第6話 安永8(1779)年2月21日 家基、最期の鷹狩り ~序章~

「あの…、まこと、この兵部ひょうぶめが大納言だいなごんさま放鷹ほうよう扈従こしょうしてもよろしいか?」


 奏者番そうじゃばん井伊いい兵部少輔ひょうぶのしょうゆう直朗なおあきら相役あいやく同僚どうりょう奏者番そうじゃばん井上いのうえ河内守かわちのかみ正定まささだたいしてたしかめるようたずねた。


 二人ふたりはただ同僚どうりょうというだけではない、とも今日きょう、2月21日が西之丸にしのまる当番とうばんであった。


 通常つうじょう西之丸にしのまる当番とうばん一人ひとりであり、それはこの奏者番そうじゃばんにしても、あるいは大目付おおめつけにしても同様どうようである。


 だが今日きょうよう西之丸にしのまるあるじが―、いま次期じき将軍しょうぐんたる大納言だいなごん鷹狩たかがりへと外出がいしゅつする場合ばあいには西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん大目付おおめつけもこれに扈従こしょう随行ずいこうしなければならない。


 その場合ばあい西之丸にしのまるには本来ほんらい当番とうばんとして西之丸にしのまるあずかる奏者番そうじゃばん大目付おおめつけ不在ふざいとなる。


 無論むろん西之丸にしのまるには留守居るすい所謂いわゆる西之丸にしのまる留守居るすいもいるにはいるものの、彼等かれらにだけで西之丸にしのまる留守るすあずからせるのはいささ心許こころもとない。


 そこで奏者番そうじゃばん大目付おおめつけから夫々それぞれ今一人いまひとり西之丸にしのまる当番とうばんえらばれ、西之丸にしのまる留守るすあずかることになる。


 これを「たかとき居残いのこりばん」としょうし、今日きょう、2月21日の大納言だいなごん家基いえもと鷹狩たかがりにおいては本来ほんらい井上正定いのうえまささだ扈従こしょうし、一方いっぽう井伊いい直朗なおあきらがその「たかとき居残いのこりばん」として西之丸にしのまる留守るすあずかるはずであった。


 それが昨日きのうになって急遽きゅうきょ変更へんこうとなったのだ。


 昨日きのう月番つきばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう牧野まきの豊前守ぶぜんのかみ惟成これしげより井上正定いのうえまささだおよ井伊いい直朗なおあきら、それぞれの上屋敷かみやしきへとそのむね通達つうたつがあったのだ。


 奏者番そうじゃばんなかでもだれ何時いつ西之丸にしのまる当番とうばんめいずるか、あるいは「たかとき居残いのこりばん」をめいずるのか、それは奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社じしゃ奉行ぶぎょう、それも月番つきばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう決定けっていけんがあった。


 今月こんげつ2月は寺社じしゃ奉行ぶぎょうにおいては牧野まきの惟成これしげ月番つきばんであるので、かる決定権けっていけんはその牧野まきの惟成これしげにあり、一昨日おとといまでは、


「2月21日における大納言だいなごん家基いえもと鷹狩たかがりには井伊いい直朗なおあきら扈従こしょうし、井上正定いのうえまささだたかとき居残いのこりばんつとめる…」


 それこそが牧野まきの惟成これしげ決定けっていした本来ほんらい予定よていであった。


 それが昨日きのうになって急遽きゅうきょ変更へんこうになったのはもう一人ひとり寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた備後守びんごのかみ資愛すけよし所為せいである。


 太田おおた資愛すけよし牧野まきの惟成これしげともいまから11年前ねんまえの明和5(1768)年のそれも7月朔日ついたち奏者番そうじゃばん取立とりたてられた、わば「同期どうきさくら」である。


 爾来じらい牧野まきの惟成これしげ太田おおた資愛すけよししたしく付合つきあようになった。


 その二人ふたりだが、奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうである寺社じしゃ奉行ぶぎょうへと昇進しょうしんげたのは太田おおた資愛すけよしほうで、4年前ねんまえの安永4(1775)年8月で、牧野まきの惟成これしげはそれよりおくれること2年、いまから2年前ねんまえでもある安永6(1777)年9月であった。


 寺社じしゃ奉行ぶぎょうともなると、ヒラ奏者番そうじゃばんたいしてはそれこそ、将軍しょうぐんごと振舞ふるまい、一方いっぽう奏者番そうじゃばん筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうたいしては将軍しょうぐんたいするかのごとかしずかねばならない。


 だが太田おおた資愛すけよしこと牧野まきの惟成これしげたいしては将軍しょうぐんごと振舞ふるまうことはなかった。


 太田おおた資愛すけよし奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうである寺社じしゃ奉行ぶぎょう牧野まきの惟成これしげ相変あいかわらずヒラ奏者番そうじゃばんであったのは安永4(1775)年8月から安永6(1777)年9月までの2ねん以上いじょうにもわたるが、しかしそのかん太田おおた資愛すけよし牧野まきの惟成これしげたいしては将軍しょうぐんごと振舞ふるまうことはなく、あくまで「同期どうきさくら」としてせっしていたのだ。


