるや、そばひかえていた小姓こしょうあと引継ひきつぐ。


 すなわち、小姓こしょう給仕きゅうじにない、そのため小姓こしょうからは頭取とうどり一人ひとり山川やまかわ越前守えちぜんのかみ貞榮さだよしとヒラの小姓こしょう伊藤いとう對馬守つしまのかみ忠移ただのぶ、そして大久保おおくぼ靱負ゆきえ忠俶ただあつ扈従こしょうさせた。


 このうち伊藤いとう忠移ただよし大久保おおくぼ靱負ゆきえ二人ふたり清水家しみずけ所縁ゆかりがあり、一方いっぽう山川貞榮やまかわさだよし田沼たぬま意次おきつぐ所縁ゆかりがあった。いや正確せいかくには意次おきつぐ意知おきとも父子ふししたしいことでられる長谷川はせがわ平蔵へいぞう所縁ゆかりがあった。


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 木原家きはらけ陣屋じんやそとではヒラの番士ばんしたちのため炊出たきだしがおこなわれていた。


 陣屋じんやなか昼飯ひるめしべられないヒラの番士ばんしたちはそと昼飯ひるめしることになり、やはり木原家きはらけ用意よういしてくれた茣蓙ございておもおもい、グループつくっては昼飯ひるめし舌鼓したつづみった。


 そこには長谷川はせがわ平蔵へいぞう姿すがたもあった。


 平蔵へいぞう西之丸にしのまる書院番しょいんばんは4番組ばんぐみぞくする番士ばんしであり、おなじく4番組ばんぐみぞくする大久保おおくぼ勝次郎かつじろう忠居ただおき兼松かねまつ又四郎またしろう正景まさかげ、それに西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん、1番組ばんぐみぞくする大橋おおはし千之丞せんのすけ親號ちかなの4人で昼飯ひるめしかこんでいた。


 みな平蔵へいぞう縁者えんじゃであり、このなかでもとりわけ大久保おおくぼ勝次郎かつじろう一番いちばん平蔵へいぞう所縁ゆかりふかかった。


 それと言うのも大久保おおくぼ勝次郎かつじろう平蔵へいぞう唯一ゆいいつ実妹じつまいめとっており、それゆえ平蔵へいぞうにとっては義弟ぎていたる。


 また兼松かねまつ又四郎またしろうだが、これは平蔵へいぞう義理ぎりいもうと実兄じっけいたる。


 すなわち、平蔵へいぞう実父じっぷ長谷川はせがわ備中守びっちゅうのかみ宣雄のぶお駿府すんぷ町奉行まちぶぎょうつとめた朝倉あさくら仁左衛門にざえもん景増かげます三女さんじょ養女ようじょとしてむかえ、嫡子ちゃくし平蔵へいぞうともそだてたのだが、この三女さんじょ実兄じっけい―、朝倉あさくら仁左衛門にざえもん次男じなんこそが又四郎またしろう景正かげまさであるのだ。


 又四郎またしろう景正かげまさ次男じなんであるがゆえ朝倉家あさくらけぐことは出来できず、他家たけへと養子ようしされることになり、そこで本丸書院番ほんまるしょいんばんつとめた兼松かねまつ吉五郎きちごろう正僚まさとも養嗣子ようししに、それも末期養子まつごようしむかえられ、兼松家かねまつけいでいまいたる。


 そして大橋おおはし千之丞せんのすけ親號ちかなだが、平蔵へいぞう妻女さいじょである靜榮しずえ実父じっぷ大橋おおはし與惣兵衛よそべえ親英ちかひで養嗣子ようししであった。


 千之丞せんのすけ親號ちかなじつ医者いしゃまれであり、幕府ばくふ医官いかんおもてばん医師いしつとめた野間のま玄琢成育げんたくせいいく三男さんなんであり、それが大橋おおはし與惣兵衛よそべえ養嗣子ようししとしてむかえられたのだ。


 それゆえ大橋おおはし千之丞せんのすけ靜榮しずえにとっては義理ぎりとはおとうとたり、靜榮しずえおっと平蔵へいぞうにとっても義弟ぎていたる。


 ちなみにこの大橋おおはし千之丞せんのすけ養父ようふ大橋おおはし與惣兵衛よそべえだが、西之丸にしのまる新番組しんばんぐみは1番組ばんぐみ組頭くみがしらとして今日きょう家基いえもと鷹狩たかがりにも組下くみか番士ばんししたがえて扈従こしょうしていた。


