第4話 安永8(1779)年2月初旬 ~毒の完成~

つい完成致かんせいいたしましたぞっ」


 小野おの西育章以さいいくあきしげがそうこえはずませたのは安永8(1779)年の2月の初旬しょじゅんのことであった。


 小野おの章以あきしげまち小児科しょうにかまち医者いしゃであり、ここ一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきにも往診おうしん御出入おでいりがゆるされていた。


 治済はるさだそく豊千代とよちよ診察しんさつためだが、しかしいま小野おの章以あきしげにはもうひとつ、大事だいじ目的もくてきが、さしずめ「密命みつめい」とでもぶべきものをびて、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきおとずれていた。


 それはズバリ、次期じき将軍しょうぐん家基いえもといのちうばための「どく」の精製せいせいであった。


 それもただのどくではない。遅効性ちこうせいどくである。


 何故なぜ即効性そっこうせいどくではなく、遅効性ちこうせいどくかと言えば、次期じき将軍しょうぐんレースにおいて一橋家ひとつばしけ優位ゆういためであった。


 かり家基いえもとくなれば、家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐん候補こうほとしてそのがるのは三卿さんきょう清水しみず重好しげよしであろう。


 なにしろ清水しみず重好しげよし腹違はらちがいとはもうせ、将軍しょうぐん家治いえはるおとうとであり、家基いえもと叔父おじたる。


 それにして一橋家ひとつばしけ当主とうしゅ治済はるさだ将軍しょうぐん家治いえはるおなじく、八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむねまごであるというにぎず、それゆえ治済はるさだにとって将軍しょうぐん家治いえはるとは従兄弟いとこ間柄あいだがら家基いえもといたっては従甥じゅうせいぎない。


 そして次期じき将軍しょうぐん必須ひっす条件じょうけん、それはなんと言っても「血筋ちすじ」であり、将軍しょうぐん一番近いちばんちかしい「」をもの次期じき将軍しょうぐんとなる。


 そのため治済はるさだ家基いえもといのちうばったところで、家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんとしてえらばれるのは清水しみず重好しげよしということになり、治済はるさだにしてみればこれほど馬鹿ばかげたはなしはない。


 態々わざわざ他人たにん、それも次期じき将軍しょうぐんレースにおけるライバルである清水しみず重好しげよしために「タダばたらき」をするも同然どうぜんだからだ。


 それではこの状況下じょうきょうか如何いかにして、清水しみず重好しげよしに「逆転ぎゃくてん勝利しょうり」をおさめるか、つまりは清水しみず重好しげよしおさえて一橋家ひとつばしけ次期じき将軍しょうぐんしょくをものにするか、それも治済はるさだそく豊千代とよちよもとへと次期じき将軍しょうぐんしょくころがりませるか、そうかんがえたときみちびされるこたえは唯一ただひとつ、


家基いえもとには清水しみず重好しげよし責任せきにんがある…」


 そうおもわせることであり、治済はるさだはそのための「舞台ぶたい」として鷹狩たかがりをかんがえており、その「舞台ぶたい」を成功せいこうさせるため必要ひつような「小道具こどうぐ」こそが遅効性ちこうせいどくであった。


 すなわち、家基いえもと鷹狩たかがりのまえ当時とうじつ朝食ちょうしょくにでも遅効性ちこうせいどく混入こんにゅう、それを家基いえもと摂取せっしゅさせ、鷹狩たかがりの最中さなかにそのどく効目ききめあらわれ、たおれた―、しかもその鷹狩たかがりには清水家しみずけ所縁ゆかりものたちばかりが扈従こしょうしていたとなれば、


「よもや…、清水しみず重好しげよしおのれ家基いえもとってわるべく…、次期じき将軍しょうぐんになろうとかんがえて、そこで鷹狩たかがりの機会きかい利用りようして家基いえもといやったのではあるまいか…」