 その太田おおた資愛すけよしより、


「2月21日の大納言だいなごんさま放鷹ほうようだが、井伊いい直朗なおあきら扈従こしょうめいじ、一方いっぽう井上正定いのうえまささだ居残いのこりめいじてはどうか…」


 そう変更へんこうすすめられては牧野まきの惟成これしげとしてもしたがわざるをまい。


 それに「打算ださん」もあった。すなわち、


井伊いい直朗なおあきら本家ほんけ彦根ひこね井伊家いいけ…、その当主とうしゅたる直幸なおひでいまときめく田沼たぬま意次おきつぐともしたしく、さればここは直朗なおあきらおんっておいてもそんはないぞえ…」


 大納言だいなごん家基いえもと鷹狩たかがりの扈従こしょうというれがましいやく井伊いい直朗なおあきらめいじれば、直朗なおあきらはきっと牧野まきの惟成これしげ感謝かんしゃするにちがいなく、ひいては直朗なおあきらかいして本家ほんけすじ井伊いい直幸なおひでまでをも感謝かんしゃさせることになるやもれぬ―、分家ぶんけすじ直朗なおあきらをかけてくれたことに井伊いい直幸なおひで感謝かんしゃし、それはそのままさらなる昇進しょうしんへとつながるやもれぬ―、直幸なおひでが「恩返おんがえし」とばかりしたしくしている意次おきつぐ牧野まきの惟成これしげのことを、ようはその昇進しょうしんたのんでくれるやもれぬと、太田おおた資愛すけよし牧野まきの惟成これしげにそうささやいたのだ。


 かる次第しだい牧野まきの惟成これしげ太田おおた資愛すけよしとの「友情ゆうじょう」と昇進しょうしんという「打算ださん」、このふたつがわさり、変更へんこうすることにしたのだ。


 もっとも、それで井伊いい直朗なおあきら牧野まきの惟成これしげ期待きたいしたようには素直すなおにはよろこばず、それどころか戸惑とまどいのほうおおきかった。


 一応いちおう井伊いい直朗なおあきら井上正定いのうえまささだ先輩せんぱいたる。


 井伊いい直朗なおあきら奏者番そうじゃばん取立とりたてられたのは明和7(1770)年12月であり、一方いっぽう井上正定いのうえまささだ奏者番そうじゃばん取立とりたてられたのはそれよりも4年もおそい安永3(1774)年12月のことであった。


 その井伊いい直朗なおあきら井上正定いのうえまささだだが、めぐわせか、井伊いい直朗なおあきら度々たびたび家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょう随行ずいこうする機会きかいめぐまれていたのにたいして、井上正定いのうえまささだはどういうわけいままで一度いちどたりともその機会きかいめぐまれず、それゆえ井上正定いのうえまささだにとっては今日きょうはじめての家基いえもと鷹狩たかがりへの扈従こしょうとなるはずであった。


 それが急遽きゅうきょ変更へんこう家基いえもと鷹狩たかがりには井伊いい直朗なおあきら扈従こしょうすることになり、一方いっぽう井上正定いのうえまささだが「居残いのこりばん」として西之丸にしのまる留守るすあずかることになったのだから、これでは如何いか井伊いい直幸なおひで井上正定いのうえまささだ先輩せんぱいとはもうせ、流石さすがわるいとおもい、「放鷹ほうよう扈従こしょうしてもよろしいか?」と正定まささだ気遣きづかってせたのだ。


 すると井上正定いのうえまささだはと言うと、「無論むろんのこと」と笑顔えがおおうじたのだ。


 井上正定いのうえまささだなんわだかまりもってはいないかのよう振舞ふるまい、しかし井伊いい直朗なおあきらはそれがかえって不気味ぶきみであった。


我等われら奏者番そうじゃばん筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行ぶぎょうさまめられたことなれば、それにしたがうよりほかにはござりますまい?」


 井上正定いのうえまささだはそう言葉ことばかさねた。その口調くちょういささ皮肉ひにくめいてはいたが、そのとおりであった。たしかに寺社じしゃ奉行ぶぎょうめた以上いじょう奏者番そうじゃばんとしてはこれにしたがうよりほかになかった。


「それに…、そのちで左様さよう気遣きづかわれましても…」


 井上正定いのうえまささださらにそうも付加つけくわえ、その言葉ことばにははっきりと皮肉ひにくめられており、冷笑れいしょうかべてもいた。


 もっとも、井上正定いのうえまささだ立場たちばではそう皮肉ひにくを言うのも当然とうぜんと言えば当然とうぜんであった。


 なにしろいま井伊いい直朗なおあきらち、格好スタイルはと言うと、野袴のばかまというしっかりと鷹狩たかがりのそれであり、しかもには草鞋わらじまでにぎられており、しっかり鷹狩たかがりに扈従こしょうする満々まんまんと言えた。