「いや…、流石さすが兄上あにうえじつ見事みごとなる采配さいはいでありましたな…」


 大久保おおくぼ勝次郎かつじろう平蔵へいぞうにそうこえをかけた。


 見事みごとなる采配さいはいとはほかでもない、拍子木ひょうしぎやくとしてのつとめぶりのことである。


 平蔵へいぞう今日きょう鷹狩たかがりにおいて勢子せこ指揮しき拍子木ひょうしぎやくえらばれ、その指揮しきったのだ。


 鷹狩たかがりにおいては勢子せこ獲物えものである鳥獣ちょうじゅう将軍しょうぐん―、今日きょう場合ばあい次期じき将軍しょうぐんたる家基いえもとじんまで追立おいたて、それを家基いえもとたか仕留しとめさせるわけだが、この勢子せこ指揮しきするのが拍子木ひょうしぎやくであり、小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばんりょうばんなかから一人ひとりえらばれ、今日きょう鷹狩たかがりにおいては長谷川はせがわ平蔵へいぞうえらばれた。


 一方いっぽう拍子木ひょうしぎやく指図さしずける勢子せこつとめるのもまた、りょうばん小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばんりょうばんであり、それだけに拍子木ひょうしぎやくりょうばん指揮官しきかんとも言え、れがましい御役おやくであった。


 そして平蔵へいぞうはその拍子木ひょうしぎやく無事ぶじに、それも見事みごとつとげたのであった。


 大久保おおくぼ勝次郎かつじろうはそれゆえ義兄ぎけい長谷川はせがわ平蔵へいぞうのその拍子木ひょうしぎやくとしてのつとめぶりを称揚しょうようしたのであった。


「いや…、各々方おのおのがたがこの未熟みじゅくなる平蔵へいぞうててくれたゆえ…」


 みなかげだと、平蔵へいぞう謙遜けんそんがてら、大久保おおくぼ勝次郎かつじろうらに感謝かんしゃした。


なにかと小五月蠅こうるさやから今日きょう姿すがたえないゆえ一層いっそう指揮しきやすかったのではござるまいか?」


 そうくちはさんだのは4人のなかでは最年長さいねんちょうかぞえで39の兼松かねまつ又四郎またしろうであり、そのかおには皮肉ひにくみがかんでいた。


 なにかと小五月蠅こうるさやから―、それが森川大學長愛もりかわだいがくながよししていることはあきらかであった。


 森川大學もりかわだいがく長谷川はせがわ平蔵へいぞうの「先輩せんぱい」にたる。


 平蔵へいぞういまから5年前ねんまえの安永3(1774)年は4月13日に西之丸にしのまる書院番しょいんばんは4番組ばんぐみ番入ばんいり就職しゅうしょくたし、ちなみにこのとき兼松かねまつ又四郎またしろう大久保おおくぼ勝次郎かつじろう番入ばんいり就職しゅうしょくたしたので、平蔵へいぞうにとって兼松かねまつ又四郎またしろう大久保おおくぼ勝次郎かつじろうとは「同期どうきさくら」でもあった。


 これにたいして森川大學もりかわだいがくはそれよりも4ねんはやい明和7(1770)年8月に番入ばんいり就職しゅうしょくたしており、平蔵へいぞうたちにとっては先輩せんぱいたる。


 そんななか森川大學もりかわだいがく平蔵へいぞうにだけ「風当かぜあたり」をつよくしていた。


 それは進物番しんもつばん遠因えんいんがあった。


 進物番しんもつばんとは将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐんへと大名だいみょう旗本はたもとたちからの贈物おくりもの、つまりは進物しんもつわるく言えば賄賂わいろ受取うけとかかりのことであり、それだけに眉目びもく秀麗しゅうれい頭脳ずのう明晰めいせきなるものえらばれる。


 進物しんもつとどける大名だいみょう旗本はたもとらへの対応たいおう接遇せつぐうたるのは「醜男ぶおとこ」や「白痴ばか」よりも眉目びもく秀麗しゅうれい頭脳ずのう明晰めいせきほういにまっているからだ。


 それも本丸ほんまる西之丸にしのまるわず、小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばんりょうばんなかからえらばれ、平蔵へいぞうはこの進物番しんもつばんに4年前ねんまえの安永4(1775)年11月11日にえらばれたのであるが、このとき森川大學もりかわだいがくえらばれ、しかし森川大學もりかわだいがくはこのことがらなかった。