 将軍しょうぐん家治いえはるはじめ、次期じき将軍しょうぐん選定せんていけん幕閣ばっかくにそんなうたがいをかせることが出来できよう


 そうなればシメたものである。


かるうたがいがあるもの次期じき将軍しょうぐんえるわけにはゆくまいて…、仮令たとい上様うえさまもっとちかしい血筋ちすじだとしても…」


 次期じき将軍しょうぐん選定せんていさいして幕閣ばっかくかならずやそうかんがえ、そのむね将軍しょうぐん家治いえはるへと上申じょうしん、さすれば家治いえはるとて如何いか清水しみず重好しげよしじつおとうととはもうせ、次期じき将軍しょうぐんえることに躊躇ちゅうちょし、清水しみず重好しげよし次期じき将軍しょうぐんレースから「脱落だつらく」するのは間違まちがいない。


 その場合ばあい清水しみず重好しげよしおなじく三卿さんきょう一橋家ひとつばしけ一気いっき優位ゆういつ。


 いや、それでも家治いえはる治済はるさだ次期じき将軍しょうぐんえることにも躊躇ちゅうちょするにちがいない。


 それと言うのも、家治いえはる治済はるさだとは微妙びみょう間柄あいだがらにあったからだ。


 その理由りゆうふたつあり、ひとつは年齢ねんれい問題もんだいであった。


 家治いえはる治済はるさだより一回ひとまわ以上いじょう、14もうえであったが、しかし親子おやこほどにははなれてはおらず、さりとて兄弟きょうだいと言うにはぎゃくとしはなぎている。


 このなんとも微妙びみょう年齢差ねんれいさ微妙びみょう間柄あいだがらとなって反映はんえいされていたわけだが、しかし究極的きゅうきょくてきには、


家治いえはる治済はるさだきらっていたから…」


 それにき、それこそがもうひとつの理由りゆうにして、究極きゅうきょく理由りゆうと言えよう。


 それは「どうにもむしかない…」といった生理的せいりてきなものであり、たとえるならば、


「おまえかおらない…」


 といったていレベルなものであり、治済はるさだ自身じしん努力どりょくではどうにもならないものであった。


 そして治済はるさだもまた、家治いえはるからきらわれていることは承知しょうちしていたので、かり清水しみず重好しげよし次期じき将軍しょうぐんレースから脱落だつらくしたところで、おのれ次期じき将軍しょうぐんえらばれる可能性かのうせいうすいと見ていた。


 いや家治いえはる如何いかに「ていレベル」な理由りゆうから治済はるさだきらっていたとしても、


次期じき将軍しょうぐん一橋ひとつばし治済はるさだ相応ふさわしい…」


 次期じき将軍しょうぐん選定せんていにな幕閣ばっかくかる選定せんてい結果けっか上申じょうしんしたならば、家治いえはるとてそれを尊重そんちょうするであろう。


 おのれ好悪こうお感情かんじょう優先ゆうせんさせ、幕閣ばっかく意見いけんまで無視むしして可愛かわいおとうと次期じき将軍しょうぐんえるほど家治いえはるはそこまで「ていレベル」ではない。


 無論むろん家治いえはる将軍しょうぐんであり、「強権きょうけん発動はつどう」におよぼうとおもえば不可能ふかのうではない。


 すなわち、幕閣ばっかく意見いけん無視むしして、おのれきらいな一橋ひとつばし治済はるさだではなく、可愛かわいおとうと清水しみず重好しげよし次期じき将軍しょうぐんえらぶことも可能かのうであった。


 だが家治いえはる比較的ひかくてき、「こう」を優先ゆうせんする気質タイプ将軍しょうぐんである。


 勿論もちろん家治いえはる如何いか将軍しょうぐんとはもうせ、人間にんげんである。私情しじょうはさむこともある。だがその場合ばあいでもつねに、


こう51%、49%」


 それを心掛こころがけており、それは治済はるさだみとめるところであった。


 そのよう家治いえはるのことである、嫌々いやいやではあろうが、幕閣ばっかく選定せんてい尊重そんちょうし、治済はるさだ次期じき将軍しょうぐんの「大命たいめい降下こうか」、だが治済はるさだはそれを辞退じたいするつもりでいた。


 治済はるさだおのれ将軍しょうぐんになるつもりはなかった。


 なにしろ将軍しょうぐんしょくとはわずらわしい。起居ききょひとつにしても様々さまざま規則きそくがあり、将軍しょうぐんはそれにしたがわねばならない。


 それよりは豊千代とよちよ将軍しょうぐんえ、おのれはその実父じっぷとして背後はいごから幕政ばくせいうごかす、つまりは黒幕フィクサーとしての立場たちばのぞんでいたのだ。