 そのよう井伊いい直朗なおあきらから気遣きづかわれたところで、井上正定いのうえまささだとしてはシラけるばかりであろう。


 井伊いい直朗なおあきらかえ言葉ことばがなかった。


 そしてこれとおなようなやりりは大目付おおめつけあいだでもなされていた。


 すなわち、大目付おおめつけ大屋おおや遠江守とおとうみのかみ明薫みつしげ相役あいやく松平まつだいら對馬守つしまのかみ忠郷たださとたいして、


まこと身共みども大納言だいなごんさま放鷹ほうよう扈従こしょうしてもよろしいのか?」


 そう気遣きづかってせた。


 大目付おおめつけにおいては本来ほんらい今日きょう、2月21日の家基いえもと鷹狩たかがりには松平まつだいら忠郷たださと扈従こしょうし、一方いっぽう大屋おおや明薫みつしげが「たかとき居残いのこりばん」をつとめるはずであった。


 大目付おおめつけにおいてはだれがいつ西之丸にしのまる当番とうばんつとめるか、あるいは鷹狩たかがりにさいしてはだれ扈従こしょうし、そのかんだれが「たかとき居残いのこりばん」をつとめるか、それは大目付おおめつけ自身じしんめることであった。


 それゆえ今日きょう家基いえもと鷹狩たかがりにおいてもそれはまり、本来ほんらいならば松平まつだいら忠郷たださと扈従こしょうし、一方いっぽう大屋おおや明薫みつしげが「居残いのこりばん」として西之丸にしのまる留守るすあずかるはずであった。


 それが昨日きのう大目付おおめつけ殿中でんちゅうせきである芙蓉之間ふようのまにおいて大屋おおや明薫みつしげ松平まつだいら忠郷たださとより、


明日あす大納言だいなごんさま放鷹ほうようだが、そこもとが扈従こしょうしてはくれまいか?わりにこの對馬つしま居残いのこりばんつとめるによって…」


 そう持掛もちかけられたのであった。


大納言だいなごんさまもそのほうが…、そこもとが扈従こしょうしてくれるほうよろこびになられようぞ…」


 それが松平まつだいら忠郷たださと変更へんこう申出もしで理由りゆうであった。


 家基いえもと意知おきとも度々たびたび西之丸にしのまる中奥なかおくまねいては談笑だんしょうわし、しかしそのことをこころよおもわない松平まつだいら忠郷たださと一度いちど、それも2週間しゅうかん以上いじょうまえの2月4日、目黒めぐろほとりへの鷹狩たかがりのおりに、


意知おきともようなどこぞのうまほねともからぬやから近付ちかづけになられるのは御止おやいただきたいっ」


 家基いえもとじかにそう苦言くげんていしたのだ。


 2月4日、家基いえもと目黒めぐろほとりへと鷹狩たかがりをおこない、そのさい大目付おおめつけよりは松平まつだいら忠郷たださと扈従こしょうし、忠郷たださとはその利用りようして、家基いえもと談判だんぱんおよんだのだ。


 家基いえもと至極しごくとうなる苦言くげんであるならばみみかたむようが、しかし松平まつだいら忠郷たださとのそれは到底とうていとう苦言くげんともおもえず、それどころか暴言ぼうげんそのものであり、家基いえもと松平まつだいら忠郷たださとにいたく憤慨ふんがいし、とおざけるようになった。


 家基いえもと西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばんあるいは大目付おおめつけ中奥なかおくへとまねいてははなすことがあったが、しかし忠郷たださとはその一件いっけん以来いらい西之丸にしのまる当番とうばんおりでも中奥なかおくまねくこともなくなった。


 大屋おおや明薫みつしげもそのことは把握はあくしていたので、そこで家基いえもと松平まつだいら忠郷たださととのなか修復しゅうふくすべく、その一助いちじょともなれば今日きょう鷹狩たかがりにおいて忠郷たださと扈従こしょうさせることにしたのだ。


 だがそれを忠郷たださとほうから辞退じたいしたのだ。


「この對馬つしま大納言だいなごんさま放鷹ほうよう扈従こしょうせしところで、大納言だいなごんさま機嫌きげんなおるともおもえず、それどころか余計よけいにこの對馬つしまうとんじられるやもれず、それよりはいましばらくのあいだ距離きょりったほうかろう…」


 家基いえもととはしばらくのあいだ冷却れいきゃく期間きかんいたほういだろうと、忠郷たださと明薫みつしげにそう辞退じたい理由りゆうげた。


「それにこの對馬つしま今月こんげつ4日にも大納言だいなごんさま放鷹ほうよう扈従こしょうしたばかり…、さればそれにつづいて21日またしても扈従こしょうつかまつっては、貴殿きでん申訳もうしわけない…」


 忠郷たださと殊勝しゅしょうにもそうも付加つけくわえた。


 成程なるほど、2月4日の家基いえもと目黒めぐろほとりへの鷹狩たかがりのさい鷹狩たかがりに扈従こしょうしたのが忠郷たださとならば、「居残いのこりばん」をつとめたのは大屋おおや明薫みつしげであった。


 それが21日の家基いえもと鷹狩たかがり―、新井宿あらいじゅくへの鷹狩たかがりにさいしても大屋おおや明薫みつしげにまたしても「居残いのこりばん」をさせては申訳もうしわけないと、忠郷たださと明薫みつしげ気遣きづかってもせたのだ。


