第7話
丸々一クラス分の生徒がいなくなった。生徒だけでなく、担任の教師もしばらくして姿を消した。その知らせを聞いたとき、間際は顔を顰めた。
そのクラスの生徒達には謹慎に追いやられた恨みもあるが、それ以上にそんな人数の人間が行方不明になっている大きな事件への懸念が大きかった。
「一体何が起こったというんだ……」
とある雨の日、彼は買い物ついでに中学校の前を歩いた。
たくさんの水溜まりを乗り越え、中学校を見上げると、あの件のクラスと同じ学年の教室は電気が付いていなかった。
学年閉鎖だろうか。ほとぼりが冷めるまでは生徒を家から出さない方針なんだろう。
こんな時に教壇に立てない自分を不甲斐なく思う。生徒が作った画像を信じて謹慎を言い渡してきた学校にも罪はある。
正直言えば、そのきっかけとなったクラスメイトが居なくなったことに安堵してしまっている。馬鹿は死んでも治らないとはよく言ったもので、彼らに更生の余地は見えなかった。
しかし、それでも更生させるのが教師の役目だ。
「それを……私がする暇はなかった」
そう、しとしとと降る雨の中で呟いた。何も出来なかったことの言い訳と、その現実を自らに突きつける残酷な呟きが、彼の心に永遠に残る爪痕を作り上げた。
そう、向き合わなければならない心の傷に、彼がため息をついていると、ふと誰かが呼ぶ声がした。
「……間際先生」
彼は声のするほうを振り返る。そして、いつもは細い目をはち切れんばかりに見開いた。
雨の中、傘もささずに佇んでいたのは──
「上水戸、瑞希……」
「はい、先生」
片腕をなくし、雨に濡れながらも微笑んでいる瑞希が立っていた。
微笑みなんて彼女がしているところを見たことがない。その笑みの理由は分からないが、彼女の中で何かがふっきれたことはよく分かった。
しかし空を覆う雲のせいか、その微笑みは仄暗く薄気味悪く感じた。
「君は……どうしてここに……その腕は……」
「ここにいるのは、先生にお礼をと。腕は……ただあなたに忘れないで貰いたい、という理由で」
瑞希は肘から先を失った左腕を持ち上げて苦笑した。その意味するところは、これが子供のすることであると、唯一自分を救おうとしてくれた大人への答えだ。
そしてそれは、大いなる闇へ打ち勝ったのだと、示すための勲章でもある。
「今日のことを忘れないで。こんな雨の日が、もう来ないことを、願って。」
「あ、あぁ……クラスの皆は……」
「──探すのは無意味です」
瑞希が言う言葉一つ一つに測りきれない陰鬱とした雰囲気がある。目を背けることすら躊躇われるほどの、最悪がそこにある。
血の香りがした。言葉から血の香りがしたんだ。顔を俯かせて、それでも尚、今までとは違う清々しい笑顔を浮かべた彼女を、誰も咎められない。
彼女がしたことに確証が無くとも、間際がたった今辿り着いた推測は、ほとんど現実と大差ない。彼の顔が歪み、一人の人間として、瑞希の愚行に絶望した。
「もしかして……君は……!!」
「──先生、私を助けようとしてくれてありがとうございました。そのことから学べたことは……」
瑞希は間際の横を通り過ぎる。深い水溜まりに躊躇無く足を踏み入れて、びしょ濡れになりながらも顔だけは晴れていた。
すれ違いざま、少しだけ振り向いた彼女の言葉は
「私は、どうやっても助からない、ということ」
逃れられない運命への悪態を、助けようとしてくれた大人に吐き捨てて、彼女は雨の中に消えていく。
間際はその背中を見る事も出来ず、ただひたすらに湧き出る後悔に打ちひしがれて、その穏やかな雨に溺れてしまいたいと願ったのだった。
~~~
瑞希の母親は生きている。
白亜に殺すことを提案されたが、それを瑞希は断った。
「ふー……ふー……ふー……!」
母親は、瑞希を夫との繋がりとしか見ていない。されどそれは、母親の中で不要なものというわけではなく、むしろとてもとても大事なものだった。
行き過ぎた愛は歪み、娘に向けるにはあまりに強すぎる欲望を抑えきれずにいた。
それでも母親である彼女が人間として生きられていたのは、本人に対して欲望を吐き出すことができたからだ。大切なものが手元にある。その安心感だけが、彼女の支えであった。
───それを失ったら、どうなる?
「ああぁぁあ!!どこ!!どこに行ったの瑞希ぃぃいいい!!!」
身体中を引っかき傷だらけにした初老の女。正常な判断もできず、人間としての価値を失った彼女に手を差し伸べるものなど誰もいない。
ただひたすらに、毎日発狂を続けて、精神が壊れていく音を聞いている。
それが瑞希ができる、母親への最大の効果を持つ攻撃であった。
~~~
住んでいた場所を、大好きな人と一緒に移して、その人と一緒にいるための努力は惜しまなかった。
子供には分からない戸籍や証明書の発行などなどは、今一番信用できる大人がやってくれている。
今はそう、人生の夏休み。
人生の次のステージにあがるための準備期間。残された長い時間を、瑞希は大好きな人のために使う。
「んぅ……」
「可愛い声」
朝に見せてくれる眠気まなこも、昼に聞かせてくれる元気な挨拶も、夜にしてくれるじゃれあいも、全部含めて大好きだった。
洗脳と言われても構わない。これが幸せであり、生きる意味であると、瑞希は確信している。
だからもう朝は嫌いじゃない。いつだって隣に、大好きな人がいるから。
「これからもずっと、一緒にいなさい。あなたが好きなことをするように、私も好きなことするから」
傲慢な言い草なのに、隠しきれない優しさがあって、毎日毎日知らない彼女を知っていって、その全てを愛した時、瑞希は彼女のものになる。
指を甘噛みして、足を絡めて甘えてくる愛しいその人の額に自分の額を合わせて、瑞希はこの世界で誰よりも幸せそうに微笑んだ。
「うん、喜んで」
たくさんの罪と闇を背負って、上水戸瑞希は、上水戸瑞希という人間の新たな生を歩み始めたのだった。
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