 そこで治済はるさだ家治いえはるから次期じき将軍しょうぐんしょく打診だしんされたならば、まずはこれを辞退じたいしたうえで、わってせがれ豊千代とよちよ次期じき将軍しょうぐんにと、家治いえはる懇願こんがんするつもりでいた。


 家治いえはるにしてもきらいな治済はるさだ次期じき将軍しょうぐん、つまりはおのれ養嗣子ようししとして西之丸にしのまるむかれるよりは、そのせがれ豊千代とよちよむかれるほうがまだしも、「マシ」というものであろう。


 おそらく、いや間違まちがいなく家治いえはる治済はるさだ辞退じたい奇貨きかとして、豊千代とよちよ養嗣子ようししえらび、次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるむかれるに相違そういない。


 治済はるさだはそこまで「絵図えず」をえがいて、そこで旧知きゅうち小児科医しょうにかい小野おの章以あきしげ遅効性ちこうせいどく精製せいせい開発かいはつめいじたのだ。


 と言って簡単かんたん精製せいせい出来できるものではない。


 小野おの章以曰あきしげいわく、


遅効性ちこうせい毒物どくぶつ精製せいせいにはどうしても薬学やくがくかんする学術書がくじゅつしょが、それも蘭書らんしょ必要ひつよう…」


 そこで治済はるさだ薩摩さつま藩主はんしゅ松平まつだいらこと島津しまづ薩摩守さつまのかみ重豪しげひでたよることにした。


 重豪しげひで愛娘まなむすめ茂姫しげひめ豊千代とよちよ婚約こんやくしており、それゆえ治済はるさだ以上いじょう豊千代とよちよ次期じき将軍しょうぐん就任しゅうにんのぞんでいた。


 これでれて豊千代とよちよ次期じき将軍しょうぐんえらばれれば、その許婚いいなずけ茂姫しげひめ次期じき将軍しょうぐん夫人ふじん所謂いわゆる台所だいどころ地位ちい約束やくそくされ、そのちち島津しまづ重豪しげひで台所だいどころ実父じっぷ地位ちい約束やくそくされるからだ。


 そこで治済はるさだ島津しまづ重豪しげひで仔細しさいを、それも秘事ひじ打明うちあけ、協力きょうりょくもとめたのであった。


 たして重豪しげひで秘事ひじ、もとい治済はるさだのその謀叛むほんとも言うべき計画けいかく協力きょうりょくしてくれるかどうか、それは治済はるさだにもからず「け」であった。


 結果けっか治済はるさだ見事みごとにその「け」にった。


 島津しまづ重豪しげひで治済はるさだの「謀叛むほん」に協力きょうりょくちかい、所望しょもう薬学やくがくかんする学術書がくじゅつしょを、それも最新さいしん蘭書らんしょ入手にゅうしゅ、これを治済はるさだおくったのだ。


 治済はるさだはその蘭書らんしょ小野おの章以あきしげ手渡てわたし、すると小野おの章以あきしげはその蘭書らんしょもと遅効性ちこうせいどく研究けんきゅう着手ちゃくしゅし、


附子ぶす(トリカブト)と河豚ふぐどく同時どうじ摂取せっしゅさせれば遅効性ちこうせいどくとなる…」


 その結論けつろんいたったのだ。


 そこで附子ぶす(トリカブト)と河豚ふぐどく調達ちょうたつ必要ひつようとなる。


 河豚ふぐどくについてはうお市場いちばなどで河豚ふぐ仕入しいれればはなしだが、問題もんだい附子ぶす(トリカブト)であった。


 附子ぶす(トリカブト)はそのへん自生じせいしているといったたぐいのものではない。おも地方ちほう山野さんや自生じせいしているものであり、この江戸えどには自生じせいしていなかった。


 そのため附子ぶす(トリカブト)を調達ちょうたつするには山野さんや必要ひつようがあったが、これて手間てまである。


 なにしろこの時代じだい新幹線しんかんせん飛行機ひこうき自動車じどうしゃといった交通手段こうつうしゅだんかげかたちもなく、そこでこの江戸えどからとおはなれた地方ちほうへと出向でむき、さら山野さんやへとり、附子ぶす採取さいしゅし、また江戸えどもどるとなると、すべからく人力じんりき、つまりは徒歩とほとなり、しかしこれではあまりに日数にっすがかかり、そのりょうかぎられてくる。