 大屋おおや明薫みつしげとしても松平まつだいら忠郷たださとにこうまで言われては、忠郷たださと辞退じたい受容うけいれざるをず、そこで21日はおのれ家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうすることにし、忠郷たださとには「居残いのこりばん」として西之丸にしのまる留守るすあずかってもらうことにしたわけだが、それでも今日きょうになって明薫みつしげは、


「それでいのか…」


 あらためて忠郷たださとにその意思いしを、「居残いのこりばん」をつとめることについて最終さいしゅう確認かくにんをしたのだ。


 かり忠郷たださとが「前言撤回ぜんげんてっかい」、やはり鷹狩たかがりに扈従こしょうしたいと言出いいだせば、明薫みつしげとしてはおのれにつけている野袴のばかまいで、忠郷たださとにそれをあたえるつもりでいた。


 明薫みつしげ忠郷たださとにその意思いしげると、忠郷たださと流石さすが苦笑くしょうきんず、「そのにはおよばず」と、「居残いのこりばんつとめる意思いしわりがないことをつたえたのだ。


 忠郷たださとはそのうえ明薫みつしげこころよ鷹狩たかがりへと送出おくりだしたのであった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 家基いえもとたち一行いっこう新井宿あらいじゅくけて西之丸にしのまる出立しゅったつするや、そば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよし佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐ二人ふたりはそれを見計みはからって中奥なかおくから表向おもてむきへとると、西之丸にしのまる当番とうばん奏者番そうじゃばん大目付おおめつけめる芙蓉之間ふようのまあしはこんだ。そこでまず、


ったようだの…」


 そう口火くちびったのは佐野さの茂承もちつぐであった。


 新井宿あらいじゅくへと出向でむいた家基一行いえもといっこうを、いや家基いえもとそのひと示唆しさしていることはあきらかで、それは「聴衆ギャラリー」である井上正定いのうえまささだ松平まつだいら忠郷たださとにしてもぐにそうとさっせられ、


「これで愈愈いよいよ…、豊千代とよちよぎみ天下てんがでござりまするな…」


 井上正定いのうえまささだがそうおうじたので、佐野さの茂承もちつぐも「左様さよう」とおうじた。


 佐野さの茂承もちつぐ旗本はたもとであるのにたいして井上正定いのうえまささだれきとした大名だいみょう、そうであるならば佐野さの茂承もちつぐ井上正定いのうえまささだにそれこそかしずかねばならない立場たちばにあった。


 いや佐野さの茂承もちつぐにしろ、井上正定いのうえまささだにしろ、とも従五位下じゅごいのげ諸太夫しょだいぶ同格どうかくであるので、如何いか相手あいて大名だいみょういえども、かしず必要ひつようはないにしても、それでも尊大そんだい振舞ふるまうことなどゆるされない。


 だがいま佐野さの茂承もちつぐ井上正定いのうえまささだたいする態度たいどたるや、「尊大そんだい」の一語いちごき、井上正定いのうえまささだもそれを当然とうぜんのこととして受容うけいれていた。


 それはとりもなおさず、佐野さの茂承もちつぐ寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた備後守びんごのかみ資愛すけよしじつ叔父おじである日向守ひゅうがのかみ茂幸もちゆき養嗣子ようししとしてむかえていたからだ。


 奏者番そうじゃばんとしてその筆頭ひっとうである寺社じしゃ奉行ぶぎょう役職ポストねら井上正定いのうえまささだとしてはそれゆえに、如何いか相手あいて旗本はたもといえども、現職げんしょく寺社じしゃ奉行ぶぎょうじつ叔父おじ養嗣子ようししむかえている佐野さの茂承もちつぐたいしては粗略そりゃくにはあつかえず、それどころかかしず必要ひつようがあった。


 佐野さの茂承もちつぐの「機嫌きげん」をそこねては寺社じしゃ奉行ぶぎょうへの昇進しょうしんというおのれ野望やぼうにも悪影響あくえいきょうあたえかねないからだ。


 井上正定いのうえまささだとしては佐野さの茂承もちつぐかいして、その縁者えんじゃである寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた資愛すけよしへとおのれ売込うりこんでもら腹積はらづもりでおり、そのためにも佐野さの茂承もちつぐにはかしず必要ひつようがあった。


 そして治済はるさだはそのよう佐野さの茂承もちつぐを「一橋ひとつばし」へと、つまりは「自陣営じじんえい」へと取込とりこんだことで、井上正定いのうえまささだをも取込とりこむことに成功せいこうした。


 いま、この西之丸にしのまるにて留守るすあずかるのは、うらかえせば家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうしなかったのは「一橋ひとつばし」であった。


 無論むろん西之丸にしのまる居残いのこっているものすべて「一橋ひとつばし」というわけではない。


 が、主要しゅよう役職ポストにあるものはそのほとんどが「一橋ひとつばし」と言えた。


 それは勿論もちろん、「現場不在証明アリバイづくり」のためである。


 家基いえもと鷹狩たかがりの最中さなかにおいてたおれた、となれば―、それが仮令たとえやまいによるものだとしても、家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうした幕臣ばくしんせめまぬがれまい。