 それと言うのも森川大學もりかわだいがく西之丸にしのまる書院番しょいんばん番入ばんいり就職しゅうしょくしてから5ねん以上いじょう経過けいかしてからようやくに進物番しんもつばんえらばれたと言うに、平蔵へいぞうはと言うと、それとはぎゃくわずか1年で進物番しんもつばんえらばれたからだ。


 よう平蔵へいぞうたいする嫉妬しっとであった。


 いや、それはなに平蔵へいぞうかぎったはなしではなかった。


 このとき―、安永4(1775)年11月11日に進物番しんもつばんえらばれたのは長谷川はせがわ平蔵へいぞう森川大學もりかわだいがくほかにも12人もおり、そのなかには平蔵へいぞうよりもさら番入ばんいり就職しゅうしょくおそものもいた。


 たとえば小倉おぐら相模守さがみのかみ正眞まさざねがそうだ。


 小倉おぐら正眞まさざね平蔵へいぞうよりもおくれること半年以上はんとし以上、安永3(1774)年10月27日に本丸書院番ほんまるしょいんばんは5番組ばんぐみ番入ばんいり就職しゅうしょくたし、それから1年後ねんごの安永4(1775)年11月11日に進物番しんもつばんえらばれたわけだが、小倉おぐら正眞まさざねはそれからさらなる「飛躍ひやく」をげた。


 進物番しんもつばん選抜せんばつされてから1ねんたないの安永5(1776)年9月には従六位じゅろくい布衣ほいやくである本丸ほんまる小納戸こなんど取立とりたてられたのであった。


 それはひとえに、小倉おぐら正眞まさざね実力じつりょくによる。将軍しょうぐん家治いえはる小倉おぐら正眞まさざねのその進物番しんもつばんとしてのはたらきぶりにめ、そこでおのれ側近そばちかくにつかえさせようとほっし、本丸ほんまる小納戸こなんどとして正眞まさざね召出めしだしたのであった。


 そこでも小倉おぐら正眞まさざね家治いえはる期待きたいこたえる格好かっこうで、見事みごと小納戸こなんどとしての仕事しごとをこなしてみせ、そこで家治いえはる正眞まさざね従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶやく小姓こしょうへと引上ひきあげ、いまいたる。


 それゆえ小倉おぐら正眞まさざね平蔵へいぞう森川大學もりかわだいがくらとおな進物番しんもつばんえらばれたなかでは一番いちばんの「出世しゅっせがしら」とも言え、これでかり正眞まさざね本丸書院番ほんまるしょいんばん5番組ばんぐみではなく、平蔵へいぞう森川大學もりかわだいがくぞくする西之丸にしのまる書院番しょいんばん4番組ばんぐみ番士ばんしであったならば、平蔵同様へいぞうどうよう森川大學もりかわだいがくからの羨望せんぼう嫉妬しっとまとになっていたであろう。いや被害ひがいけていたにちがいない。


 そのよう羨望せんぼう嫉妬しっとをするひまがあるのならば、研鑽けんさんつとめ、おのれけじとさらなる「飛躍ひやく」をげればいだけである。


 ことに、「対平蔵たいへいぞう」という関係かんけいにおいては平蔵へいぞう切磋琢磨せっさたくま平蔵へいぞうよりも努力どりょくして、平蔵へいぞうより一歩いっぽさきんじればいだけのはなしであるが、しかし森川大學もりかわだいがくは「この」の努力どりょくをすることにはあま関心かんしんはらわなかった。


 なにしろ森川大學もりかわだいがく切磋琢磨せっさたくま努力どりょくといったものとは無縁むえん住人じゅうにんだからだ。


 森川大學もりかわだいがく羨望せんぼう嫉妬しっと唯一ゆいいつきがいとし、そうであればそれとは正反対せいはんたいの、努力どりょくいとわぬ長谷川はせがわ平蔵へいぞうにそのよう森川大學もりかわだいがくかなはずもなく、今日きょう鷹狩たかがりにおいて平蔵へいぞう花形はながた拍子木ひょうしぎやくえらばれたのもひとえ平蔵へいぞう日頃ひごろ努力どりょく賜物たまものと言えた。


 だが森川大學もりかわだいがくはそれがらず、そこで今日きょう鷹狩たかがりを欠席けっせきしたのだろうと、それが兼松かねまつ又四郎またしろうの「見立みたて」であった。


 なにしろ、鷹狩たかがりにおいて勢子せこ指揮しきする拍子木ひょうしぎやく長谷川はせがわ平蔵へいぞうえらばれたからには、鷹狩たかがりに扈従こしょうしたほか番士ばんしたちは必然的ひつぜんてき勢子せこつとめることになり、森川大學もりかわだいがく場合ばあい平蔵へいぞう指揮下しきか次期じき将軍しょうぐん家基いえもとじんへと獲物えものである鳥獣ちょうじゅう追立おいたてねばならないことになる。