 なにしろ附子ぶす(トリカブト)と河豚ふぐどく掛合かけあわせればまこと遅効性ちこうせいどくとして発揮はっきするのか、またその時間じかんたして如何いかほどのものなのか、幾度いくども「実験じっけん」を繰返くりかえさねばなるまい。


 そのためおおくの附子ぶす(トリカブト)と河豚ふぐどく必要ひつようとなるが、しかしそのためには何度なんど附子ぶす(トリカブト)を採取さいしゅするべく、地方ちほう山野さんやへとあしはこばねばならず、しかしこれでは遅効性ちこうせいどく精製せいせい完成かんせい何年なんねんもの時間じかんようするであろう。


 このかん家基いえもと将軍しょうぐん家治いえはる跡目あとめぐこともあり、そうなれば万事休ばんじきゅうす、「ゲームーオーバー」である。


 家基いえもと正式せいしき征夷せいいたい将軍しょうぐん相成あいなれば、その身辺しんぺんさら厳重げんじゅうとなり、容易ようい手出てだしは出来できまい。


 比較的ひかくてき、「ガード」がゆる次期じき将軍しょうぐんであるあいだなんとしてでも「決着けっちゃく」をけねばなるまい。


 そのためにはこの江戸えどにおいて附子ぶす(トリカブト)を栽培さいばいさせるにかぎる。


 そこで治済はるさだはここでも島津しまづ重豪しげひでたより、重豪しげひでかいして薬園奉行やくえんぶぎょう芥川あくたがわ小野寺おのじ元珍もとつら附子ぶす(トリカブト)の栽培さいばい依頼いらいしたのだ。


 芥川あくたがわ元珍もとつら実父じっぷ友仙備元ゆうせんまさもと薩摩さつまはん島津家しまづけつかえていた湯川ゆかわ道閑どうかんむすめははとし、それゆえ芥川あくたがわ元珍もとつらはその所縁ゆかりにより薩摩さつまはん島津家しまづけともしたしく、そこで治済はるさだはその薩摩さつまはん島津家しまづけ当主とうしゅたる重豪しげひでたよって、芥川あくたがわ元珍もとつら附子ぶす(トリカブト)の栽培さいばい依頼いらい、それにたいして芥川あくたがわ元珍もとつらはと言うと、


島津しまづさまためになるのであらば…」


 これを快諾かいだくしたのであった。


 だが問題もんだいはどこで附子ぶす(トリカブト)を栽培さいばいするかであった。


 芥川あくたがわ元珍もとつら薬園奉行やくえんぶぎょうとして管理かんりする薬園やくえん小石川こいしかわやくえんだが、芥川あくたがわ元珍もとつら一人ひとり管理かんりしているわけではなかった。


 小石川こいしかわ薬園やくえん東南とうなん西北せいほくけられ、そのうち芥川あくたがわ元珍もとつら西北せいほく管理かんりし、一方いっぽう東南とうなん岡田左門おかださもん忠政ただまさによって管理かんりされていた。


 つまり薬園奉行やくえんぶぎょう二人ふたりいるわけで、しかも各々おのおの管理区域かんりくいき明確めいかくへい仕切しきられているわけではなく、それゆえ芥川あくたがわ元珍もとつらおのれ管理区域かんりくいき西北せいほくにおいて附子ぶす(トリカブト)を栽培さいばいしようものなら、相役あいやく―、同僚どうりょうとして東南とうなん管理かんりする岡田左門おかださもん気付きづかれるおそれがありた。


 それではどうすればいか。そこでやくったのが治済はるさだの「洗脳せんのう」をけた大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださと正木まさき康恒やすつねであった。


 二人ふたり西之丸にしのまる当番とうばん利用りようして、西之丸にしのまるにおいても徐々じょじょに「同士どうし」を、すなわち、


家基公いえもとこう成代なりかわり、豊千代とよちよぎみ次期じき将軍しょうぐんに…」


 そうこころざしおなじくするものを、さしずめ「仲間なかま」をやしていったのだが、そのなかにはそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよしふくまれていた。