 だがその鷹狩たかがりに一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりのあるものだれ一人ひとりとして扈従こしょうしていないとなれば、治済はるさだにまでそのせめおよぶことはなく、治済はるさだ無疵むきずでいられる。


 ぎゃく家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうした幕臣ばくしん家基いえもとたおれたせめわれるのは必定ひつじょう、のみならず、その幕臣ばくしん所縁ゆかりのあるものにまでるいおよぶであろう。


 それがやまいなどではなくどくによるものではないかとうたがわれれば尚更なおさらであろう。


 そこで治済はるさだ家基いえもと鷹狩たかがりには一橋家ひとつばしけ所縁ゆかり幕臣ばくしん扈従こしょうさせず、清水家しみずけ所縁ゆかり幕臣ばくしん扈従こしょうさせることにしたのだ。


 家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんレースにおいて治済はるさだ最大さいだい敵対者ライバルとして予想よそうされるのが清水しみず重好しげよしだからだ。


 その清水しみず重好しげよし所縁ゆかり幕臣ばくしん大勢おおぜい家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうし、そのおり家基いえもとたおれたとなれば、


重好しげよしおのれ家基いえもとってわるべく、鷹狩たかがりの利用りようして、家基いえもと一服いっぷくったのではあるまいか…、なにしろ鷹狩たかがりには重好しげよし所縁ゆかりのある幕臣ばくしん大勢おおぜい扈従こしょうしたらしいからのう…」


 周囲しゅういにそうおもわせることが出来できるからだ。


 いや天下てんかねらう、すなわ家基いえもとわって豊千代とよちよ次期じき将軍しょうぐんしょくようほっする治済はるさだとしてはこれではまだりない。


 家基いえもと鷹狩たかがりにはさら幕閣ばっかく、それも次期じき将軍しょうぐん選定せんていたる老中ろうじゅう所縁ゆかりのある幕臣ばくしんをも扈従こしょうさせる必要ひつようがあった。


 そうすれば唯一ゆいいつ無疵むきず治済はるさだ次期じき将軍しょうぐんの「選考せんこう委員いいん」とも言うべき老中ろうじゅうたいしてたかられるからだ。


大納言だいなごんさま生前せいぜん最期さいご放鷹ほうようには清水家しみずけ所縁ゆかりものともに、貴様きさま老中ろうじゅう所縁ゆかりもの扈従こしょうしていたとく…、されば貴様きさまら、清水しみず重好しげよし大納言だいなごんさまってわらせるべく、鷹狩たかがりの利用りようしておの所縁ゆかりもの一服いっぷくらせたのではあるまいの?」


 治済はるさだ老中ろうじゅうたいしてそうつよられる。


 無論むろん老中ろうじゅう否定ひていするであろうが、それでも家基いえもと生前せいぜん最期さいごとなるであろう鷹狩たかがりには成程なるほど清水家しみずけ所縁ゆかりもの次期じき将軍しょうぐんの「選考せんこう委員いいん」たる老中ろうじゅう所縁ゆかり幕臣ばくしん大勢おおぜい扈従こしょうしていたとなれば、治済はるさだからそうせまられれば、真実しんじつ彼等かれら老中ろうじゅうおのれ所縁ゆかりのある幕臣ばくしんけしかけて家基いえもと一服いっぷくらせた事実じじつなどないとしても、だまむよりほかになく、どうしても治済はるさだかんずるであろう


 そうなればしめたものである。


「さればかるうたがいなどないともうすのであれば…、うたがいを払拭ふっしょくしたくば、次期じき将軍しょうぐんにはこの治済はるさだそく豊千代とよちよ上様うえさま推挙すいきょするしかみちはあるまい?」


 治済はるさだ老中ろうじゅうにそう圧力あつりょくけることが出来でき老中ろうじゅうとしても治済はるさだのその「あつ」にくっすることになろう。


 治済はるさだはそこまでんで、老中ろうじゅう所縁ゆかりのある幕臣ばくしんをも家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうさせることにし、老中ろうじゅうなかでも一番いちばん実力者じつりょくしゃである意次おきつぐ所縁ゆかりのある幕臣ばくしん扈従こしょうさせることにした。


 一応いちおう老中ろうじゅう筆頭ひっとう首座しゅざ松平まつだいら右近将監うこんのしょうげん武元たけちかではあるが、いま将軍しょうぐん家治いえはるもっと影響えいきょうおよぼせられるのは意次おきつぐいてほかにはいなかった。


 そこで意次おきつぐ所縁ゆかり幕臣ばくしんをと、その筆頭ひっとうげられるのはなんと言っても奏者番そうじゃばん井伊いい直朗なおあきらであった。


 なにしろ井伊いい直朗なおあきら意次おきつぐ四女よんじょ意知おきともにとっては実妹じつまいめとっていたからだ。


 それゆえ直朗なおあきら意次おきつぐしゅうとたり、意知おきともとは義兄弟ぎきょうだい間柄あいだがらであった。


 治済はるさだはそこで井伊いい直朗なおあきら今日きょう、2月21日の家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうさせることをおもいついた。