 だがそれは森川大學もりかわだいがくにはがた屈辱くつじょくであろう。


 いや、それならば供弓ともゆみえらばれればい。


 供弓ともゆみとは鷹狩たかがりにおいて将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐん近侍きんじし、将軍しょうぐん次期じき将軍しょうぐんつづいて弓矢ゆみや獲物えもの仕留しとめる。


 この供弓ともゆみえらばれれば、勢子せこにならずともむ。つまりは長谷川はせがわ平蔵へいぞう指揮しきけずにむというわけだが、しかし生憎あいにく努力どりょくいと森川大學もりかわだいがくには供弓ともゆみえらばれるほど弓矢ゆみや技量ぎりょうはなく、精々せいぜい勢子せことして「活躍かつやく」するのが精一杯せいいっぱいであった。


 それゆえ森川大學もりかわだいがく今日きょう鷹狩たかがりを「ズルやすみ」したのだろうと、兼松かねまつ又四郎またしろうはそう指摘してきし、平蔵へいぞう一度いちどはその指摘してき納得なっとくし、「成程なるほど…」とうなずきかけたものの、しかしぐに「いや…」とおもなおした。


「それにしては…、今日きょうはやけに欠勤けっきんおおような…」


 平蔵へいぞうはそうおもえてならず、事実じじつ、そのとおりであった。


 今日きょう家基いえもと鷹狩たかがりにおける扈従こしょうだが、りょうばん西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばんりょうばんかんして言えば、小姓組番こしょうぐみばんよりは1番組ばんぐみが、書院番しょいんばんよりは4番組ばんぐみ夫々それぞれ扈従こしょうめいじられていた。


 にもかかわらず、4番組ばんぐみにおいては森川大學もりかわだいがくほかにもベテランの野々山ののやま彌吉やきち兼有かねあり金森かなもり彦四郎ひこしろう臺賢ともかた平蔵へいぞうらとは「同期どうきさくら」の上野うえの勘解由かげゆ資徳すけのり柴田しばた半助勝壽はんすけかつながの4人にくわえ、組頭くみがしら牟禮むれい郷右衛門ごうえもん勝孟かつたけまでが欠勤けっきん今日きょう鷹狩たかがりに姿すがたせていなかったのだ。


 4番組ばんぐみはヒラの番士ばんしだけでも43人が所属しょぞくしているものの、その1割以上いじょうの5人にくわえ、番頭ばんがしらわってばん事実上じじつじょう仕切しきっている組頭くみがしらまでが一時いちどきに、それも鷹狩たかがりという重要じゅうよう行事イベント欠席けっせきするとはいささか、どころかおおいにくびかしげざるをず、実際じっさい平蔵へいぞうくびかしげていた。


 いや、それは平蔵へいぞうだけではない。大橋おおはし千之丞せんのすけにしても同様どうようであった。


 大橋おおはし千之丞せんのすけは「そう言えば…」と切出きりだすや、おのれ所属しょぞくする西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん1番組ばんぐみにおいても今日きょうはやけに欠勤けっきんおおいことを打明うちあけたのであった。


 すなわち、武嶋右膳茂辰たけしまゆうぜんしげとき小笠原おがさわら勝三郎かつさぶろう信将のぶまさ諏訪すわ伊織いおり頼逵よりみち瀧川たきがわ千次郎せんじろう一興かずおき内山うちやま茂十郎もじゅうろう永恭ながのり、そして青木あおき久太郎きゅうたろう義知よしちかの6人が欠勤けっきんしていたのだ。


 西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん1番組ばんぐみ同書院番どうしょいんばん4番組ばんぐみよりもおおい、48人もの番士ばんし附属ふぞくしていたものの、それでもその1わり以上いじょうもの6人が欠勤けっきんおよんでいた。


 平蔵へいぞうぞくする書院番しょいんばん4番組ばんぐみとはことなり、組頭くみがしらこそ欠勤けっきんしてはいないものの、それでもヒラの番士ばんし一時いちどきに6人も欠席けっせきおよぶとはきわめてまれであった。


 いや平蔵へいぞうぞくする書院番しょいんばん4番組ばんぐみとて組頭くみがしらを|加えれば、やはり同数どうすうの6人が欠勤けっきんおよんでいるわけで、これは最早もはや只事ただごとではないようおもわれた。