 小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの右兵衛尉うきょうえのじょう茂承もちつぐ水上みずかみ美濃守みののかみ興正おきまさともに、そば用取次ようとりつぎとして次期じき将軍しょうぐん家基いえもと側近そばちかくにつかえていた。


 だが家基いえもとはそのなかでもこと水上興正みずかみおきまさ寵愛ちょうあいしていた。


 無論むろん小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐとおざけていたわけではないが、しかし家基いえもとそば用取次ようとりつぎなかでは比較的ひかくてき水上興正みずかみおきまさしたしく語合かたりあうことがおおかった。


 はらってはなせる相手あいてとでも言えようか、それは鷹狩たかがりにおいてもそうであった。


 家基いえもと鷹狩たかがりにはそば用取次ようとりつぎ扈従こしょうするわけだが、その全員ぜんいん扈従こしょうするのではない。何人なんにんか「のこりばん」としょうして、西之丸にしのまる留守るすあずかる。


 その「留守番るすばん」だが、小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐであることがおおかった。


 うらかえせば水上興正みずかみおきまさ家基いえもと鷹狩たかがりに扈従こしょうすることがおおかった。


 いや家基いえもと寵愛ちょうあいするのは水上興正みずかみおきまさだけではない。ひらそば大久保おおくぼ志摩守しまのかみ忠翰ただなりおなじく大久保おおくぼ下野守しもつけのかみ忠恕ただみをも寵愛ちょうあいしており、それがとく小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ不満ふまんたねであった。


 それと言うのもそばしゅうなかでも小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ二人ふたり水上興正みずかみおきまさともにその筆頭ひっとうである用取次ようとりつぎねており、一方いっぽう大久保おおくぼ忠翰ただなり大久保おおくぼ忠恕ただみ二人ふたりはと言うと、ヒラのそばしゅうぎない。


 にもかかわらず、家基いえもとからの寵愛ちょうあいというてんにおいて小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ二人ふたり本来ほんらい格下かくしたであるはず大久保おおくぼ忠翰ただなり大久保おおくぼ忠恕ただみ二人ふたりにまでけており、それが不満ふまんたねとなっていた。


 そのことは松平まつだいら忠郷たださとにしろ、正木まさき康恒やすつねにしろ西之丸にしのまる当番とうばんおり当人とうにんから度々たびたびかされたものである。


 そこで松平まつだいら忠郷たださと正木まさき康恒やすつね二人ふたりかりで小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐの「洗脳せんのう」にかかった。


 具体的ぐたいてきには家基いえもと寵愛ちょうあいほしいままにしている水上興正みずかみおきまさや、さらには格下かくした大久保おおくぼ忠翰ただなり大久保おおくぼ忠恕ただみたいする不満ふまんを、家基いえもとそのひとたいする不満ふまんへと「昇華しょうか」させたのだ。


 そのさい小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ一橋ひとつばし治済はるさだにも引合ひきあわせ、


豊千代とよちよ次期じき将軍しょうぐんであったならば、そなたたちを粗略そりゃくにはせぬものを…」


 治済はるさだ小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐにそうささやいたのだ。それも一度いちど二度にどではなく、幾度いくたびもであった。


 それで小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ二人ふたりついに「陥落かんらく」、治済はるさだに「洗脳せんのう」されて、「謀叛むほん」への協力きょうりょくちかったのだ。


 そのさい小笠原おがさわら信喜のぶよし協力きょうりょく附子ぶす(トリカブト)の栽培さいばいにおいておおいに役立やくだつことになった。


 それと言うのも芥川あくたがわ元珍もとつら管理かんりする西北せいほく薬園やくえん小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきせっしていたからだ。


 しかも堅固けんごへいによって仕切しきられていたので、小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきなれば附子ぶす(トリカブト)を栽培さいばいしたところで、薬園やくえん東南とうなん管理かんりする岡田左門おかださもん気付きづかれるおそれもない。


 こうして附子ぶす小笠原おがさわら信喜のぶよし下屋敷しもやしきにて芥川あくたがわ元珍もとつらによって栽培さいばいされることになった。


 こうして大量たいりょう栽培さいばいされた附子ぶす(トリカブト)と魚市場うおいちばにて仕入しいれた河豚ふぐ、その河豚ふぐから抽出ちゅうしゅつしたどくとをもっ小野おの章以あきしげは「実験じっけん」を繰返くりかえしたのだ。