 将軍しょうぐんにしろ次期じき将軍しょうぐんにしろ、鷹狩たかがりをおこなうにはおそくともその一月前ひとつきまえにはその予定よていまれ、さら一週間いっしゅうかんまえにはその鷹狩たかがりに扈従こしょうすべきものが、西之丸にしのまる盟主めいしゅたる次期じき将軍しょうぐん場合ばあい西之丸にしのまる留守るすあずかる「居残いのこり当番とうばん」の奏者番そうじゃばん大目付おおめつけまる。


 今日きょう、2月21日の家基いえもと鷹狩たかがりでは奏者番そうじゃばんにおいては井伊いい直朗なおあきらが「居残いのこり当番とうばん」をつとめ、ぎゃく今日きょう西之丸にしのまる当番とうばん井上正定いのうえまささだ家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうするはずであった。


 これを井伊いい直朗なおあきら変更へんこう家基いえもと鷹狩たかがりには井伊いい直朗なおあきら扈従こしょうさせるとなれば、井上正定いのうえまささだには「居残いのこり当番とうばん」にまわってもらわねばならない。


 次期じき将軍しょうぐん鷹狩たかがりへの扈従こしょうと「居残いのこり当番とうばん」、そのどちらがれがましい御役おやくかと言えば、もうすまでもなく鷹狩たかがりへの扈従こしょうであった。


 それゆえ鷹狩たかがりへの扈従こしょう内定ないていしていた井上正定いのうえまささだ直前ちょくぜんになって「居残いのこり当番とうばん」にまわらせるのは容易よういなことではなかった。


 無論むろん奏者番そうじゃばんにおいてはいずれの奏者番そうじゃばん家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうさせるか、その決定権けっていけんはあくまで奏者番そうじゃばん筆頭ひっとう寺社じしゃ奉行じしゃ奉行ぶぎょう、それも月番つきばん寺社じしゃ奉行ぶぎょうにあり、今月こんげつ2月の場合ばあい牧野まきの惟成これしげ月番つきばんであるので、


「2月21日の大納言だいなごんさま放鷹ほうようには井伊いい直朗なおあきら扈従こしょうさせることとし、井上正定いのうえまささだには居残いのこり当番とうばん申付もうしつく…」


 牧野まきの惟成これしげにそう「つる一声ひとこえ」をはっしてもらえればことむ。


 だが生憎あいにく牧野まきの惟成これしげ一橋家ひとつばしけとはなん所縁ゆかりもなく、治済はるさだもこの牧野まきの惟成これしげ取込とりこむことは出来できなかった。


 そのわり牧野まきの惟成これしげとは「同期どうきさくら」の太田おおた資愛すけよし取込とりこむことには成功せいこうした。


 勿論もちろんさき取込とりこんでおいた佐野さの茂承もちつぐかいして、さらに言えばその養嗣子ようししである茂幸もちゆきかいして、そのおいたる太田おおた資愛すけよしをも取込とりこみ、太田おおた資愛すけよし治済はるさだけて牧野まきの惟成これしげたいして、


「2月21日の大納言だいなごんさま放鷹ほうようにおいてはさき扈従こしょうすることが予定よていされていた井上正定いのうえまささだではなく、井伊いい直朗なおあきら扈従こしょうさせては如何いかが、ついては井上正定いのうえまささだ居残いのこり当番とうばんまわしては如何いかが…」


 そう進言アドバイスをしてもらい、結果けっか治済はるさだ思惑通おもわくどおり、牧野まきの惟成これしげ太田おおた資愛すけよしのこの進言アドバイス受容うけいれ、鷹狩たかがりの直前ちょくぜんになって変更へんこう家基いえもと鷹狩たかがりには当初とうしょ西之丸にしのまるにて「居残いのこり当番とうばん」をつとめるはずであった井伊いい直朗なおあきら扈従こしょうさせることとし、ぎゃく当初とうしょ家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうするはずであった井上正定いのうえまささだを「居残いのこり当番とうばん」へとまわらせたのであった。


 それで治済はるさだ目的もくてきたっせられるが、しかしおさまらないのは井上正定いのうえまささだであろう。井上正定いのうえまささだ間違まちがいなく、はらかえらせるにちがいない。


 治済はるさだもそのことは容易よういさっせられた。


 もっとも、だからと言って治済はるさだとしてはそれで井上正定いのうえまささだのそのよう胸中きょうちゅうなど別段べつだんおもんぱかってやる必要ひつようはなかった。


 なにしろ、意次おきつぐ所縁ゆかり井伊いい直朗なおあきらをも家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうさせるという目的もくてきはそれでたっせられたからだ。


 だが奏者番そうじゃばんなか一人ひとりでもおおくの「一橋派ひとつばしは」を扶植ふしょくすることが出来できればそれにしたことはない。


 なにしろ奏者番そうじゃばん譜代ふだい大名だいみょうにとっては出世しゅっせ登竜門とうりゅうもんてきポストであり、この奏者番そうじゃばん皮切かわきりに、その筆頭ひっとうである寺社じしゃ奉行ぶぎょうあるいは若年寄わかどしより、そこからさら大坂おおざか城代じょうだい京都きょうと所司代しょしだい出世しゅっせこますすめてがりとも言うべき老中ろうじゅうのぼめる、というのがこの時代じだい確立かくりつされた譜代ふだい大名だいみょう昇進しょうしんコースであった。