 もっとも、6人が欠席けっせきしたからと言って、それで鷹狩たかがりに支障ししょうようなことはなかった


 すなわち、平蔵へいぞうぞくする西之丸にしのまる書院番しょいんばん4番組ばんぐみにおいては、それも欠席けっせきしたヒラの5人の番士ばんしについてはおなじく西之丸にしのまるべつばんより―、書院番しょいんばん1番組ばんぐみから3番組ばんぐみよりヒラの5人の番士ばんし補充ほじゅうされた。


 具体的ぐたいてきには1番組ばんぐみより坂井左兵衛さかいさへえ成服しげつぐが、2番組ばんぐみより福村ふくむら理太夫りだゆう正慰まさやす水野みずの彌兵衛やへえ守安もりやす、それに伊丹いたみ三十郎さんじゅうろう勝英かつひでが、そして3番組ばんぐみより栗原くりはら仁右衛門にえもん利乙としくに夫々それぞれ補充ほじゅうされた。


 また欠席けっせきした組頭くみがしら牟禮むれい郷右衛門ごうえもん補充ほじゅうだが、これは本丸ほんまる小納戸こなんど水谷みずのや彌之助やのすけ勝里かつさとてられた。


 書院組しょいんくみがしら小納戸こなんどとも従六位じゅろくい布衣ほいやくだから、というのがその理由わけらしかったが、しかしそれならば本丸ほんまる小納戸こなんどではなく西之丸にしのまる小納戸こなんどからえらべばいものをと、平蔵へいぞうはそう疑問ぎもんかんじずにはいられなかった。


 もっとも、西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん1番組ばんぐみにおける補充ほじゅうくらべればそれほど疑問ぎもんではなかったやもれぬ。


 西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん1番組ばんぐみにおいては欠席けっせきしたヒラの6人の番士ばんし補充ほじゅう要員よういんとして、松平まつだいら十蔵じゅうぞう親芳ちかよし朝比奈あさひな采女うねめ盛連もりつら島崎しまざき一郎右衛門いちろうえもん忠儔ただとも本多ほんだ彌三郎やさぶろう忠幹ただより、そして出井いでい平助正恒へいすけまさつね松平まつだいら靱負ゆきえ定堅さだかたえらばれたそうだが、そのうち西之丸にしのまる小姓組番こしょうぐみばん松平まつだいら靱負ゆきえ唯一人ただひとりであり、あとの5人はみな本丸小姓組番ほんまるこしょうぐみばんというのである。


 大橋おおはし千之丞せんのすけよりそうかされた長谷川はせがわ平蔵へいぞうおおいにくびかしげたものである。


 いや、それを言うならば医師いしについてもくびかしげざるをなかった。


 鷹狩たかがりは建前たてまえとしては軍事ぐんじ訓練くんれんであり、そのじつ娯楽レクリエーションであったが、しかしそれでもつね怪我けが危険きけんまとい、そこでかなら医師いし扈従こしょうする。


 家基いえもと鷹狩たかがりの場合ばあい家基いえもと次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるあるじであるので、西之丸にしのまるづきおく医師いし家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうすることになり、いままでの鷹狩たかがりはずっとそうであった。


 だが今日きょう―、安永8(1779)年2月21日の鷹狩たかがりにおいては西之丸にしのまるづきおく医師いしだれ一人ひとりとして家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうせず、わりに本丸奥ほんまるおく医師いし池原雲伯良誠いけはらうんぱくよしのぶ扈従こしょうしているだけであった。


 本丸奥ほんまるおく医師いし本丸ほんまるあるじたる将軍しょうぐん近侍きんじする医師いしであり、これまでにも西之丸にしのまるあるじたる次期じき将軍しょうぐん家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうするケース度々たびたびあったが、その場合ばあいでもつね西之丸にしのまるおく医師いし一緒セットであり、本丸奥ほんまるおく医師いしだけが扈従こしょうするケースはなかった。


 それが今日きょうかぎって、本来ほんらいならばありないと、そう断言だんげんしても過言かごんではないほど事態じたいこった、すなわち、本丸奥ほんまるおく医師いし池原良誠いけはらよしのぶだけが扈従こしょうしたものだから、平蔵へいぞうおおいにくびかしげると同時どうじに、れぬ不安ふあんおそわれた。


何事なにごときなければいが…」


 平蔵へいぞう今日きょう鷹狩たかがりも無事ぶじえられるよう、そうねがった。

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