 それも「人体実験じんたいじっけん」である。そのため治済はるさださらに、一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりのある先手さきて鉄砲てっぽうがしら清水しみず典膳豊春てんぜんとよはるおよ先手さきて弓頭ゆみがしら中島なかじま久右衛門きゅうえもん二人ふたり無宿人むしゅくにんがりめいじたのだ。


 清水しみず典膳てんぜんはここ一橋家ひとつばしけにて老女ろうじょとしてつかえる岡村おかむら縁者えんじゃ、それも本家ほんけすじたり、一方いっぽう中島なかじま久右衛門きゅうえもん実弟じってい荘蔵しょうぞう胎之はつゆき治済はるさだ家臣かしんであった。


 その二人ふたり無宿人むしゅくにんがりめいじたのは勿論もちろん人体実験じんたいじっけんためである。


 どれだけのりょう附子ぶす(トリカブト)と河豚ふぐどく夫々それぞれ投与とうよすればのぞみの遅効性ちこうせいられるのか、それをるには人体実験じんたいじっけんかぎり、それには無宿人むしゅくにん一番いちばんというわけで、無宿人むしゅくにんがりをさせたのだ。


 だが人体実験じんたいじっけんともなるとおおくの「りょう」をこなさなければならず、流石さすが小野おの章以あきしげ一人ひとりにはあまる。


 そこで治済はるさだ今一人いまひとり医者いしゃ遊佐ゆさ卜庵信庭ぼくあんのぶにわ協力きょうりょくさせることにした。


 遊佐ゆさ信庭のぶにわくだん老女ろうじょ岡村おかむらによっておとうと荒二郎あらじろう信鷹のぶたかともそだてられ、荒二郎あらじろういまでは山名やまな名跡めいせきゆるされて、山名やまな荒二郎あらじろう信鷹のぶたかとしてここ一橋家ひとつばしけにて治済はるさだつかえていた。


 それゆえ遊佐ゆさ信庭のぶにわ清水しみず典膳てんぜん屋敷やしきへと―、役宅やくたくねた屋敷やしきへと出向でむいてそこで、かどわかされた無宿人むしゅくにんたちに附子ぶす(トリカブト)と河豚ふぐどく投与とうよし、人体実験じんたいじっけん繰返くりかえし、小野おの章以あきしげ同様どうよう中島なかじま久右衛門きゅうえもんのその役宅やくたくねた屋敷やしきへと出向でむいては無宿人むしゅくにん相手あいて人体実験じんたいじっけん繰返くりかえしたのであった。


 こうして医者いしゃ小野おの章以あきしげ遊佐ゆさ信庭のぶにわによって人体実験じんたいじっけん繰返くりかえされた結果けっか昨日きのうようやくに治済はるさだ待望まちのぞんだ「研究けんきゅう成果せいか」がられ、小野おの章以あきしげがその「成果せいか」を治済はるさだつたえるべく、ここ一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきへとあしはこんだ次第しだいである。


 ちなみに遊佐ゆさ信庭のぶにわはただの医者いしゃではなく、おもてばん医師いし幕府ばくふつかえる医官いかんであり、今日きょう当番とうばんであったので、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきへとあしはこべず、そこで小野おの章以あきしげに「研究けんきゅう成果せいか」の「発表はっぴょう」を一任いちにんしたのであった。


 こうして小野おの章以あきしげは「研究けんきゅう成果せいか」を、すなわち、朝食ちょうしょく如何いかほど附子ぶす(トリカブト)と河豚ふぐどくとを家基いえもと投与とうよすれば、家基いえもと鷹狩たかがりのさいどく効目ききめあらわれるか、その分量ぶんりょう詳細しょうさいしたためられている書付かきつけわたした。


成程なるほどのう…、いや、じつ苦労くろうであったな…」


 治済はるさだ書付かきつけとしつつ、小野おの章以あきしげろうねぎらうや、


「あとは…、如何いかにして家基いえもとめにどくふくませるかだのう…」


 そうつぶやいた。


 


 

 


 


 

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