 それゆえ奏者番そうじゃばんは言うなれば雛鳥ひなどりようなものであり、雛鳥ひなどりうちから「一橋派ひとつばしは」に染上そめあげれば、その雛鳥ひなどり見事みごと幕閣ばっかくとして成長せいちょうげたおりなにかと便利べんりであった。


 そこで治済はるさだかり井上正定いのうえまささだにも一橋家ひとつばしけとの所縁ゆかりがあれば、との条件付じょうけんつきでこれを取込とりこむことにしたのだ。


 すると井上正定いのうえまささだ一橋家ひとつばしけとの所縁ゆかりがあったのだ。


 すなわち、井上正定いのうえまささだ家臣かしん井上いのうえ織部正香おりべまさか実姉じっし一橋ひとつばし家臣かしん青山あおやま長次郎ちょうじろう忠計ただかず妻女さいじょであったのだ。


 そこで治済はるさだはこの青山あおやま長次郎ちょうじろうかいして井上いのうえ織部おりべ接触せっしょく、これを取込とりこむと、井上いのうえ織部おりべよりさら井上正定いのうえまささだへと触手しょくしゅばし、


れいごとく…」


 正定まささだに「洗脳せんのう」をほどこし、「一橋ひとつばし」にげ、今度こんどの「謀叛むほん」に協力きょうりょくさせることが出来できた。つまりは直前ちょくぜんになって鷹狩たかがりへの扈従こしょうというれがましい御役おやく井伊いい直朗なおあきらうばわれたことになんわだかまりもたなかった。


 無論むろん井上正定いのうえまささだ治済はるさだ取込とりこまれたのは、


寺社じしゃ奉行ぶぎょうにしてもらえる…」


 その打算ださんがあったからで、治済はるさだもそのことには勿論もちろん気付きづいていたので、そこで寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた資愛すけよしや、あるいはその縁者えんじゃである佐野さの茂承もちつぐよりそのむね井上正定いのうえまささだへとにおわせることにし、いままさにそうであった。


 これで愈愈いよいよ…、豊千代とよちよぎみ天下てんが…、井上正定いのうえまささだよりそうわれた佐野さの茂承もちつぐは「左様さよう…」と首肯しゅこうしたうえで、


「これでそなたが奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうに…、寺社じしゃ奉行ぶぎょう昇進しょうしんするちかいぞえ…」


 治済はるさだめいじられていたとおり、正定まささだにそうにおわせたのであった。


 するとよこから、「この對馬つしまがこともおわすれなく…」とのこえ割込わりこんだ。こえぬし大目付おおめつけ松平まつだいら對馬守つしまのかみ忠郷たださとである。


 これには小笠原おがさわら信喜のぶよしおうじた。


かっておる…、大納言だいなごんさま不例ふれい…、天壽てんじゅまっとうされ、豊千代とよちよぎみれて次期じき将軍しょうぐん御成おなりあそばされしおりにはそなたを大屋おおや遠江とおとうみわりて、道中どうちゅう奉行ぶぎょうねさせようぞ…」


 つまりは大目付おおめつけ筆頭ひっとうにしてやると、それが治済はるさだ意向いこうであると、松平まつだいら忠郷たださとにそう手形てがたったのであった。


 松平まつだいら忠郷たださともそれがたしかめられて満足気まんぞくげうなずいた。


 いや、だからこそ松平まつだいら忠郷たださと家基いえもと鷹狩たかがりへの扈従こしょうというれがましい御役おやく現在げんざい道中どうちゅう奉行ぶぎょうねる大目付おおめつけ筆頭ひっとう大屋おおや遠江守とおとうみのかみ明薫みつしげゆずりもしたのだ。


 家基いえもと鷹狩たかがりの最中さなかたおれた、となれば、その鷹狩たかがりに扈従こしょうした大目付おおめつけ大屋おおや明薫みつしげの「せめ」をえるからで、これは治済はるさだためと言うよりは、大屋おおや明薫みつしげってわろうとする松平まつだいら忠郷たださと自身じしんためよう私利しり私欲しよくからであった。


 大屋おおや明薫みつしげの「せめ」をえれば、道中どうちゅう奉行ぶぎょうが、すなわ大目付おおめつけ筆頭ひっとうころがりむかもれないからだ。


左様さよう機微きびれる話題わだい、この表向おもてむきにて軽々かるがるしくくちにされぬがよろしいかと…」


 ここ西之丸にしのまる表向おもてむきにおいてもう一人ひとりの「一橋派ひとつばしは」である西之丸にしのまる目附めつけ松平まつだいら田宮たみや恒隆つねたかである。


「なに…、今時分いまじぶん、この西之丸にしのまる殿中でんちゅうに…、それもこの芙蓉之間ふようのまひからせているものもうさば、そなたら目附めつけほかには精精せいぜい留守居るすいであろうが…」


 たしかにここ小笠原おがさわら信喜のぶよしが言うとおり、ここ西之丸にしのまる芙蓉之間ふようのま立入たちいることが出来できるのは西之丸にしのまる当番とうばん大目付おおめつけほかには西之丸にしのまる老中ろうじゅう若年寄わかどしより、それに留守居るすい目附めつけ程度ていどのものであろう。


 しかもそのうち西之丸にしのまる老中ろうじゅう阿部あべ豊後守ぶんごのかみ正允まさちか西之丸にしのまる若年寄わかどしより鳥居とりい丹波守たんばのかみ忠意ただおきその相役あいやく酒井さかい飛騨守ひだのかみ忠香ただよしの3人はそろって家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうし、この西之丸にしのまるには不在ふざいであった。


 するとここ西之丸にしのまる芙蓉之間ふようのま立入たちいることが出来できものと言えば、留守居るすい目附めつけ程度ていどであった。


 そして今時分いまじぶん―、鷹狩たかがりへと出発しゅっぱつした家基いえもと見送みおくった朝五つ(午前8時頃)をぎたいま、ここ西之丸にしのまるめている留守居るすい目附めつけだがそろいもそろってみな、やはり「一橋派ひとつばしは」の面々めんめんであった。


 すなわち、西之丸にしのまる留守居るすいにおいては橋本はしもと阿波守あわのかみ忠正ただまさ殿中でんちゅうせきである西之丸にしのまる中之間なかのまに、西之丸にしのまる目附めつけにおいてはこの松平まつだいら田宮たみや詰所つめしょ夫々それぞれめていた。


 そのうち橋本忠正はしもとただまさだが、嫡子ちゃくし數馬かずま忠貞たださだ一橋家ひとつばしけとは所縁ゆかりのある荒井あらい十兵衛じゅうべえ保國やすくにいもうとめとっており、治済はるさだはその所縁ゆかりたよりに、まずは荒井あらい十兵衛じゅうべえいで橋本はしもと數馬かずまじゅん取込とりこみ、最後さいご橋本忠正はしもとただまさをも取込とりこんだのだ。


 それゆえ、ここ西之丸にしのまる芙蓉之間ふようのまにおいて小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ如何いか機微きびれる、センシティブなはなしをしたところで、橋本忠正はしもとただまさ見咎みとがめられることはない。


 おなじことは松平まつだいら田宮たみやにも言えた。松平まつだいら田宮たみや嫡子ちゃくし主税ちから榮隆よしたか本丸ほんまる書院番ばん平岡ひらおか與右衛門よえもん正興まさおき次男じなん伊之吉いのきち養嗣子ようししむかえていた。


 養嗣子ようししとは言っても伊之吉いのきちはまだ5歳の幼児ようじぎないが、それでも養嗣子ようししにはちがいなく、松平まつだいら田宮たみやにとっては義理ぎりとはもうまごたる。


 そしてこの松平まつだいら田宮たみやにとっては義理ぎりまごとなった伊之吉いのきち実父じっぷ平岡ひらおか與右衛門よえもんだが、治済はるさだしたしい本丸大奥ほんまるおおおく将軍しょうぐん家治附いえはるづき御客会釈おきゃくあしらい大崎おおさき姪孫てっそんたる。


 そこで治済はるさだ大崎おおさきかいして平岡ひらおか與右衛門よえもんさら松平まつだいら主税ちからかいして、そのちち松平まつだいら田宮たみやへと触手しょくしゅばし、これを取込とりこんだのであった。


 西之丸にしのまる留守居るすいにしろ西之丸にしのまる目附めつけにしろ、その役目やくめがら表向おもてむきかく部屋へや見廻みまわることがみとめられており、そこにはここ西之丸にしのまる芙蓉之間ふようのまふくまれていた。


 だがその留守居るすい目附めつけそろって「一橋派ひとつばしは」ともなれば成程なるほどあんずるにはおよばないのかもれない。


「いや、これで留守居るすいにおいては永井ながい筑前ちくぜんあたりが…、あるいは目附めつけにおいては深谷ふかや十郎左じゅうろうざあたりが居残いのこっていたならば、そうもゆくまいがな…」


 小笠原おがさわら信喜のぶよし苦笑くしょうかべつつ、そうも付加つけくわえた。


 成程なるほど、これもまた小笠原おがさわら信喜のぶよしの言うとおりであった。


 小笠原おがさわら信喜のぶよしくちにした永井ながい筑前ちくぜんとは筑前守ちくぜんのかみ直令なおよしのことで、一方いっぽう深谷ふかや十郎左じゅうろうざとは深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん盛朝もりとものことであり、両者りょうしゃとも秋霜烈日しゅうそうれつじつられていた。


 それゆえかる永井ながい直令なおよしや、あるいは深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんいまはなしを―、小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐたちがわしていたきわめてセンシティブなはなしかれでもしたらそれこそ一大事いちだいじであった。


 だがさいわいにも永井ながい直令なおよしもまた家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうしており、この西之丸にしのまるにはいま、その姿すがたがなく、また深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんにしても今宵こよい本番ほんばん宿直とのいであるためにやはりいま西之丸にしのまるにその姿すがたはなかった。


「まぁ…、それでも大事だいじまえ小事しょうじとのたとえもありますゆえ…」


 油断ゆだん禁物きんもつと、松平まつだいら田宮たみや示唆しさした。

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